バレンタインが近づくと、女性サイトのコーナーに
読者からの恋の悩み相談が増えてくる。
毎週500以上ある投稿から一つだけチョイスして、
恋愛アドバイザーに要約して伝え、
そのコメントをサイトに掲載するのが私の仕事だ。
でも時には読者のきわどい描写にたじたじとなる。
「これなんだぁ?」
後ろから神埼先輩が大きな声を出した。
「あえぎ声が隣の部屋まで聞こえてしまって…」
私はあわてて振り向いて、先輩が読者投稿の一部を読み上げるのを止めた。
「それ、読者投稿の一部です。声をあげて読むなんて〜!」
先輩はデスクの書類シートから抜き取ったのだ。油断もスキもない。
「俺に見つかるところに置いていたのが悪い」
神崎先輩はニヤリと笑った。口は悪いが、丸顔で笑うとエクボが浮かぶ。
いわゆる憎めないタイプなのだ。
「残業なし。今日は美味しいビーフシチューを食いにいくぞ」
と私の都合も聞かずにさっさと立ち去った先輩。
後姿をうらめしそうに睨んでやった。
先輩が抜き取ったプリントの文章を一目見るなり、
私は急いで厳重に書類シートへしまった。
それには、こんな描写が描かれていた。
「隣の住民がドンドン壁を叩いて抗議するのを面白いと
彼はますますエスカレートして、
クンニして体位バックで後ろから入れてクリトリスを擦って、
乳首も指でつまんで、ああ、いきそうとまた声が大きくなり……」
気分転換に洗面所へ。
マンダリンオレンジのヘアパフュームを毛先に
つけてふいーと鏡の前で深呼吸した。
神崎先輩は私よりも9歳年上の35歳で、既婚者。
営業畑のエリートだった先輩が、
私と同じ携帯コンテンツ制作部門へ異動したのは1年前。
一人息子を交通事故で亡くしてからだった。
歓迎の二次会で「お前に女を感じない。楽だ」と酔いつぶれてしまった。
いい気なものだと気分を害したが、
家庭危機を知ってから先輩も私と同じように
過去の幸せにしがみついているのかと、少し同情するようになった。
私は4年前にタイの王族、チン・ジャンと
アメリカで夢のような恋愛をして、2年前に別れた。
お互いに嫌いで別れたわけではなかったので、
はがゆい恋心がしばらく心の中でくすぶっていた。
昔の男を忘れるには新しい恋が最適と思いながら、
仕事を理由にさぼっていた。
本当は彼氏などいらないのかもしれない。
神崎先輩は虎ノ門にあるビルの地下の洋食屋に連れて行ってくれた。
テーブル席が5つとカンター席しかない小さな店だったが、
シチューはとても美味しかった。
店が込んできたのですぐに近くのショットバーに
先輩と移動して飲んでいたら、さっきの洋食屋のコックがやってきた。
がっしりした体格で和風顔のその男性は
「野村哲也です」
と自己紹介しただけで私達の話に時々相槌を打ち、黙って飲んでいた。
喜怒哀楽がすぐに顔に出る先輩とは対照的で、
どこか人を寄せ付けない雰囲気があった。
夜には雪になるという天気予報を思い出して、
「送っていくぞ〜」という先輩の好意を振り払って私は先に店を出た。
粉雪がちらついていた。
東北沢の駅に着くとボタン雪が降ってきた。
足をすくわれないように注意して歩き出したら、
携帯電話が着信。神崎先輩だった。
「頼む!一生のお願いだ!野村とつきあってくれ」。
「は?会ったばかりの人と?冗談でしょ」
「あいつにまた妻を奪われそうなんだ。頼む」
神崎先輩は完全に冷静さを欠いていた。
支離滅裂な先輩の言葉をつなぎ合わせると、
結婚前に奥さんを野村さんに奪われ、取り戻して結婚したけど、
一人息子が交通事故で亡くなって以来、
奥さんの心がまた野村さんに傾いているのだという。
「野村の好みはナツミなんだ。つきあってくれ」
妻を奪われたくないから付き合えって?
ひどい話だ。しかも男として情けない。
先輩を軽蔑しそうになったので、
あわてて私は「遅いので」とやんわりと断って家路を急いだ。
雪明りに続く道が家々の光に照らし出されて、
幻想的な風景が広がっていた。
アパートの前に着くと、傘をさしている人影が動いた。
警戒して後ずさりすると、
「ナツミ、僕だよ」
と懐かしい声が雪の中で響き渡った。
「チン・ジャンなの?」
昔の男が雪の中でゆっくりと頷いた。