「ナツミ、久しぶりだね」
浅黒いチン・ジャンの顔が雪明りで揺れていた。
瞳の輝きと形の良い鼻すじは昔のままだった。
「どうしてここへ?」
「実は今日の午後、成田へ着いたんだ。
明日連絡をするつもりだったけど、これ」
と花束とCDを渡した。
「ホテルの花屋でみつけたウィンターコスモス。
すごく綺麗だからナツミにプレゼントしたくなって。それから美しい曲も」
初めて見たウィンターコスモスの可憐な美しさに、
私は心を打たれた。
雪明りに照らされ、ホワイトの花びらを縁どる輪郭が
きらきらと光っている。
「連絡してくれたらよかったのに」
眉をひそめた私に、チン・ジャンは微笑んだ。
「留守でもいいからこの綺麗な花だけ届けたくなった。
でも雪が降ってきたらナツミのことが心配になったんだ。
雪に足をとられて転ばないように、帰りを待っていたんだよ」
「あなたって人は」
チン・シャンはいつでも優しい。
でもその優しさが私を傷つける。
「じゃあね、ナツミ、おやすみ」
といつものようにチン・ジャンは
爽やかに手を振りながら去っていこうとした。
「待って、チン・ジャン」
チン・ジャンは振り返った。
「もうこんなことは止めて。あなたが別れると言ったのよ。
それなのにアメリカの時と同じように花束を持ってくるなんて…」
「……ごめんね、ナツミ。もうここへはこないから」
チン・ジャンは優しい口調で謝った。
そして私のコートの肩に舞い降りる雪を払いのけてくれた。
優しい仕草で。
彼の胸に飛び込み、思い切り泣きたい。
ふと私は強い衝動に襲われた。
「君を傷つけてしまったね。ごめん」
「バカ、あなたはバカよ!」
いつのまにか熱い涙が頬を伝わった。
でも拭いもしないで、私は彼の腕を打った。
朝方に目が覚めると、窓から伝わる雪の音が消えていた。
涙の跡が乾いていた。
チン・ジャンからもらった花束とCDがテーブルの上に
置きっぱなしになっていた。
昨夜、チン・ジャンは黙って私に打たれるままになっていた。
彼は聞き分けのない子どものような私を
そっと優しく抱きかかえて、部屋まで送ってくれた。
私は一人ベッドで泣いて、そのまま寝入ってしまった。
花束を手にすると、チン・ジャンとの思い出が鮮やかに蘇ってくる。
大学3年の秋に留学したスクールで、
タイの王族の風格と気品を兼ね備えていた彼は、
女性達からのあこがれの的だった。
ある朝いきなりチャイムの音で目が覚め、
玄関のドアを開けると、チン・ジャンが大きな花束を抱えていた。
散歩の途中の花屋で見つけたと手渡して、
爽やかに「じゃあ」と帰っていった。
朝の光の中で輝く彼の笑顔に魅了されて、
私はたちまち恋に落ちてしまったのだ。
初めて彼の家へ招かれたときも、
シルクのカーテンに深紅の手編みの絨毯のダイニングで
次々と運ばれるタイの豪華な料理の数々に驚き、
そしてディナーの間中、タイから連れてきたという演奏家が
奏でてくれたロマンチックな音楽に酔いしれた。
それから彼の部屋へ。夜空には満月が煌々と輝いていて、
風がそよそよと頬に心地よかった。
チン・ジャンは両手で私を抱え、ベッドに連れて行ってくれた。
シルクのシーツに包まれてうっとりしている私に、
ゆっくりとキスをした。
彼の熱い思いが伝わってきて、
いつのまにか彼の背中に腕を回して激しく求めていた。
チン・ジャンは静かに私の服を脱がせ、
全裸になった私を強く抱きしめた。
月の光がシルクのカーテン越しから漏れたとき、
彼も全裸になり、私達は抱き合った。
乳房にキスされ、思わず「あ」と小さな叫び声をあげた。
私の唇が彼の唇に塞がれたまま、
彼の熱いものが私の体へ入っていた。
初めての時のように私の体が弾み、激しく体をくねらせながら、
甘い陶酔へと導かれた。
チン・ジャンと別れた雪の夜以来、
私はいつも不安定な氷の上を歩いているような感覚でいっぱいになった。
そんな自分を否定したくて、
異業種交流会や合コンへ頻繁に出かけたが、恋は落ちてこなかった。
そんなある日、
会社の帰りに電車の中でアジア系の男性に絡まれてしまった。
車内の人たちは冷淡だったので、有楽町で停車したときに、
男を振り払って逃げた。
駅の階段を降りると、手がかじかみそうなくらい寒かった。
急に空腹感を覚えて、
私は突然野村さんのシチューが食べたくなった。
不思議なことに、空腹感が高まるたびに、
野村さんと神崎先輩、奥さんの三人男女の関係にも大いに興味が沸いてきた。