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官能小説 プリンセスになりたい 1話


上司の怒鳴り声

私の眠気を完全に目覚めさせたのは、上司の怒鳴り声だった。

「なんで、こんな間違いをするんだ。やり直しだ」

デスク5つ分も離れているのに、その声はよく響く。周囲の社員が手を止め様子を伺う中、その隙間から覗くと新入社員の鈴木が顔を青白くして謝っていた。彼の困ったような眉がより一層下がっている。

「今時のやつは、常識もわきまえていないのか」

怒り足りないのか、未だに目くじらを立てる上司に私は呆れつつあった。無視をして仕事に集中しようとパソコンの画面を見る。目の前のキーボードを叩く音より大きな説教が耳に入り、止む様子はない。誰か止める人はいないのか。キーボードを打っていた手が止まりくるうちに気になり手が止まり、その手は頭を抱えた。その状況に見かねて、ついに席を立つとその上司と鈴木の間に割って入る。

「申し訳ありません。私の教育が行き届いてなかったばかりに。これで本人も反省しておりますので、お許しいただけないでしょうか?」

私は上司を遮らないよう、鈴木の斜め前にずれ腰からゆっくりと頭を下げた。鈴木もそれに習ったのか、頭を下げた影が見える。

「君は部署が違うだろ」

急に現れた私に上司は少し戸惑っていた。すかさず私は話を続ける。

「私のあとに入ってきた社員は部署が違っても、後輩であることには変わりません」

微かにおぉ、と感嘆の声がした。返答を待つかのように上司に視線が集まっていく。上司は目をキョロキョロさせながら、

「分かった。以後気をつけるように」

と捨て台詞を吐いて自分の席に戻っていった。やっとこれで落ち着いて仕事ができる。安堵の息をつくと、鈴木は私に向かって一礼をした。

「ありがとうございます」

説教で圧倒されたのか、顔はどこか疲れ果て体はふらついている。大丈夫だろうか。不安になった私は自分の席に戻ろうとする鈴木を引き留める。

「ちょっと休んでから仕事再開しない?」

分かりました、と答える鈴木は首を傾げた。オフィスを出て廊下を抜けると、休憩所の看板が見える。そこには二台の自動販売機と粗末なソファやローテーブルが置かれていた。その奥には四畳くらいでガラス張りの部屋があり、数人の中年が煙草をふかしている。私は財布を取り出し、片方の自動販売機にお金を入れた。

「コーヒーいける? それともお茶の方がいいかな」

「いえ、大丈夫です」

ボタンを押すと、下で缶が落ちた音がする。取り出し口からコーヒーを出し鈴木に手渡した。

「ありがとうございます」

「とりあえず座って」

鈴木がソファに座って飲んでいる間に、自分も自動販売機でコーヒーを買い隣に座る。彼が一息つくのを見計らって質問してみた。

「いったい何があったの」

「それが聞いてくださいよ」

先ほどの謝るしか出来なかった状態とはうって変わり、立て板に水のように愚痴を漏らし始める。

「俺は報告書を作れって言われて作っただけなんです。初めてだからどんな風に作ったらいいか訊いたのに、『自分で考えろ』としか言わないし。だから、ネットで調べたのをいくつ参考に作ったら、ああなって」

そんなに会話したことない私にさえ、ここまでぶちまけたくなるとは、と上司の理不尽さに私はむしろ感心していた。

「超能力者でもないのに分かるわけないじゃないですか。先輩もそう思いませんか?」

だんだん話しているのが、学生時代の友人と思えるほど雰囲気はくだけてくる。そろそろ彼の愚痴も聞き飽きてきた。

「そ、そうだね。読み取るのは難しいね。でも、慣れれば平気だと思うよ。それじゃ仕事に戻ろうか」

戸惑いで言葉が詰まったが、話を強引に終わらせる。ソファから立ち上がり、自動販売機の横にあるゴミ箱に空き缶を捨て振り替えると鈴木はまだ座ったままだ。

「あの、まだ何か」

「このままやり直しても突き返されるかもしれないし。先輩どうしたらいいと思いますか」

そんなの自分で考えろ、と突き放したい。しかし、上司の憂さ晴らしに付き合われていると考えると……。突き放すことに迷うほど、訊いてきた鈴木の目はあまりに純粋無垢だった。頭の引き出しを開けているうちにある案が閃く。

「私が持ってる報告書のテンプレートを後でメールで送るから」

「それで報告書を作ればいいんですか」

「そう。それでなんか言われたら、私経由で人事の方にお借りしましたって言っておいて」

「どうして人事が関係あるんですか?」

首を傾げる鈴木に私が悪戯っぽく笑ってみせた。

「あの人もお世話になったことがあるから。それに文句は言えないでしょ」

納得した鈴木の顔は明るさを取り戻す。

「やってみます。ありがとうございます」

鈴木が小走りでオフィスに戻っていった。私も仕事に戻らないと。後を追うように廊下を歩いていると、向かいから来る数人の女性社員とすれ違う。一瞬、目があったかと思えばひそひそと話し出した。

