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官能小説 【完結】Sweet of edge〜恋と愛の間で揺れてみて〜 1話
出会いの瞬間
こんな日にヒールなんて履いてくるんじゃなかった。
ピンヒールを鳴らしながら、春は地上へと続く階段を急いでいた。
無機質なヒール音が春の苛立ちを加速させる。
今日は朝から大切な会議が入っていた。どんな理由があっても、遅刻するわけにはいかない。
大学を卒業してから正社員として働いていた会社を辞めて、なかなか再就職先が見つからなかった春を、派遣社員としてようやく拾ってくれたのが今勤めている会社だった。
階段を駆け上がり地上に出ると、温かな風が春の頬を撫で、彼女のロングヘアとスカートをそよがせた。陽射しも穏やかで心地良い。
母親から電話がかかってさえこなければ、のんびりと街路樹の下を歩けたのに、と溜め息をついた。
大通りは会社へと向かうスーツ姿の男女で溢れている。こんなにも多くの人たちがこの街で働いているのかと思うと、不思議な気持ちになった。
けれど、春のように急いでいる人は見当たらない。
春の勤めている会社は駅から少し離れていた。
会社に一番近い駅は別にあるのだが、交通費の出ない派遣社員は少しでも安いルートを選ぶことが多い。春もそのうちの一人だった。
自宅の最寄り駅の路線を考えても、やはり今使用しているルートは外せない。
だから、今日のようにやむを得ず家を出る時間が遅れてしまえば、走らざるを得ないのだ。
勿論、普段は始業三十分前には会社に着くようにはしているが、今日の遅れはそれを遥かに上回るものだった。
息を切らし、肩を上下させながら、春はピンヒールを鳴らして走る。こんな風に走ってしまったらヒールが傷むのに、と思いながらもスピードを落とすことなく急いだ。
会社のビルが見え、ほっと胸を撫で下ろす。安堵して腕時計に目をやったその時だった。
春を衝撃が襲った。同時に臀部に鈍い痛みが走る。
誰かにぶつかり、そのまま後ろに尻もちをついてしまったのだ。不安定なピンヒールを履いているのだから、無理もない。
「いったぁ……」
春の口をついて最初に出た言葉に呼応するように男の声が聞こえた。
「いってぇ……」
どうやら、ぶつかった相手は男だったらしい。
春は顔を上げ、声のした方を見た。すると、天然パーマにスーツ姿の男が春と同じように尻もちをついているのが目に入った。その男の周りには、A4用紙が散らばっている。近くに大きな茶封筒が落ちていることから、茶封筒に入っていた書類がばら撒かれているのは明らかだった。
「どこ見てんだよ」
男は春を見るなり、不機嫌そうに言った。
「ごめんなさい」
「ああ、もう……。資料が……」
男は大きく溜め息をつくと、散らばった資料を拾い始める。
いつもの春なら迷わず一緒に拾っていただろう。しかし、今日の春は違った。遅刻寸前で急いでいる。
「ごめんなさい。とても急いでいるの」
春は立ち上がり、それだけ言い残すと、再び会社に向かって走り出した。
「えっ? 嘘だろ?」
男の声が背後から聞こえてくる。
けれど、春は聞かなかったことにして走った。
今ここで男の資料を拾うのを手伝えば、絶対に遅刻する。それでなくとも、ぶつかったことで随分とタイムロスしてしまったのだ。
春は痛む臀部に気を取られながらも、更に走るスピードを上げた。
こんな日にヒールなんて履いて来るんじゃなかった。
春はもう一度そう思った。
始業のチャイム
急いだおかげで春はどうにか朝礼に間に合いそうだった。
エレベーターで髪の乱れを直し、ファンデーションで化粧崩れを抑え、グロスを手早く塗って、何食わぬ顔で部署のあるフロアで降りた。
エレベーターで誰とも一緒にならなかったのは、彼女にとって不幸中の幸いだった。
セキュリティーカードをカードリーダーに翳し中に入ると、何人かが春のことを見た。
隣の部署からも視線を感じたが、それもそうだろう。
始業開始まで一分を切っていた。
春が自分の席に着くと、ちょうど始業のチャイムが鳴った。
今日の朝礼の担当者が前に出て行く。それを見ながら、春は息を整えていた。
朝礼は部署ごとに行われる。他の部署はどうだかわからないが、春のいる部署は簡単な小話をして、挨拶をするという至って簡単なものだった。
正社員が持ち回りで行うだけで、派遣社員の春のところにその順番は回ってこない。
話上手な人にはなんてことないものだろうが、話下手な人にとっては地獄のような当番だろう。
自分にはその順番が回ってこないことに春はほっとしていた。
朝礼が終わり、席に着くとパソコンを起動させる。
