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官能小説 「妄カラ女子」…spotB〜彩子編〜・シーズン7


私は逃げない ●榊川彩子

私が好きなのは宗介さんではなく、長年私を支えてくれた瀬野なのだと気づき、後悔しないようにこの気持ちを伝えたいと瀬野の家に向かった私。雨宮英梨さんはそんな私の行動を予測して、私を待ち受けていたのでした。

私と雨宮さんは、しばらく路上で睨み合いました。

正直に申し上げれば、ひるみかけました。昔の私だったら逃げ出していたでしょう。

でも、私は逃げなかった。

――その人とのこと、後悔しないようにして下さい。

――握手ですよ。がんばってって意味です。

宗介さんのあのときの言葉と手のぬくもりがよみがえったのです。もしここで逃げ出したら、絶対に後悔する。そして宗介さんにも、もう笑ってお会いすることができない。

膝が震えます。

私はお腹の底から声を出しました。

「あなたと瀬野は一度別れたはずですよね。あなたに瀬野に会うことを邪魔立てされる権利はありません」

「なら、ヘッドハンターとしての権利で止めるわ。あなたは彼が私たちの会社に入社することを迷わせる存在よ」

さらりと返してくる雨宮さんに、私はぐっと息をつまらせました。

ですが、「ヘッドハンターとして」止めるというのなら、私にも考えがありました。

ただ、それを雨宮さんの前で堂々と切り出すのは勇気のいることでした。

だけど……言わなくては、ここは通れない。

顔がどんどん熱くなっていきます。その熱を冷まそうとするかのように、私は頭を軽く振りました。

「私は瀬野に告白をしに来ましたの。これは完全に私と瀬野のプライベートな問題です。ヘッドハンターとしての権利では、プライベートには踏み込めないでしょう」

今度は雨宮さんが息をつまらせる番でした。

「瀬野に会うまでは帰りません」

私は一歩踏み出しました。雨宮さんが通せんぼをするのなら、それを押しのけてでも進むつもりでした。

雨宮さんは少し気おされたように見えましたが、すぐに私の腕を掴みました。

「待ちなさいよ!」

「離して下さい」

自分の落ち着きが、自分でも不思議でした。迷いを切り捨てて「瀬野に告白する」と伝えたことで、力が湧き上がってきたようでした。

「お嬢様! 英梨!」

聞き覚えのある声がして、私はそちらを振り向きました。

雨宮さんも同じようにはっとして振り返ります。

そこにいたのは瀬野でした。斜め前のマンションから出てきたようです。

「瀬野……!」

雨宮さんの手が緩んだ隙に、私は瀬野に駆け寄りました。


初めて見た姿 ●榊川彩子

瀬野は私がこれまでに見たことのない、ワイシャツに細身の黒いパンツという服装をしておりました。スーツ姿ではない瀬野を見るのは初めてです。瀬野は執事の仕事を辞めた上、今日は休日なのですから当たり前なのですが、新鮮さもあり、思わずまじまじと見つめてしまいました。

もし、瀬野が私と執事としてではなく男性としてお付き合いすることになったら、私はこういう姿の瀬野を毎日見ることになるのでしょうか。そう考えると、わずかに胸がときめきました。

が、瀬野の雨宮さんへの一喝が、そんな場合ではないとすぐに教えてくれました。

「下のほうから何か聞こえると思って出てきたら……英梨、いったい何をしているんだ!」

瀬野は私をかばうようにして、雨宮さんの前に立ちました。

「見ればわかるでしょう。その子があなたに会いに行くのを止めていたのよ。その子に会えば、あなたは我が社に入社する意思が揺らぐでしょうから。私はある理由で、その子があなたに今日会いに来るだろうと予想していたの」

「揺らぐも何も、俺は入社するつもりはないと言ったはずだ」

「1回や2回断られたぐらいでは、私も私の会社もあきらめないわよ。私のしつこさは昔からよく知っているでしょう?」

雨宮さんが女性の私でもはっとするような、艶っぽい笑みを浮かべます。その笑みは、雨宮さんのことを愛していたであろう、過去の瀬野に向けられたもののような気がしました。