「あの先輩、超カッコ良かった。誰も傷つけずに場を収めるなんて凄いよね」

「まさに『王子様』だよね。彼氏にするなら先輩みたいな人がいいな」

女性社員たちは休憩所へ消えていく。彼女たちの言葉にニヤついてしまうが我に返り、溜め息をついた。誉めてくれるのはとても嬉しいんだけど……。

千晴の優しさ

「私、女だからぁ!」

その日の夜、酔っ払いながら昼間の話をした。居酒屋というにはお洒落でオレンジ色の照明をベースに所々にガラス細工のランプが置いてある。こだわり抜かれたであろう織物のソファの上で私はビールをあおった。

「しょうがないよ。真琴が『王子』という苗字に生まれたのが、運の尽き、だね」

微笑みながら、千晴はファジーネーブルのストローをくるくる回す。その爪は切り揃えられ、トップコートのようなものが塗られていた。ふと、丸いパワーストーンのブレスレットがついた手は私の頭を捉える。

「でも、不思議だよね。真琴は可愛いのに」

そう言って千晴は首にかけて撫でていった。くすぐったさに私は自分の手を添える。

「止めてお世辞なんて。だいたい千晴に言われても説得力ないんだけど」

そう言うと長い睫毛が生え揃っている目が細くなり、千晴は微笑んだ。その声色は女性というには低いが、違和感はない。しばらくして、注文していたシーザーサラダが届く。すぐに千晴は皿に置かれたトングを持ち、小皿にサラダを取り分け始めた。レタスを敷くように置くと、上にトマト、ベーコン、クルトンを盛り付けていく。最後にトングで温泉卵を崩し、器用に半分掬い上げると小皿のサラダにかけた。

サラダ

「はい、どうぞ」

とサラダを渡す姿は良い奥さんを彷彿とさせる。彼女にするなら千晴みたいな人がいいのだろう。だが、千晴は男だ。

「ありがとう。いつも悪いね」

「いいよ。お疲れでしょ。僕の方がこういうの得意だから」

彼の柔らかい口調が私の心身を労ってくれる。なんで男性の千晴ができるのに、私はなれないんだろう。シーザーサラダもちゃんとドレッシングや温泉卵が野菜に行き渡って美味しい。サラダを食べていると、千晴が掌ぐらいの袋を出した。

「真琴、よかったらどうぞ」

袋を開けると、三本ヘアピンが入っている。金色でシンプルなものだが、一つだけピンクのカットビーズがついていた。

「ありがとう。でも、似合うかな」

厚紙がついたまま私は横髪に当ててみる。千晴は当然のように似合っていると答えてくれた。でも、近くにある来客用の鏡に映る自分はパンツスタイルで髪も千晴より短くて、女装している男みたい。

「せっかく可愛いんだから、もっと可愛い格好してもいいと思うよ」

無言でヘアピンを降ろしたことに何かを察したのか、千晴が褒めてくれる。そんなことないよ、と返事はするが、やっぱり可愛いと言われるのは嬉しい。

「なら、髪型から変えてみるとか?」

「でもな、私、髪質固いから、ワックスとかあんまり効かなくて」

そう言いながら髪を触ってみた。癖はないが、一本一本太い。千晴の髪の方が柔らかそうで撫でたら気持ち良さそう。私の返答に悩んでいた千晴が閃いたように目を見開いた。

「整える必要はないんだよ。いつもより一手間かけるだけというか」

「何それ、料理みたい」

先ほど鏡で見た姿が掠れていく。私と千晴はしばらく談笑と食事を楽しんだ後、帰路についた。ふと、電車に揺られながら、自分の私生活を振り返ってみる。二度寝して慌てて起きて身支度して朝ご飯食べて出て……。思い出すだけで情けなくなってきた。スマートフォンを取り出し調べる。

「洗い流さないヘアオイルか」

女性らしさという言葉に手が止まり、そのページをよく見てみた。髪が短いから手入れしても気づいてもらえないものだと思っていたけど、保湿とか大事なんだな。ふと千晴のことを思い出す。一瞬しか見えないのに爪すら整えられていて綺麗だった。少しの気遣いがとても魅力的に見える。それなら私にも……できるかな。震える指でページに表示されている購入ボタンを押した。

⇒【NEXT】私は今まさに男に押し倒されているのだ…(プリンセスになりたい 最終話)

あらすじ

上司の怒鳴り声で眠気が覚める主人公…説教の声に嫌気がさし…

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