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小説サイト投稿作品70 「遅咲きプリンセス 前編」
「遅咲きプリンセス 前編」
〜LC編集部のおすすめポイント〜
地味でダサい…そんな自覚があるけれど、いまいちあか抜けきれずにいるOLの鈴木琴美。
ある日、突然リップグロスのモニターに選ばれて…?!
グロスを使って魅力的になった琴美は、あらゆる男性たちにキスされそうに…?!
危険な展開に襲われるものの、いつも助けてくれるのは同期であり、片想いの相手である菅野くんで…。
不器用な琴美の恋の行方が気になる作品です。
地味な私
「あっ…すみませんっ」
「あっぶねえ」
課長にお客様がお見えになったそうで、お茶とお茶請けをお盆に乗せて応接室に向かって歩いていた、会社の廊下、曲がり角付近。
向こうから曲がってきた社員の人と鉢合わせた私は、その彼と危うくぶつかりそうになり、とっさに謝りつつ、身をかわした。
お盆ばかりを見て歩いていた私も悪いけれど、社内の廊下は全て真ん中に線が引いてあり、
私は会社の規則通りに右側通行をしていたのだから、どちらかといえば「あっぶねえ」と言った左側通行の相手が悪いように思う。
とにもかくにも、もう一度、お茶を淹れ直すようなことにならずによかった、よかった。
課長は厳しい方なので、その点でも、「たかがお茶汲みだけでどれだけ時間がかかっているんだ」と、お客様の前で叱られることもない。そうして、ほっと胸をなで下ろしていると。
「つーか、今の誰?一瞬、幽霊かと思ったんだけど。あんな女子社員いたっけ?」
「うわ、ひっでー。てか、声デカっ」
「どうせ聞こえてねーだろ。幽霊なんだし」
と、一緒に歩いていたもう一人の社員とケタケタ笑い合う声が聞こえはじめて、私はぎゅっと下唇を噛みしめ、応接室へと歩調を早めた。
私ときたら、いつもこうだ。見た目が地味で、陰も薄いために幽霊扱いをされることは日常茶飯事で、
社内の人間関係でもそれ以外でも、休みの日に誰かと出かけるようなことも全くないし、誘いも受けない。
友人…と呼べるのかどうかは謎だけれど、一人暮らしの部屋でお世話している観葉植物が、今私が一番大事にしている相手だったりする。
私って、こう、今一つ、あか抜けない。
けして性格が暗いだとか、友人を作る努力を怠ってきたつもりでもないし、お洒落の勉強をしてこなかったというわけでもないと思う。
ただ、どうしても、あか抜けきれず、流行りのファッションやメイクに身を包んでみたところで、鏡の前の自分自身を見て「ナイわ…」と。
その一言に尽きてしまい、またいつも通りのダサい服に袖を通して出社する、そんな毎日だ。
「失礼します」
「ん。ここへ」
「はい」
応接室に着く前までに気持ちをリセットし、コンコンと2回のノックのあと、課長の「おう」という返事を待って、入室した。
あまりジロジロ見てはいけないけれど、お客様と課長に、それぞれお茶とお茶請けを出しているあいだ、なんとなくそちらに目が行ってしまう。
今日のお客様は初めて見る方で、年の頃、課長と同じ、30代半ばくらいだと思う。
何かスポーツをしているのか、肌は少し日焼けしていて、しわ一つない凛としたスーツの上からでもソフトに鍛えられたほどよい筋肉の様子が簡単に想像でき、無意識に頬が熱くなる。
顔はやや童顔で、少したれ目気味だ。
私がお茶を出している間も課長と談笑している彼は、笑うと右の口もとにだけ、えくぼが出るようで、それがとても可愛らしい。
