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官能小説 「妄カラ女子」…spotB〜彩子編〜・シーズン9


名前で呼んで ●榊川彩子

「余計なことはせず、瀬野を支えなさい。瀬野には瀬野の考えがあるだろう」

瀬野を助けるために、何かできることはないか……お父様に相談すると、お父様は静かにそうおっしゃいました。

お兄様たちが瀬野に難題を突きつけたことは、もちろんお父様もご存じでした。ですがお父様は瀬野を心配しこそすれ、お兄様たちを止めるようなことはしませんでした。お兄様たちがそれで納得するなら構わないと思ったようです。

「榊川のトップ周辺にいれば、その程度の壁にはいずれ当たる。それが多少早くなっただけのことだ」

お父様は味方ではありましたが、何もかも助けてくれる神様にはなって下さいませんでした。

瀬野は再び東京で暮らし始めました。私の家の近くのマンションを改めて借りて、そこから毎日、私に会いに来てくれました。

毎夜1時間ほどお茶を飲みながら話し、それから瀬野は帰っていきます。お互いの気持ちを確認し合った後も、「立場が定まらない限りは……」と私に何かしてくるようなことはありませんでした。

瀬野は日に日にやつれていって見えました。商談はなかなか思うように進まないようです。進まないどころか、担当者にさえなかなか会ってもらえないそうでした。

「私が瀬野のために何かできることはある?」

思いきって尋ねてみました。お父様には瀬野を支えるようにといわれましたが、支えるというのは具体的にどういうことをすればいいのか、よくわかりません。ひとりよがりで走り出して、またカラ回りするよりは、当事者に聞いたほうが確実でしょうから……。

「ご心配は無用です。お嬢様はお嬢様のするべきことをなさって下さい」

「でも、何だか少し痩せてしまったようにも見えるし……」

言いかけると、瀬野は私を安心させるように私を強く抱きしめました。

「榊川の令嬢を妻にしようと決めた以上は、どんな困難も受け入れる覚悟はできています。榊川彩子の夫となり、榊川の一員になれば、今後これ以上につらい状況も出てくるでしょう。これは私にとって必要な試練なのです。これから執事としてではなく、男として、夫としてあなたを守っていくために。俺を信じて待っていて下さい」

瀬野は確かにやつれてはいましたが、自信に溢れる口調でひといきにそれだけ言った姿は、とても頼もしく見えました。

その直後、瀬野は少し照れたように視線を逸らしました。

「ですが、もしお嬢様が私を支えて下さるというのであれば……ふたつだけ、お願いをしてもよろしいでしょうか」

「えぇ、何でも言ってちょうだい」

「ひとつは……できればこんなふうに一日の終わりにお会いするとき、できれば……キスをしていただけるとうれしいです」

瀬野の頬が少しずつ上気していきます。ついさっきとはうって変わった少年のような姿に、思わず笑みがこぼれました。

「もちろんよ」

私は立ち上がって、自分から瀬野の唇にそっとキスをしました。

「もうひとつは……これからは、名前で呼び合うことはできないでしょうか。いつまでも瀬野と呼ばれるのは、その……座りが悪い、というか」

そういえばそうでした。私はやっと、自分がとても奇妙なことをしていたのに気づきました。

「わかったわ。……清彦さん」

ですが、改めて呼んでみると何だか照れてしまいました。世の中の恋人たちは、もっと屈託なく呼び合うものなのでしょうか。

「ありがとうございます。彩子、さん……」

瀬野はいったんは私の名前で止めて、その後すぐに「さん」をつけました。この「さん」はもうすぐ取れるのだと、私は信じました。

最後に強く抱き合って、その日は別れました。


良きライバル ●榊川彩子

清彦さんは根気強く行動を続けました。先方の該当する部署に所属する人やその周辺の中で、柔和な人物を調べ上げ、コンタクトを取り続けましたが、なかなか話は進まないようでした。その人自身が彼に好印象を抱いたとしても、彼と関わることを周囲がよく思わないようです。

