久住の唇がうなじから乳房へと這わされていく…
優雅な久住のどこに、こんな荒々しい動物的な力が潜んでいたのだろう。
久住の指が湿った密やかで敏感なところへと忍び寄る。
「お願い…」とあえいだが、私は久住の体を突き放した。
「どうして?」
久住の前髪が崩れた。 荒い息を整えながら、私は久住を見つめた。
「一線を越えてしまうと……あなたのことがとても好きになってしまって、
もう後に戻れなくなりそうなの…それが怖いの」
「素子…」
久住は私を抱いた。そっと包み込むように。
彼のシトラスコロンの香りに包まれながら、いとおしさがこみ上げてきた。
久住は既婚者だった。
子供はいないが、妻も音楽関係者で、
ほぼ別居状態だというが、
私を愛しているからといって、妻と別れるとは思えなかった。
それよりも、彼を受け入れてしまうと、
愛人のままで生きようと決心してしまいそうな自分が怖かった。
好きだけど、怖い…
怖いけど、一番愛している!誰が何と言おうと。
既婚男性を好きになって彼のために生きたいと思うのは、罪なのだろうか?
素子の心は左右に頼りなくやじろべえのように揺れていた。
久住への愛が苦しくなって、力を抜きたいと友達の由紀を誘って、
紅茶のインストラクターの講習を受講した。
大好きな紅茶の世界は、私を夢中にさせた。好きなことをやっていると本当に幸せだ。
久しぶりにはしゃいだ私はミノルという男性に誘われるままに、 由紀と三人でカフェへ入った。
ミノルはベンチャー企業の社長で26歳。二つ年下だった。
「ヨーロッパで人気のパティシエのお菓子を逆輸入する会社で、
本格的なヨーロッパ菓子を届けたい」
ミノルの口調に力と熱がこもって、何だか強がっているようだ。
それが年下男の可愛らしさなのかもしれない。
由紀が途中で席を立って化粧室へと向かった時に、すかさずミノルが
「デートしようよ」
と単刀直入に申し込んだ。
ベリーショートの年下男の野性的な顔立ちに、NOと言わせない強引さがにじみ出ていた。
「デートってどこ?」
ちょっとノッたフリして、もしウザイ場所なら、すぐに断ろう、と私。
「品川の水族館はどう?」
「水族館?」
ぷーっと噴出すと、ミノルはちぇっ、と口を尖らした。
予想外の可愛いデート場所でOKサインを送りたかったが、もったいをつけたくなった。
「いつ何時にデートするの?」
「今度の土曜日、午前11時」
まるで暗号のよう!何て素敵な約束事!
ここ数年、デートはいつも夜だった。
興奮を抑えて、年下男の前で私はゆっくりと「いいわよ」と余裕の微笑を浮かべた。
品川水族館の魚達は、よく見るとユーモラスな顔をしていた。
水槽には様々な光が乱反射して、魚達がゆったりとたゆたいながら列を作って、
まるでダンスをしているように目の前を通り過ぎていく。
水面から天井へ向かう光のラインに沿って、魚たちも輪になりながら、ゆらゆらしていた。
日常からかけはなれた夢のような世界だった。
「魚たちのマイペースぶりを見ていると、
俺はこれでいいんだって、自分を肯定したくなるよ」
と呟くミノル。
年下男の可愛らしさは消え、闘う男の静かな闘志がみなぎっていた。
別れ際のミノルはさよならと手を振った後で、ポケットからさっとサングラスをとってつけた。
水族館での無邪気な遊びの時間は終わり、男の背中は再びビジネスへと向かう。
携帯メールの着メロが響いた。
『羽田に着いた。会いたい』
久住からだった。胸の高鳴りを抑えながら、駅の化粧室で仕上げにスウイートオレンジのグロスをつけた。
今夜何かが起こりそうだった……