髪は黒の短髪だった。ワックスで無造作にまとめていて、そのワックスの香りか、香水の香りか、近くに寄ったときにすごくいい香りがして、ダサ子の私が言ってもいいことではないのだけれど、とても素敵なセンスを持っている人だと思った。
とにかく、格好いい……。ほとほと、その一言に尽きる。
「失礼しました」
いつになく緊張したお茶出しを終えて、課長とお客様に一礼すると、応接室をあとにする。
幽霊扱いをされることには慣れているつもりでいても、やっぱり本心では、けっこうキツい。
失礼ながら、格好いいお客様を観察することで癒やしを与えてもらい、午後一のお客様だったので、これで終業時間まで頑張れそうだ。
けれど。
配属先の第二商品企画室に戻り、自分のデスクに腰かけたとたん、ドンと目の前に書類が山積みにされ、私の視界はそれに奪われた。
名前を呼ばれて
「鈴木、これの整理、頼むわ」
声のするほうに顔を向けると、書類を山積みにした張本人――菅野航平が、なんでそんなに不機嫌なの!?と、思わずこっちも不機嫌になってしまいそうなほどの見事すぎる仏頂面で、私のことをギロリと見下ろしていた。
彼とは同期で、入社してからこの方、リップグロスやマスカラ、チークやコンシーラーなどのコスメ商品を企画し、開発、販売する、という『第二商品企画室』でともに仕事をしている。
一緒に働きはじめて5年。仕事上のつき合いの域は出ないのだけれど、それだけの間を一緒に働いていれば、彼の心理を察せないほどではなく、また、こういうときには、むやみやたらに仏頂面の理由を聞こうとしたり、頼まれた仕事に文句を言ってはいけないことくらい、私も経験で分かっている。
「今日中の仕事なの?」
「ああ」
「うん、分かった」
と、短い会話文を交わし、私はぐっと腕まくりをすると、書類の山に向き合った。
今日は早く帰れそうだったけれど、ほかではない菅野君の頼みとあれば、残業も辛くない。
部屋に帰って観葉植物の相手をしたところで、結局は1人だし、それなら、彼のために、有効かつ有意義に時間を使いたいと思う。
…実は、私は菅野君のことが好きなのだ。
さっきのお客様には癒やしを与えてもらってはいたけれど、本命は菅野君だったりする。
きっかけは些細なものだった。
入社してまもなく、この部署に配属になったのだけれど、持ち前の地味さで早々に出遅れ、私はすでに「…あ、いたの」というように、存在感もまるでなくなっていて、名前すら覚えてもらえない日々を送ることとなっていた。
けれど、菅野君だけは、デスクが隣だったこともあるのだろう、フレッシュな感じで。
「鈴木さん」と。
そう名前を呼んでくれ、その瞬間、恋に落ちた。それから5年。いまだに片想い続行中である。
菅野君、すごく機嫌が悪いみたいだけど、取引先の方と何か揉め事でもあったのかな…。
彼もまた、隣のデスクで仏頂面をしながら書類の整理を始めていたので、お揃いの仕事でなんとなく嬉しい反面、心配にもなる。
今日中でいいとは言われたけれど、できるだけ早く書類の整理を終わらせて、ほかにも手伝えることがあったら手伝おう。
そう、そっと思いを固めた。けれど、その密かな決心も、早々に砕かれる。
「えーと、さっきお茶汲みをしたやつ…そうそう、鈴木だ。鈴木、ちょっと顔を貸してくれ。さっきのお客様が鈴木をご指名だ」
お客様がお見えになってからそんなに時間は経っていないはずなのに、なぜかフロアに戻ってきた課長は、大きな声で私を呼んだのだ。
「そうそう、鈴木だ」までの、私の名前を思い出す過程の心の声までしっかりと声に出して…。
「ぼけっとすんな。早く来い」
「はは、はいっ」
ギロリと威圧感たっぷりに命令され、飛び上がるようにして席を立ち、整然と並んだデスクのあいだを抜け、課長のもとへ小走りで向かう。