「……とにかく帰ってくれ。榊川の執事を辞めたといっても、この女性が俺にとって大恩ある方のご令嬢であることには変わりがない」

……そう、瀬野は普段、自分のことを「俺」というのですね。私は親鳥の羽に守られた雛のような気持ちで、それを聞きました。

「もしこれ以上、この女性に危害を加えるというのなら、たとえお前でも許さない」

「私はべつに危害なんて……」

「帰れ」

瀬野の声が一段低く、鋭くなりました。あたりの風景を切り裂きそうなほどに。

「わ、わかったわよ」

雨宮さんは明らかにおののいていました。

「私はあきらめないわよ」

瀬野と私を順番に睨みつけてから、雨宮さんはまっすぐに背筋を伸ばして去って行きました。高らかなハイヒールの音が、道にはいつまでも響いていました。

「知人が大変な失礼をいたしました。狭い部屋ですが、どうぞおくつろぎ下さい」

瀬野の部屋に通された私は、リビングのテーブルで紅茶を振る舞われました。紅茶を淹れる瀬野の手つきはすでに懐かしく感じられ、涙が出そうになりました。

瀬野の部屋はマンションの2階にあり、リビングに寝室用の1室がついた1LDKでした。窓は高く大きく、午前中の日差しがいっぱいに降り注いでいます。榊川の執事をしていた者の部屋にしては狭く思えましたが、家具はどれも高級品でしたから、お金をかける部分にこだわりがあるのかもしれません。

先ほど、瀬野はリビングでくつろいでいたところ、下から女性が言い争う声が聞こえ、その声に覚えがあったために外に出てみたとのことでした。

「ところでお嬢様、なぜこのようなところへ……」

慇懃な口調ながらも、私の来訪を訝しんでいることははっきりと感じ取れました。

「それは……」

ティーカップをいったん置いて、取っ手を掴む手に軽く力をこめます。

私は瀬野に思いを伝えに来た。辞める直前、様子がどこかおかしかった瀬野が心配だったと伝えに来た。でもいざそれを口にしようとしても、出てきませんでした。

もちろん恥ずかしさもあります。でもそれよりも、何から、どうやって伝えたらいいのかわからないのです。経験がないせいでしょうか。いっそ、目の前の瀬野にご指導として教えてほしいぐらいでした。いちばん大事なことを前もって考えずに飛び出してしまったなんて、私はやっぱりカラ回り女子のようです。

どう続けようか悩んでふと視線を横に逸らすと、棚の上に雨宮さんの会社の資料が置かれていました。

(このままでは、いけない……!)

今、行動を起こさなければ、また同じことの繰り返しになるでしょう。いえ、雨宮さんはもっと巧妙な手段を使ってくるかもしれません。

不格好でもいい。とにかく、思っていることを心に浮かんだままに伝えよう。私は決意を固めました。

私はまず、家に突然訪れた理由として、携帯がなぜかつながらかなかったことをきちんと説明してから、言いました。

「私は、瀬野を好きになってしまいました。それをどうしても伝えたくて、来ました」


まさか… ●瀬野清彦

私は彩子お嬢様にまっすぐに見つめられ、射すくめられたように動けなくなりました。

「瀬野はもう、私にとって執事以上の存在なの。ずっとそばにいてほしい」

私は呆然とするよりほかありませんでした。少し前までは、「ひとりで男性の部屋に来るなどとんでもないこと」だと「ご指導」するべきか、でも私はもう執事ではないのだし……などと迷っていたのですが、そんなこともどこかに吹き飛んでしまいました。

まさか……まさかお嬢様が、私にそんな気持ちを抱いていらしたとは……。

天にも昇る心地とは、このような状態のことをいうのでしょう。

ですが、私の足は地上のしがらみに絡みつかれておりました。

私のような不肖の者が、孝造様の大事なご令嬢と釣り合うわけがない。

「申し訳ございませんが、私はお嬢様のお気持ちにお答えすることはできません。どうぞお帰り下さい」

私はその場で深く深く頭を垂れました。

ここまで来るのにも、気持ちを告白するのにも勇気を振り絞って下さったであろうことを考えると胸が痛みましたが、だからといって一時の感情で受け止めていい話ではありません。

「私は雨宮からのヘッドハンティングを受ける気はありません。ですが、榊川に戻るつもりもございません。ですからお嬢様とも、もう……」

「執事には戻らなくてもいいの!」

お嬢様が突然立ち上がりました。

「執事ではなくて……私だけの瀬野に……私の恋人になってほしい」

ふわりとした春風のようなものが、私の胸に飛び込んできました。

彩子お嬢様、その人が。

引き離そうとしましたが、あまりにも不憫で……いえ、それは言い訳でございます。私は自分自身がめまいがするほど嬉しくて、そうすることができませんでした。

「私は瀬野が大好きなんだと、とても大事な人なんだとやっとわかったの。あまりにも遅すぎたけれど」

私の胸元で、澄んだ瞳が輝きます。

「瀬野が何かに悩んでいるのには気づいているわ。そのことも、私で何とかできることなら解決する手助けをしたいし、そうじゃないなら私、落ち着くまでずっと待っている。ずっと、ずっとよ……」

