「ナツミ、大変だったな」
神崎先輩が会社の廊下ですれ違いざまに、小声でささやいた。
「先輩こそ」
「俺はいいんだ。それよりも妻が突然乗り込んでびっくりしただろう」
そう言う先輩の顔が曇った。
「野村は妻が合鍵を持っていたとは知らなかったと言っている。
ナツミに謝りたいと」
「いいんですよ、そんなこと」
悪いのは私だった。
野村さんに抱かれていたときに、
チン・ジャンのしなやかな肉体を思い出したのだ。
それは神崎先輩の奥さんが突然訪ねて
鉢合わせになってしまったことよりも、
ずっと罪深いことだ。
私こそ、野村さんに謝らなければいけない。
野村さんから手紙が届いたのは、それから3ヵ月後のことだった。
軽井沢にある古いホテルに引き抜かれて、
いま野村さんはレストランのコック長だという。
夏休みに遊びにおいでと、豪華なディナー付きの宿泊割引券が入っていた。
手にとってみると何だか少し心が軽くなった。
私は承諾の返事を書いた。
8月の軽井沢駅に降り立つと、爽やかな風が歓迎してくれた。
都会の猛暑でくたびれていた私は深呼吸をした。
空も風も人も風景も、新鮮だった。
ホテルへ続く大通りを歩いていると、カルチャースクールで一緒の
篠原弓子が反対側の歩道で若い男性と親密そうに話をしていた。
古くて素敵なホテルは、外観から堂々とした風格が漂っていた。
イギリス調の家具がしっとりと溶け合う部屋の窓を開けると、
ガーデンでは、可憐な植物たちが静かな時間の中でひっそりと華やいでいた。
ディナーの前に軽くシャワーを浴びた。
お気に入りの石鹸で全身をパックすると、旅の疲れもとれた。
ディナーの時間に食堂へ降りていくと、
ほとんどの客のディナーが終わって、
私一人だけの遅い食事となった。
前菜から始まり、メインディシュのヒレ肉のイタリアンステーキ特性ソースがけと、
ミニビーフシチューに感嘆した。
グラスワインのおかわりが運ばれてくると、BGMの曲が変わった。
それはあの雪の中チン・ジャンから手渡されたCDの曲だった。
昔の恋を忘れてしまえばというフレーズが甘く切なく心に響いてきた。
あわててワインを一気に飲み干すと、
野村さんがコック服のままやってきて、ワインをついでくれた。
「美味しいです」
「それはよかった」
普段めったに笑顔を見せない野村さんが、
「よかったら後で一緒にワインを飲みませんか」
と陽気に誘ってきた。
バーのテラスに腰掛けて、星を眺めながら私達はワインを飲んだ。
そこでまたさっきのBGMが流れていた。心がチクチクと痛んだ。
夏のシャツに着替えた野村さんは以前よりも日に焼けて浅黒く、
熟した男性の色気が漂っていた。
……緩やかだったけど、私の中に入ってくる瞬間は激しかった。
終わった後も優しく「よかったよ」と言ってくれた。
それなのに落胆したのは、私が子どもだったからだろう。
二人で飲むワインが2本目になったときに、野村さんが
「神崎から僕達三人のことを聞いたらしいけど」
と私の瞳をじっと見つめた。
「どう思ったかな」
野村さんはグラスをテーブルに置いて、私の答えを待っていた。
「うらやましいと思いました」
そう言いながら私はワインを飲み干した。
神崎先輩と奥さんと野村さんは幼馴染で、
奥さんが二人の男性の間を揺れながら三人の月日が流れていった。
三人は私の知らない深い絆で結ばれているような気がした。
私の人生にはチン・ジャンしかいない。
夢のようにはかない恋しか私は知らない。
幼い私だけがぽっかりと空いた心をもてあまして、
三人の男女の間をウロウロしているだけだった。情けないのは私自身だと思った。
でも野村さんはそんな私に優しく語りかける。
「君の恋の話も聞きたいな」
と意外なことを口にした。再びワイングラスを傾けながら。
「君が僕達のことを知ってから彼女と別れられた。どうしてだと思う?」
野村さんの謎かけに、私は戸惑った。
「浄化されたんだ。好きな女性に過去を知ってもらって、
しかも否定されなかった」
野村さんは、私の手にそっと自分の手を重ねた。
「だから君も話してくれないか」
過去を知ってもらうと浄化されるーー
野村さんのその言葉に、あの歌の切ない歌詞が重なっていった。
恋の思い出の虜になっていたほろ苦さがこみ上げてきた。
歌詞が心の中でリフレンをすると、
昔の恋が終わったのは私のせいではないと感じた。
ワインレッドのような恋まで遠かったが、
新しい時間が私達の間を流れていった。