その間も、ほかの社員…特に先輩の女性社員からはクスクスと笑われてしまって、正直なところ、とても居心地が悪かった。
課長の歩幅は大きいので、また小走りでついて行きながら、再び応接室に向かう。
けれどその間も、なんであのお客様は地味OLの代表みたいな私なんかを指名したのだろう、と、疑問ばかりが浮かんでくる。
課長のお客様ということはコスメ商品関係の会社の方だろうとは思うけれど、それにしたって、華やかな部署にいながら私は地味だ。どう考えても、おかしい…。おかしすぎる。
応接室の前へたどり着いたときには、私はすっかり、こんなふうに思い込んでしまっていた。
商談は難航している。応接室の空気もピリピリだ。
ゆえに課長は、お客様がご指名だと嘘を言って私を連れて行き、「華やかな商品を扱う部署なのになんてお前は地味なんだ!わはは!」と。
そうしてお客様を一笑いさせ、空気を変えたところで、商談を和やかかつスムーズに進めるつもりなのだ、というように思い込んでいた。
笑われるのも仕事のうち。…私、泣かない。けれど――。
「待ってたよ〜。じゃあ、さっそく。鈴木さんって言うんだっけ?少しじっとしててー」
「あ、あの…?」
「ノンノン。喋らない、喋らない」
「……」
さっきと同じようにコンコンとノックのあと、お客様の入室の許可を待って「失礼します」とドアを開けると、とたんにこうなった。
全く状況が飲み込めない中、加えて、動いても喋ってもいけないというので課長のほうも振り向けないまま、
私はしばしお客様に遊ばれる。
唇に何か塗られているようなのだけれど、これって一体、なんなんだろう…。
突然のモニター依頼
「はぁい、もういいよ〜」
やがて私を解放したお客様は、若干オネエな口調でそう言うと、すぐに黒のビジネスケースから手鏡を取り出し、私の前に持ってきた。
指紋一つ付いていない、よく磨かれた綺麗な鏡に映っていたのは、困惑しきった顔をしてはいるものの、くせっ毛のロングブラックの髪に、目にかかるほど長い前髪の奥には機能重視の眼鏡をかけた、いつも通りのダサい私だ。
…鏡はあんまり好きじゃない。
いつも通りの私だと確認すると、早々に目を背け、改めて課長に「あの…」と視線を投げた。
すると課長は、なぜか少しだけモジモジした様子を見せたのち、それを気の迷いだったと追い払うように、わざとらしい咳払いをして言う。
「こちらの方は、諸見里伸也さんといって、新進気鋭のコスメデザイナーだ。商品自体のデザインもそうだが、パッケージやキャッチコピーもご自身で考えていらっしゃって、新商品のアイデアもたくさん持っている」
「諸見里さんって、あ、あの…?」
「そうだ。“あの”諸見里さんだ。今日、弊社にお越しくださった理由は、商品化へ向けて試作中のリップグロスを売り込みに来てくださったというわけなのだが、そこで鈴木、お前だ」
「…はあ」
なんだか間抜けな相づちを打ってしまったけれど、それも当然といえば当然だった。
諸見里伸也さんといえば、私たちの業界では知らない人はいないというほどの有名人で、どこの会社も彼と仕事をしたがっていると聞く。
彼と組めば、商品は軒並み大ヒットし、販売会社は、がっぽがっぽの大儲け。
都市伝説的な噂なので、本当がどうかは分からないけれど、大きく傾いてしまった大手化粧品メーカーをわずか1年で黒字に転向させた、なんて話もあって、彼は、“新進気鋭”のあとに“カリスマ”も付く、すごく有名なデザイナーだ。
そんな諸見里さんがうちの会社にお見えになっていることも、ただただ驚くばかりなのだけれど、どうして私なんかをご指名に…!?