途中からお嬢様は声を詰まらせ、私の胸に顔をうずめられました。

私は、もはや自分を抑えられませんでした。

「……今だけ、どうかお許し下さい……!」

きっと私の顔は、ひどい受難に耐えているような、見るも苦しげなものになっていたでしょう。

私はお嬢様をきつく、きつく抱きしめました。

何度こうすることを願ったでしょう。そのたびに何度、自分を叱咤したでしょう。

私はお嬢様を抱きしめることで孝造様を裏切ることになる自分を呪い、憎み、しかし今このときをかけがえのない、幸福に満ちた時間として享受しました。できることなら、時間を止めてしまいたかった。

「私も……お嬢様をお慕い申し上げておりました。だからこそ、執事としてこれ以上おそばに仕えるわけにはいかないと思ったのです」

「本当に!? だったら、お父様に話せばきっと……」

ぱっと上げたお嬢様のお顔には、驚きと喜びが広がっていました。

「いいえ、私のような身の上の者がいては、榊川の家門が汚れます」

お嬢様のお体はあたたかくしなやかで、髪と首元からは甘い香りが立ち上っていました。それらは私をもう後戻りのできなくなるところに誘っているようでした。

ですが、その誘いにのるわけにはいきません。私は最後の理性を振り絞りました。

私はお嬢様にそっと口づけをしました。……お嬢様の、頬に。

彩子にキスする清野

「お願いでございます。どうか私のことはお忘れになって下さいませ。そしてもう二度と、ここにはいらっしゃらないで下さい」


瀬野はどこ? ●榊川彩子

私は、瀬野の家を出てくるしかありませんでした。瀬野が、あまりにも苦しそうだったから……。

ただひとつだけ、お願いは聞いてもらいました。瀬野の今後が心配だから、新しい就職先や住むところなどが決まったら教えてほしいと、電話番号をもう一度交換してもらったのです。それ以外の理由では絶対に連絡しないと約束をして……。

それから数週間経ちました。瀬野からの連絡は一向にありませんでした。

長年勤めてきた仕事を辞めたのですから、多少長めの充電期間を置きたいだけかもしれません。ですが私は妙に不安になりました。いつもきびきびと誰をも率先して動いていた瀬野が、充電とはいえ部屋で何日も休んでいるところがどうしても想像できなかったのです。榊川での職歴と瀬野自身の能力があれば、就職先は引く手あまたでしょう。

私は悩んだ末、様子を伺うメールを送ってみました。新しい生活が決まったら連絡をする……ということであれば、新しい生活がどうなりそうか尋ねるのはぎりぎり約束違反にはならないだろうと考えてのことです。

しかし、メールはすぐに「宛先不明」で戻ってきました。

(どういうこと!?)

私は今度は電話をかけてみました。

「その番号は現在使われておりません。番号をお確かめになって……」

(まさか、そんな……)

電話はすでに解約されていたのです。

その日、仕事が終わるとすぐに瀬野のマンションに足を運びました。これは立派な約束違反です。わかっていましたが、そうしないわけにはいきませんでした。

瀬野の部屋は空き室になっていました。

この数週間の間に、どこかに引っ越してしまったようです。

(瀬野、瀬野……どこに行ってしまったの……)

私は生きながら、抜け殻になったような気持ちになりました。自分の肉体から、心だけが煙のように消えてしまったようでした。

変化があったのは数日後です。

仕事から帰宅すると、家に瀬野からの手紙が届いていました。

私は急いで封筒を開けました。

手紙には、懐かしい瀬野の達筆でこんなことが書かれていました。

――私のそばにいると、瀬野のほうが私のことを忘れられなくなる。私の気持ちを知ったままそんな中途半端な状態を続けることは、お父様だけではなく私をも裏切ることになる。だから東京からは離れて暮らそうと思う……。

「お父様!? 瀬野は……瀬野は、どこに?」

慌ててお父様に電話をしましたが、お父様もまさに今日、瀬野から挨拶は受けたものの、行き先まではわからないとのことでした。

「彩子……お前は瀬野のことが好きなのか?」

電話を切ろうとすると、お父様は静かな口調で尋ねました。

「えぇ、好きですわ。瀬野も私のことを好きだと言ってくれました。瀬野が帰ってきたら、私、引っぱってでもお父様とお母様のところに連れて行こうと思っております。この人と結婚したいんです、って」

執事などととんでもない! そう答えられる覚悟もしておりました。ですが、もしそう言われても負けないように、私は胸を張って答えました。胸を張っても電話の向こうのお父様にはわからないことは、電話を切ってしばらくしてから気づきました。

お父様は少し苦笑されて、

「ならば、私もできる限りの協力はしよう」

と答えて下さいました。

よかった、お父様は反対されていないのね。私はひとときの安堵を得ました。……ですが、問題はまったく解決していません。

物事というのは立て続けに起こるもののようで、その日、私は雨宮さんともお電話で話しました。覚えのない番号に、「もしかして瀬野?」と思って出てみると、声に怒りを滲ませた雨宮さんでした。