春の仕事はアパレルショップを経営する会社の第一営業部の営業事務だった。基本的なパソコン操作が出来れば特に問題はない。営業が使う資料の作成や企画書を作るのが主な仕事だ。
会議の時間まではあと十分ある。メールを確認して、すぐに会議室に移動しなければならない。
春は急いで自分宛てのメールに目を通すと、筆記用具と会議のレジュメを持って、会議室へと向かった。
ちょっとした休憩時間
会議を終え、席に戻ると、春は黙々と自分に与えられた仕事をこなしていく。決められた文字を決められた場所に打ち込んでいく単純な作業だ。
単純な代わりにスピードと正確さが求められる。クリエイティブとは程遠い仕事だった。
正社員で働いていた頃の春は服飾デザイナーだった。
デザイナーの仕事も事務の仕事もどちらも好きだし、自分に向いているとも思う。けれど、あのままデザイナーを続けていたら、今頃どんな人生だっただろう、と思わずにいられないのも事実だ。
春はパソコンのディスプレイの右下に表示されている時間を見た。午前中の折り返し地点だ。
昼休憩までまだ時間がある。
春は化粧ポーチを持ち、トイレに立った。喫煙しない春にとって、ちょっとした休憩時間だ。
ずっとパソコンの画面を見続けると、さすがに目が痛くなるし、集中力ももたなくなってくる。
化粧直しをして気持ちを切り替え、そして、仕事に戻るのが春の日課だった。
春がトイレで化粧直しをしていると、後輩の桃が入って来た。
桃は正社員だったが、直属の先輩とよりも春と仲が良い。
「春さん、やっぱりいたー!」
桃は春の姿を見つけるなり、にっこり微笑む。いつだって笑顔を絶やさず、小動物のようなしぐさが可愛らしい桃に、春は思わず笑みをこぼした。
「桃も休憩?」
「はい! ずーっとパソコン見てると疲れちゃって。それに入力作業って向いてないんですよね」
「元々、営業志望だっけ?」
「そうです。内定も営業でもらったんですけど、事務の人数が足りないからって事務に回されちゃって」
桃は唇を尖らせる。
「次の査定で営業に行けるといいね」
「無理だと思いますよ。うちの会社、女性の営業少ないし。査定の度に上司には希望を出し続けてますけど」
桃はそう言って肩をすくめた。
桃も春の隣で化粧ポーチを広げて、化粧直しを始める。
ポーチには桃が愛用しているコスメブランドの商品がたくさん入っていた。桃の使うグロスの甘い匂いが漂う。
「いい匂いだね」
「
ヌレヌレ っていうグロスなんですよ。匂いも甘くて、唇もツヤツヤになるし、超オススメですよ!」
桃は嬉しそうに答えた。こんな笑顔で話しかけられたら、どんな男も一発で落ちてしまうだろう。桃が男性社員に人気があるのもよくわかる。
「あ、そうだ。春さん知ってます? 第二営業部の夏野さんの話」
「ううん、知らない」
「第二営業部の夏野さん、美人で有名な総務部の中条さんのこと振ったらしいですよ」
「付き合ってたの?」
「いえ、中条さんの片思いだったみたいです」
「へぇ……」
「あれ? あんまり興味ないですか?」
「だって、二人とも知らないもの。あ、でも、夏野さんは見かけたことあるかな」
「隣の部署ですからね」
「それじゃあ、私、先に行くね」
先に化粧直しを終えた春は化粧ポーチを閉めた。
「はーい。それじゃあ、またランチで」
「うん、またあとでね」
春は自分の席に戻り、仕事を再開する。この少しの息抜きをするかしないかで、仕事の能率が随分違う気がした。
「あの、玖波さん」
名前を呼ばれて、春は手を止めて振り向いた。
「はい」
「悪いんだけど、これを人事部に提出してきてもらえるかな?」
男性社員がクリアファイルに入った書類を差し出した。
「わかりました。行ってきますね」
そう言うと、春は書類を受け取り立ち上がる。
人事部は十一階にある。春のいる四階のフロアからエレベーターに乗る必要があった。
エレベーターに乗ると、階数のボタンを押し、続けて閉ボタンを押した。
エレベーターのドアが閉まろうとした瞬間、再び開く。
誰かがエレベーターの向こう側でボタンを押したのだろう。
エレベーターのドアが開くと、そこに立っていたのは夏野だった。
あらすじ
春は以前勤めていた会社を辞めてから、
なかなか再就職先が決まらずにいた。
それをようやく拾ってくれたのが、今勤めている会社だった。
――今日は朝から大切な会議があり、
遅刻する訳にはいかなかった。
ピンヒールを鳴らしながら、春は地上へと続く階段を駆け上がる。
春の勤めている会社は駅から少し離れていた。
会社の最寄り駅は別にあるものの、
派遣社員として働いている春にとって、
交通費は少しでも安い方がいい、と今のルートは外せなかった。
会社のビルが見え、安堵したところ腕時計に目をやると…。