全く話が見えてこなくて、私はさらに、課長に「どうして私なんですか?」と目を向けた。すると。
「お前のその、目も当てられないくらいの猛烈なダサさにピンと来たそうで、ぜひ、お前に試作品のモニターになってほしいとのことだ」
「…、…。…え?」
「2回も言わせるな。光栄に思え」
「ええぇぇっ!?」
と。課長は、やはりどこかモジモジした様子で、しかし声には威厳を持たせ、そう言った。
「んふふ。どうかな? 鈴木ちゃん」
「どどどどっ、どうって言われましても…」
諸見里さんは人好きのする顔をにっこりと微笑ませ、私に向かって小首をかしげている。
けれど私は、突然のことと、恐れ多いことも相まって、激しく動揺し、どもってしまう。
助けを求めて再度、課長を見ると、とうとう頬を赤らめ、まるで恋を知った初々しい少年のような顔でそっぽを向いてしまい、これで課長の助けは見込めなくなってしまった。
「あらぁ〜。小野ちゃんったら、まだ試作段階なのに、もう鈴木ちゃんの唇に魅了されちゃったの?いくらなんでも早すぎよぉ〜!」
モニターの件を、どうしたもんか…と首をひねって考えていると、諸見里さんは唐突にそう言い、課長の肩をグーで小突く。
そうだ、そうだ。さっきからやけに引っかかりがあったのだけれど、課長の私に対する態度…
諸見里さんにされるがままに唇に何かを塗られたあとから妙にモジモジしていたし、今も明らかに変だった。
おそらく今、私の唇に塗られているのは、2人が言った『試作段階のリップグロス』なのだろうけれど、分からないのが、諸見里さんが課長を茶化すように言った『魅了』という単語だ。
諸見里さんにはかなり失礼な言い方になってしまい大変申し訳ないのだけれど、たかがリップグロスくらいで、私に男性を魅了できるだけの力が備わったというのだろうか。…なかなかどうして、考えにくい。
けれど、間違ってもそんなことは諸見里さんには言えないので、珍しく本当に困った顔をしている課長と、そんな課長を小悪魔的にからかう諸見里さんの様子を、しばし窺ってみる。が…。
「ちょっと鈴木ちゃん!モニターの件、受けてくれるの!?くれないの!?どっちなの!?」
と、またもや唐突に話を戻した諸見里さんの凄まじいオネエ口調に、私は咄嗟に口を滑らす。
「おおおお、お受けします!喜んでっ!」
……うぎゃっ!何を言うか、私の口!
しかし、ときすでに遅く、表情をぱぁぁっと明るくさせ「よかったわぁ!」と手をパンと小気味よい音を立てて叩いた諸見里さんに、私は曖昧に笑い返すしかなかったのだった。
マ、マジですか…。
モニターといっても、どんなふうに報告を上げればいいのかも分からないし、これから先、私は一体、どうなっちゃうのでしょうか。
不安だ。…とっても。
グロスの実感
次の日から私は、諸見里さんの指令通り、いつもの服装に、試作品のリップグロスだけは必ず塗り、出社することとなった。
普段、唇にはリップクリームしか塗ったことのない私はグロス特有のねっとりとした付け心地になかなか慣れず、何度となく上下の唇をこすり合わせては、すごい違和感……と、心の中で大きなため息をつき、仕事をこなす。
諸見里さん曰く『すぐに慣れるわよ』ということだったけれど、その“すぐ”は、今のところ、私に訪れてくれる気配はないらしい。けれど。
「あっ…すみませんっ」
「いいよ、いいよ。俺がこっち側を歩いてたのがいけなかったんだから。書類、バラバラなっちゃったね。ごめん、拾うの手伝わせて」
「…はあ、ありがとうございます」
と。
昨日と同じ廊下の曲がり角で男性社員と、今度はよけきれずにぶつかってしまい、持っていた書類を床に散乱させてしまうと、彼は物腰柔らかくそう言い、本当に書類を拾ってくれた。驚きだ。
しかも、ニコニコと笑いながら「どうぞ」と手渡してくれた書類を受け取ったときに見えた彼の顔は、昨日、私のことを散々幽霊だと笑っていた彼だったのだから、さらに驚きだ。
昨日の課長といい、今日のこの彼といい、諸見里さんが持ってきたこのグロスって一体…。
諸見里さんには『鈴木ちゃんは、グロスを付けていること以外は至って普通にしていればいいの』と、帰り際に言われたのだけれど、彼に言われた通り、グロス以外は本当に普段通りにしているというのに、手の平を返したようなこの変わりようって、なんなのだろうか。
とんでもないものをモニタリングしているような気がして、なんだか怖いんですけど…。
「あれ?君…確か昨日、ここで俺とぶつかりそうになった子だよね?いや、昨日は本当にごめんね。お詫びに食事でもどう?」
すると、彼もようやく、私が昨日の幽霊だと気づいたようで、どうしてそうなる!?的な誘い文句を並べ、ぐいっと顔を近づけてきた。
近い近い、近い!この近さ、ほぼ初対面の相手に対してする近さじゃないって!