「まったく、あなたがひっかきまわしてくれたおかげでこっちはいい迷惑よ。あなた、清彦がどこに行ったのかわからないの?」

私がわからないと言うと、雨宮さんは舌打ちをしてから、「まぁ、大体の見当はつくわ」と唐突に電話を切りました。

それにしても、本当に瀬野はどこに行ったのでしょう。一人で考えていたら、頭がおかしくなってしまいそうでした。

私は未由センパイに、相談に乗ってもらえないかお願いすることにしました。


頼りになる存在 ●榊川彩子

私は未由センパイにお電話して、事情をすべてお話しました。

「彩子がしばらくフェブラリー・キャットには行かないっていうから、気になってたんだよ」

私がそうしたのは、瀬野のことをしっかり考えたいから、しばらく宗介さんと距離を置こうと考えていたからなのですが、センパイは最初、宗介さんと私の間に何かあったのだと思っていたそうです。

実際、確かに「何か」はあったのですが、宗介さんは未由センパイにはお話しされていないようでした。

センパイは瀬野のことを詳しくご存じなわけではありませんでしたが、長年私に仕えてくれた執事だということは知っていらっしゃいましたから、深く同情して下さいました。

とはいえ、未由センパイはご自身も私と同様「世間知らず」なご自覚がおありとのことでした。カラ回り女子と妄想女子の世間知らずな私たちは、フェブラリー・キャットで、良い解決策をなかなか出せずにいました。

「どうかしたんですか?」

優しげな声に振り向くと、宗介さんが立っていらっしゃいました。

迷いましたが、宗介さんにも打ち明けることにしました。

「そういうことでしたら、店長が頼りになるかもしれません」

宗介さんによると、イケ店さんは、お若い頃にヤンチャをしていらっしゃったことから――ヤンチャというのが何なのか私にはわからなかったのですが、悪戯っ子だったのでしょうか――、今でもこのあたり一帯に警察顔負けの情報網を持っていらっしゃるそうです。

イケ店さんにまでお話するのは少し気が引けましたが、そんなに頼りになる方がいらっしゃるのなら、背に腹は代えられません。

イケ店さんは、「そういうことなら」とすぐに協力を約束して下さいました。

「彩子ちゃんの気持ちも大事にしたいし、宗介の男気にも惚れた。俺にできることなら何でもするよ」

イケ店さんは宗介さんのお気持ちを知っていらっしゃるのか、宗介さんの肩をポンと叩きました。

何だか申し訳ない気持ちにもなりましたが、こんなときは感謝するほうが正しいのでしょう。

「本当に……本当にありがとうございます」

私は頭を下げました。

「このあたりで行動した形跡があるのなら、すぐに何かの手がかりを見つけられると思う。彩子ちゃんがわかっていることをとりあえず全部教えてくれ」

私は瀬野の容姿の特徴や、いなくなったのがわかった日のこと、手紙の内容などについて、できるだけ詳しく説明しました。そういえば雨宮さんが瀬野の行き先の見当がつくと言っていたので、そのことも付け加えました。

「うーん、それだけだとちょっと難しいな。もう少し絞りこめる情報がほしいところだ。その雨宮って姉さんに話を聞ければいちばん早いんだろうけど、それは無理だろうし……。彩子ちゃん、瀬野さんが以前言っていたことで、何か今回の手がかりになりそうなことはなかったかな。たとえば昔、将来の夢について語っていたりとか……」

将来の夢……瀬野の夢はお父様を生涯支え続けることだったはずです。本人も常々そう言って憚りませんでした。

(あら、でも……)

私はふと思い出しました。

昔、瀬野はお父様への恩が大きすぎるのを表現する意味で、こんなふうに言っていたのです。

「孝造様へのご恩が大きすぎてそんな日は来ないとは存じますが、いつかご恩を返し終わったあかつきには、地元に戻って小さな会社でも立ち上げて、両親や兄弟とのんびり暮らすのもいいかもしれませんね」

瀬野の地元は北海道・札幌。

「札幌か……まぁ、ツテを辿れば何とかなるだろう。その前に羽田周辺も調べておくとするか」

イケ店さんはひげに触れながら、思案して下さいました。

「よし、すぐに網を張るよ」


⇒【NEXT】あぁ、私は……普通の女の子として生まれたかった。(「妄カラ女子」…spotB〜未由編〜・シーズン8)

あらすじ

彩子は長年支えてられてきた執事、瀬野のことが好きだと気づいた。
気持ちを伝えようと瀬野の家に向かうと…。

松本梓沙
松本梓沙
女性向け官能、フェティシズム、BLなどを題材に小説、シ…
poto
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毎日小説「夜ドラ」の挿絵も担当。書籍、ウェブ、モバイル…
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