野村哲也さんの部屋に招待されたのは、桜が芽吹く頃だった。
男性の部屋へ入ると覚悟して、新しいショーツとブラを選んだ。
白地にピンクのリボンというお揃いの下着で、
脱がされることを想像しながら着けると、
2年ぶりに少しうきうきしてきた。
仕上げに誕生日に須藤由紀先輩からもらったハンドクリームで、
手の甲から爪先までマッサージ。
カモミールと柑橘系の香りがやさしく広がった。
雪の夜にチン・ジャンと別れてから3ヶ月。
今度こそ幸せな恋をつかみたい。
私は、はやる気持ちを必死で抑えた。
「ようこそ」と少しはにかんだ表情で、
野村さんは迎えてくれた。
部屋のインテリアはブラックアンドホワイトで統一され、
キッチンから鰹節の匂いが漂ってきた。
今夜は久しぶりに和食懐石を作るのだという。
「僕は下ごしらえの途中だから、音楽を聴いていて」
野村さんに勧められて、私はリビングにあるCDラックを探した。
オスカー・ピーターソンのジャズピアノから、カラヤン指揮のクラシック、
ポピュラーからオールディーズと幅広くしかも渋い趣味に、
野村さんのこだわりを感じた。
ふと、あるCDのところで手が止まった。それはあの雪の日に、
チン・ジャンから手渡された曲と同じだった。
一度も聴いたことのないこの曲を、私はこの部屋で聴きたくなった。
昔の恋を忘れてしまってワインを飲み干したら、
とささやくような声でボーカルが歌っている。
まるでチン・ジャンの心を映し出しているようだった。
切なくなって涙があふれ、バッグからハンカチを取り出して目頭にあてると、
いつのまにか野村さんがキッチンからやってきて心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
私はできるだけ笑顔を浮かべて頷いた。
今度こそ幸せな恋をつかみたい、と心の中で繰り返しながら。
2年前、日本を訪ねてきたチン・ジャンは私にきっぱりと別れを告げた。
「僕はこれから法律を勉強して弁護士になってタイの人達を救うよ。
それまで時間がかかるから別れよう。君は君の幸せを見つけてほしい」
すらすらと語る口調と一点の曇りもない純粋で素直な言葉に、
チン・ジャンの育ちの良さがにじみ出ていた。
でもどうして別れなければいけないのだろう。
待っていたいのに。
「待っているわ。あなたが弁護士になるまで」
「いや、それはいけない。君に無理をして欲しくないんだ。
僕も無理をしたくないしね」
チン・ジャンはあくまでもマイペースだった。
「好きなら、無理をすることだってあるわ」
「僕はそうは思わない。
無理をすれば必ず溝ができる。
愛はいつも緩やかなものだ」
両親の離婚が暗い影を落としているチン・ジャン。
だから灼熱の恋よりも穏やかな愛を望んでいた。
そのことがわかって、別れを受け入れたのに、
あの雪の日以来、また彼のことが好きになってしまった。
焦っていたときに、それまで全然眼中になかった
野村さんのことが、急に興味が沸いた。
奥さんを奪われそうだとびくびくしている神崎先輩を
情けないと思いながら、三人の関係を聞いているうちに、
野村さんが過去の恋をもてあましている私を、
新しい恋へと導いてくれるかもしれないという期待を寄せてしまったのだ。
ここでも私は野村さんに頼っていた。
野村さんの手作り懐石は懐かしい味がした。
DVDで映画を観てから、私達は自然にベッドへ。
野村さんの指がゆっくりと私の深いところを刺激した。
節々は硬いが、指先はやわらかくしなやかだった。
野村さんの背中に両手でしがみつくと、
ゆっくりとした動きで私の中へ入り込もうとした。
そのとき突然、チン・ジャンに抱かれている感覚が蘇った。
チン・ジャンは滑らかにすぅーっと私を抱きかかえて、
シルクのような肌さわりの褐色の皮膚を私の体に密着させた。
その瞬間、野生の匂いが漂い、私を貫通した。
すばやい動きは痛さと甘い陶酔をもたらし、
そのまま彼はしなやかに動き続けた…
野村さんの緩やかな動きで終わった後で、
私はそっと失望のため息をついた。
私は間違っていた。しかも取り返しのつかないことをした…
後悔でいっぱいだったその時、チャイムが烈しく鳴った。
野村さんが玄関へと向かうよりも早く、女性が入ってきた。
神崎先輩の奥さんだった。