あなた、何考えてるの!ここ廊下!しかも会社の!
「どう?」
「あ、あの…こ、困ります…」
心の中では盛大にツッコミを入れられても、やはり現実ではそうもいかないので、さらに顔を近づけてきた彼から大きく一歩、後ずさりをすると、やっとのことで、丁重にお断りする。
彼の接近度合いがあまりに激しいため、私の腰はすでに仰け反れる角度の限界を越えていた。
それゆえ、とても苦しく、自分でも情けない声だとは思うけれど、蚊の鳴くような声でしか、どうしてもお断りできなかったのだ。
キケンな香りのモテ男
「えー。俺とじゃイヤ?」
「いえ、そういうことではなくて…」
「だったらいいじゃん」
「いや、だから、なんでそう…」
ああもう、誰か助けてください。この人、なんだか生理的に受け付けません。
仰け反れる腰の角度もとうに限界を超え、脂汗と、目にじんわりと涙を浮かべながら、誰かここを通って!腰が折れちゃう…っ!と強く念じていると、その瞬間、ふっと。何かが私の横目に入った。
「お前ら、何やってんの」
それは、とても横を向ける状況ではなくとも、しっかり耳で覚えている菅野君の声だった。
結局、諸見里さんとのことで大きく時間を取られてしまい、昨日中だった書類の整理も片付かず、今日は朝からそれをやっていて、倉庫から関連資料を取りに行った帰りに、こうしてやたらと軽い彼に捕まってしまっていたのだ。
どうやら菅野君は、なかなか戻らない私を探しに来てくれたようなのだけれど、急ぎの仕事のため、機嫌はすこぶる悪い。
「鈴木、行くぞ」
「…あ、うん」
短く言うと、競歩か!と思うほどのスピードで仕事場のほうへ回れ右して戻りはじめ、私はとりあえず、“藤原大貴”と書かれたネームプレートを下げたしつこい彼に、小走りしつつ、会釈をしつつ、菅野君のあとに続いた。
けれどその藤原さんときたら、なぜか私たちのあとをニヤニヤと笑いながらついてきて、しっかり『第二商品企画室』に入っていくところも確認するのだから、なんだか気味が悪い。
どういう人なんだろう…。
背中に刺さる藤原さんの熱視線で、やけにそこがムズムズ、ザワザワしてしまう私だった。
そんなことがあってから、2、3日経った頃。
「すーずーきーさーん!」
「おぉっ!ふ、藤原さん…っ!」
突如として、彼がやってきた。
片付けておきたい仕事があり、残業をしていた矢先、とうとう実力行使に出たらしい藤原さんに肩に手を置かれ、私は飛び上がる。
「このあいだの食事のこと、考えてくれた?」
「お、お断りしたはずですけど…!」
藤原さんの執拗なまでの顔の近さに、やはり今回も思いっきり体を仰け反らせる。けれど、椅子の背もたれに邪魔をされ、前回の半分も腰は反対には曲がらなかった。
それどころか、こんなに断られているのに何が楽しいのか、藤原さんは変な鼻歌を歌いながら私を椅子ごと自分のほうへ向けるのだ。
そうされてしまうと、彼との距離がぐっと近くなり、肩に置かれた手も離してくれる気配がないので、私は完全に捕まってしまった。
どうしよう、この人怖い…。
じわじわと這い上がってくる恐怖に身動きすらできずにいると、しかし藤原さんは、ぽぅっと私の唇に目を落として言う。
「鈴木さんったら、いきなり雰囲気が変わっちゃったんだもん。ほんとびっくりだよ。それにしても…鈴木さんの唇、すごく美味しそう」
「はいっ!?」
「キスしたい」
「ちょちょ、ちょっと待ってください!」
私は慌ててジタバタもがき始める。藤原さんのキスしたい衝動なんて知るものか。
けれど、男性の力に到底適うはずもない私は、精一杯の抵抗も虚しく、ズルズルと藤原さんに引き寄せられ、あわやあわやの大惨事に…!