清彦さんも気丈に振る舞っていましたが、実際には疲れても、焦ってもいたのでしょう。

あるとき私の前で、普段だったらいわないようなことをふと口にしました。

「今日、帰るときに英梨……雨宮が俺の後ろ姿を眺めていたんだ」

清彦さんの口調からは、私の願いで敬語も消えていました。一人称も私生活のときと同じ、「俺」になっています。私は清彦さんが自分のことを「俺」というのが好きでした。

「私」というよそゆきの一人称にはない体温が感じられて、ぞくぞくするのです。

「雨宮もそこまで嫌な女ではないと思っているが、もしも今の状況が彼女のさしがねによるものだったら……俺は彼女をもう許せなくなるかもしれない」

私の前で昔の恋人の話題を出すことも、その女性について怒りとはいえ感情をあらわにすることも、普段の彼ならしないことでした。

清彦さんの落ち込みは、わたしにも伝染したようです。

お仕事帰りにフェブラリー・キャットで一人でお茶を飲んでいると、宗介さんが「どうしたんですか?」と心配そうな声を掛けて下さいました。

私は清彦さんの行動がなかなか結果に結びつかないことをお話ししました。

「でしたら、瀬野さんの気分転換にでも今度のライブに来ませんか? 気分が晴れれば、いい案も浮かぶかもしれないし……」

「なぜですか?」

私は思わず尋ねてしまいました。

「宗介さんは、私に好意を抱いてくれているんですよね。どうして清彦さんと私を、助けて下さろうとするんですか?」

好きな人と別の人が近づこうとしていれば、私ならきっと妨害したくなります。

「僕も変だと思います」

宗介さんは困ったようにも照れたようにも見えました

「でも、彩子さんにはいつも笑顔でいてほしいから。だから自分のためでもあるんです」

ちょっと迷ったようでしたが、宗介さんはこう付け加えました。

「それに、振り向かせるなら、笑顔の彩子さんのほうがいいですから」

ライブが終わり、清彦さんが招待のお礼をしたいというので、私たちは宗介さんのいる楽屋に向かいました。

「今日はどうもありがとうございます」

清彦さんが深々と頭を下げると、宗介さんは不敵ともいえる笑顔を浮かべました。わたしが初めて見る表情でした。

「いいえ、気にしないで下さい。それよりも僕が奪うまで、彩子さんを笑顔にしておいて下さいね。泣かせるようなことがあったら、許しませんよ」

清彦さんは一瞬きょとんとしたものの、すぐに宗介さんに劣らず不敵に笑いました。こちらも、私が見たことのない顔です。

男性は、男性にしか見せない顔があるのですね。

「ええ、一生笑顔でいてもらうつもりです。俺の隣で」

「まだどうなるかわかりませんけど」

宗介さんと清彦さんの視線が交錯して、火花が散りそうでした。それでもその火花はとても爽やかで、見ているこちらもすがすがしくなりました。

二人は楽屋でガッチリと握手を交わし、私たちはライブハウスを出ました。


憧れの先輩 ●北村修

俺は東京に帰ってきてからも、雨宮先輩と会うようになった。

大学時代、雨宮先輩は俺にとって憧れの女性だった。瀬野先輩の彼女でミスコンの優勝経験者で、成績も優秀で、いち早く一流企業に就職して……と、雲の上の人だった。その気持ちは卒業しても変わらなかった。

それが札幌で自分の気持ちに正直に泣き出してしまった姿を見て、手の届かないと思っていた年上の女性なのに、かわいらしく感じて……手を握ってしまった。拒否されるかと思ったけれど幸いにもそれはなく、俺たちはそのまま札幌の街をしばらく歩いた。

そして彼女が泊まっているというホテルの前まで来ると、「東京で会いましょう」と名刺を渡されて別れたのだった。

それから何かというと呼び出されて、ヤケ酒に付き合わされるようになった。雨宮先輩はとにかく酒が強くて付き合うのもひと苦労だったけれど、あんな姿を見せられてはどうにも断れない。

その日も僕たちは、すでに行きつけとなった居酒屋でカウンターに並んで飲んでいた。

ヤケ酒の大半は愚痴タイムだ。瀬野先輩への愚痴、愚痴、愚痴……。でも彩子さんの悪口はいわないところが、この人のさっぱりしているところかもしれない。だから俺も付き合うのをいやだと感じないのだろう。

瀬野先輩は完全に榊川の人間になり、あろうことか今、雨宮先輩の所属する橋本財閥と業務提携を結ぶべく奔走しているという。雨宮先輩が手を回しているわけではないが、瀬野先輩の苦労はなかなか報われないようだ。