「うおぉぉあっち!!」
突如、藤原さんは阿波踊りを始めた。彼の声からも、何かに熱がっているのは明白だけれど、相当体が固いのだろう、いくら背中に腕を伸ばしても全く届かず、端正な顔立ちは、みるみるうちに悲痛なものへ変わっていく。
「あ。手が滑ったー」
その声でそちらに目を向けると、コーヒーの紙コップを逆さまに持った菅野君が、底冷えのするような冷めた目で転げ回る藤原さんを眺めていて、そこでようやく、また菅野君に助けてもらったんだ…と、私は合点がいった。
そんな中、藤原さんは、顔を真っ赤にし、涙をちょちょ切らせ、へっぴり腰で吠える。
「覚えてやがれっ!」
しかしそれは、どうフォローしようにも負け犬の遠吠えにしか聞こえず、「あーあ、コーヒーが無駄になっちまった」とため息をつく菅野君と目を合わせると、なんだかおかしくなってきてしまって、クスリと笑ってしまった。
菅野君も今日は残業で、また新たな別件の急ぎの仕事をしている最中だったのだけれど、ちょうど一服をしに行っていたため、藤原さんは、そこを逆手に取って攻め込んできたようだ。
けれど、タイミング悪く(私としてはナイスタイミングだ)菅野君が戻ってきてしまい、熱々のコーヒーを頭からぶっかけられた…と。どうやら、そういうことらしい。
「つーか、もう1回買ってくる」
「あ、うん、ありがとう」
慌ててお礼を言うと、菅野君はこちらには振り向かずに右手だけを気だるげに上げ、ついでにもう一服してくるのだろうか、自販機と喫煙所完備の休憩室のほうへと歩いていった。
新たな試作品
翌日。
「課長、ちょっと」
朝一番、課長のデスクにバンと手を付き、噛みつかんばかりの勢いでそう言った菅野君は、課長を従えて隣の応接室に入っていった。
諸見里さんのような大物のお客様には事前に管理部のほうから許可をもらい、社長も使うという応接室を使わせてもらうのだけれど、普段はこちらに直接お客様を通し、商談やら世間話やら、一周して商談やらを行っている。
私も含めた社員全員が、菅野どうした!?と浮き立つ中、やがて聞こえてきたのは…。
「なんだと!?けしからんっ!」
という怒りにまみれた課長の声で、すぐさま応接室を出て、そのまま企画室のドアも蹴破る勢いでどこかへ走り去っていく。
私たちは、課長の様子に度肝を抜かれつつ、また、全力疾走する課長の姿も初めて見ることとなった。
それとは逆に、のんびりとした様子で応接室から出てきた菅野君は、私たちに向かって一言。
「さあさあ、仕事ですよ」
と。本当にそれだけしか言わずスタスタと自分のデスクに戻ると、仕事を始めてしまった。
結局、課長のあの慌てようから、大事なお得意様とのあいだに何か急を要する事柄でもあったのだろう、と自分なりに片付けた私は、特に気にすることもなく自分の仕事と向き合った。
けれど、それから間もなくして、社内には、こんな話が囁かれることとなったのだ。
『営業二課のエースだった藤原大貴。あの人、地方の関連会社に飛ばされちゃったんだって。まあ、女遊びも激しかったし、ちょ〜っとオイタが過ぎちゃったのかなぁ〜』
その話を偶然、トイレの個室の中で聞くこととなった私はほっと胸をなで下ろした反面、本当にあのとき菅野君が戻ってきてくれて助かった…と、心の底から彼に感謝した。
それにしても、藤原さんって…。『女遊びが激しい』とのことで、その実、かなりのモテ男だったのだろうとは思うけれど、なんだかとっても、アレな人だ。
今度の職場では、あまりオイタが過ぎないように、ぜひぜひ注意して頂きたいものである。
その後、様子を見に足を運んでくださった諸見里さんと、グロスの付け心地や色合いなどの話をすることになったのだけれど、報告も上げ終え、世間話になったとき、彼に聞かれたのだ。
「グロスを付けてて何か変化はあった?」と。
「なんだか、キスを迫られました」
正直に答えると、なぜか彼は満足げに頷き、すぐに「そろそろなくなる頃だろうから、次はこれね」と新たな試作品を置いて帰っていった。えー。まだやるんですか…。