「ふーんだ、いい気味よ。これで榊川からも追い出されちゃえばいいんだー」

酔っ払った雨宮先輩は、さらにもう一口ウーロンハイを流し込む。

「あのー」

その赤い頬に語りかけた。

「もうあきらめたほうがいいんじゃないですか。瀬野先輩もこうと決めたら折れる人じゃないですし、待っていても無駄ですよ」

雨宮先輩の表情が変わる。ムカッ! 先輩の頭の横に、確かにその擬態語が浮かび上がった。

「雨宮先輩、今のままだとただの執念深いイヤな女ですよ。大企業の総合職だし、ミスコン優勝するほどの美人なんだし、もっと毅然としていてもいいんじゃないですか。俺にとって先輩は、天下無敵のいい女でした。だから……俺の勝手な夢ですけど、先輩には人としてもビジネスパーソンとしても、感情にとらわれすぎない賢い女性であってほしいと思ってます。こうなったからには瀬野先輩と彩子さんを祝福しましょうよ」

雨宮先輩は最初こそ唇をわなわなさせて聞いていたけれど、最後のほうになると肩を震わせて、笑い出してしまった。俺の肩に手を置いて体を折り曲げ、くっくっ……と喉を震わせた。

「あんた、昔から野暮な男だと思っていたけど、変わってないわね」

雨宮先輩が、笑いのためなのか、涙ぐんだ目を上げた。

「え……」

俺、何か悪いことを言ったのか。まったく気づかなかった。

……こんなだから、小森さんにもフラれてしまったのかもしれない。

俺が沈みかけると、雨宮先輩は逆にそれまでのジメジメした雰囲気が嘘だったかのようにカラリと笑った。

「でも、サッパリしたわ。今の私のまわりは私におべんちゃらを使う奴らばっかりで、そんなふうに正直に言ってくれる人が必要だったのかも。執念深いイヤな女……確かにそうよね。教えてくれて、ありがと」

雨宮先輩は誰にも気づかれないように、俺の頬に素早くキスをした。


最後の決め手 ●瀬野清彦

数日後、橋本財閥の社員から連絡があった。コンタクトを取った、何人目かの人物だ。肩書きは第一海外貿易部・部長。今回の件において最大の権力を持つといっていい相手だ。俺に会って改めて話がしたいという。もちろんイエスと答えて、日程も場所も相手の都合に合わせた。

通されたのは本社の応接室だった。

「海外業務提携の話だがね……こちらでも話し合ったんだが、受けることにするよ」

「は……?」

これまで邪険にされ続けた経緯があったから、俺は一瞬相手が何を言っているのかわからなかった。

きょとんとした俺に、相手は続ける。

橋本財閥に俺は確かに悪印象を残していたものの、いろんな人に根気よく頭を下げ続けていたのが功を奏して、「過去は過去として、瀬野が担当するなら業務提携をまかせてもいいのでは」という声が上がるようになっていたのだという。

最後の決め手となったのは、英梨からの推薦だった。俺は確かにヘッドハンティングを断りはしたものの、そこには明確な理由と将来設計があり、今回はたまたま縁がなかっただけで、信頼に足る人物であることは間違いない、だから商談を進めてほしいと、彼女はこの部長に直接進言したそうだ。

これまで若くして数々の実績を重ねていた英梨の意見は上層部にも影響を与えた。

その結果が、今日、この席だった。

「ありがとうございます……!」

俺は部長に深く頭を下げた。

もちろん、頭を下げて終わりではない。相手も俺がそれで終わったら期待はずれだろう。俺は持ってきた資料を開いて、提携した際にまず行うべき具体的な営業戦略の説明を始めた。

橋本財閥のビルを出るときに、英梨に会った。

英梨は俺が出るのを待っていたかのようだった。

「……ありがとう。助かったよ」

俺は英梨に頭を下げた。

「どうして俺を助けた? って顔してるわよ」

「顔に出ていたか。聞いてもいいのなら、聞かせてくれ」

「天下無敵のいい女にならなきゃいけないと思ったからよ」

英梨は妖艶に笑う。学生時代の俺が、うっとりして何もかも手放したくなった笑みだ。

でも、今は違う。英梨の笑みを前にしても、それ以外のものを突きつけられても、絶対に手放したくないものを手に入れてしまった。俺はそれを守っていく。

「一生、世間知らずのお嬢様のお世話をしていればいいわ」

憎まれ口を叩いて、英梨は颯爽と踵を返した。その拍子に俺を強く睨みつけたが、どこか幸せそうにも見えた。


キスの感触 ●榊川彩子

無事に橋本財閥と一部業務提携を結んだ清彦さんはお兄様たちにも認められ、私たちは晴れて公認の仲となりました。

結納や結婚式の話が進んでいく中で、私は清彦さんとのご両親ともお会いしました。私やお父様、お母様を前にした清彦さんのお父様、お母様は、ひたすら恐縮していらっしゃいました。

「まさか、まさか清彦がお嬢様を……申し訳ございません……」

お二人とも震えていらっしゃいます。お父様がいなければ、清彦さんともども、今、生きているかどうかもわからなかったとおっしゃいましたが、きっと嘘ではないのでしょう。

お父様は清彦さんのお父様に近づかれて、そっと肩を抱かれました。

「瀬野さん、頭を上げて下さい。私は清彦くんのような立派な若者に大事な娘を添わせることができて、本当に嬉しく思っています。これからはお互いの婿と嫁に、同じく父と呼ばれる立場です。ともに二人を支えていきましょう」

清彦さんのお父様はなかなか頭を上げられず、ただ男泣きに泣かれるばかりでした。私やお母様、清彦さんのお母様もつられて泣いて、嬉しい顔合わせの席は結局涙で包まれてしまいました。

いろんなことが落ち着いた後、私はまずは未由センパイにお会いしてお礼を申し上げました。これからたくさんの方にお礼をいわなくてはいけませんが、最初はいちばん近くで支えて下さった未由センパイにお伝えするのが筋だと思いました。

私たちは軽くお茶を飲んだ後、二人で駅まで帰りました。

「ホントによかったぁ!」

未由センパイはご自分のことのように、喜び、安心して下さいました。

そして……ご自身に起こったことも、報告して下さったのです。

「彩子が落ち着いたからやっと言えるけどさ……わたし、えーと、しちゃったんだよね」

「しちゃったって、何をですの?」

「それは、あれだよ……」

未由センパイは口ごもります。なかなか答えて下さいません。

「未由センパイったら、もう〜。教えて下さい!」

「わかったよ……えと、あの……それは……まぁ、……初体験、だよ……」

「しょたいけ……ええええええっ!!!」

彩子と未由

私はのけぞりました。思わず大きな声でリピートしそうになりましたが、未由センパイに口を押えられます。

未由センパイが北村さんと、漫画家の朝野悠人さんに告白されたものの、北村さんのほうはお断りして、悠人さんとお付き合いされているというお話は前に聞いていましたが、まさかそんなに進んでいらっしゃったとは……。

「ど、ど、ど……どうでしたか……っ?」

私は思わず前のめりになってしまいました。

私だってもちろん、興味はあります。……清彦さんと、心だけでなく体も結ばれることに。

「ん……まぁ、よかったよ……」

未由センパイは真っ赤になって、それだけお答えになりました。

家に帰ると、仕事が終わってやってきた清彦さんに私は抱きつきました。

「清彦さん……私、清彦さんのことをもっと知りたいです」

「おおおお嬢さ……いえ、彩子さんっ? なな、何をっ?」

「やっと結ばれたのに、求めるのはいけないことですか?」

私は清彦さんの胸の中から彼を見上げました。


タンタラタンタラ タラララララララ…♪* * * * * *


……どこからかパッフェルベルのカノンが流れてきました。懐かしい、執事のご指導タイムが始まるようです。

もう執事ではなくなった清彦さん。清彦さんは、私に何を教えて下さるのでしょうか。


⇒【NEXT】私はすでに彼のものなのだ――そう、強く感じました。(「妄カラ女子」…spotB〜未由編〜・シーズン10)

あらすじ

瀬野のことをまだ信用していない彩子の兄たちは、とある商談をまとめてこれたら結婚を認めると話した。
でもそれはかなりの難題で…。

松本梓沙
松本梓沙
女性向け官能、フェティシズム、BLなどを題材に小説、シ…
poto
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毎日小説「夜ドラ」の挿絵も担当。書籍、ウェブ、モバイル…
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