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運命の男 前編(夏目かをる小説)
運命の男 前編
劇場の控え室には、すでに数人の芸人達が集まっていた。
「おはようございます」
私が挨拶をすると、鏡の前で化粧をしていた昔の相方のカナがくるっと振り返って、「遅いよ」と捨てセリフを吐いた。
「出番はもうすぐだよ」
深紅の口紅が口元から少しはみ出ている。
「そのルージュの塗り方、ちっとも変わってないね」
はみ出たルージュを人差し指でそっとぬぐってあげると「えへへ」とカナが照れ笑いをして「さくら、本当にカムバックしないの?」と私の顔を覗き込んだ。
「しない」
きっぱり言うと、「ふーん」と少しつまらなそうに口を尖らせた。
「雑誌の仕事も面白いよ。出番が終わってからここで取材させてよ」
私の隣にいるカメラマンも挨拶をした。
それを見て、「本当にお笑いを辞めたんだね」とカナは「少し寂しいよ」と首を傾げたが、すぐに仕度にかかった。
「じゃあね、さくら」
「うん。大好きなラブラブのシロップを差し入れで持ってきたから、後でね」
「さくら、スケベ」と笑いながらカナは、今組んでいる相方と一緒に出て行った。
私は心の中で呟いた。
「もうお笑いの世界には戻らない。私には仕事と、そして運命の男がいるから」
いつも流氷の上を歩いているような感覚…
私は稲盛あずさ。
元・お笑い芸人でマネージャー。芸名はさくら。31歳。今は雑誌の編集の仕事をしている。
お笑いに目覚めたのは随分遅くて、大学生の頃。親が小さい頃から厳しかったので、見られるテレビ番組も限られていた。
大学生になってから小屋、つまり劇場のモギリのバイトをするようになって本物のお笑い芸をライブで観ているうちに、「私も笑わせてみたい!」と思うようになった。
その頃、同じ大学でお笑いを目指す相方とも出会い、小さな事務所に入った。
当然、親は大反対。そこで実家を出てアパート暮らし。学費もストップされたので、居酒屋でバイトをしながら、芸人の活動を続けた。
でもあの頃の私は――。
いつも流氷の上をぐらぐらしながら歩いているような感覚に襲われていた。お酒を呑んでは近くにいる男芸人とそのまま一夜を共にした。
ワンナイトウーマン、つまり簡単な女として、22歳の私はお笑いの小さな世界でちょっとした有名人だった。
その夜も私は酔ってお笑いのコウジ先輩のアパートに転がり込んだ。
男の一人暮らしの部屋は久しぶりだった。お笑いの芸人はほとんどが貧乏人。
でも28歳のコウジ先輩は、他の芸人のマネジメントをしたりイベントを主催していたり、芸人以外の収入もあるから、小奇麗なワンルームマンションで私のような女も連れ込むことができる。
男の先輩から「お前、ヤバイよ…」
コウジ先輩のベッドに潜りこんだ。
シーツから男の体臭とヘアリキッドの匂いが漂った。甘えてもいいような、男臭さがいとおしい。
「服ぐらい、脱げよ。くしゃくしゃになるよ」
コウジ先輩が掛け布団をぱっとはずしたときに、私は思わず先輩の首に両手を回して、キスした。
アルコールの匂いに刺激されて、私は先輩をベッドに誘った。
コウジ先輩は「しょうがない女だなあ」といいながら私の服を脱がした。ブラジャーのホックを「どこじゃ〜」とおどけて探すコウジ先輩の声に、私は笑いこけた。
ベッドの中でも芸人は芸人、だから気楽だった。
コウジ先輩のパンツを私が逃がせ、お互いに全裸になった。コウジ先輩が私の中に入ってきたときに、熱いものが貫通して、それが心地よかった。
「あ」と小さく叫ぶと先輩は一生懸命に腰を振った。
酔いもまわってきて、笑いながらコウジ先輩を受け入れた。
「笑うな」と言われると、ますますおかしくなる。
薄目を開けて「感じているよ」と言ってあげると、コウジ先輩は急に顔をゆがめてあっという間に果ててしまった。
朝の光がカーテンを閉め忘れた部屋に注ぎ込んでいた。まるでスタジオのセットの中にいるように、強烈な光だった。
ベッドの脇には私のベージュのブラウスとタータンチェックのスカートがくしゃくしゃと玉になって、まるで散らかった雑巾のようだった。
私はあわてて、衣類を手元に引き寄せた。
昨夜の酔いがいっぺんに醒めたような感覚に襲われたとき、全裸でうつ伏せになっていたコウジ先輩が上目使いで私を見た。
「おまえ、このままだとヤバイぞ」
私は目をパチクリさせた。
「お笑い芸人としてちゃんと真面目にやっていくつもりなら、誰とでも寝る女になるなよ」
朝の光の中で、コウジ先輩は私をまっすぐに見た。
「そんな目で見ないでくださいよ。先輩のこと、本当に好きになりそう」
「嘘つけ」
コウジ先輩は、私の頭を軽くポカッと叩いた。
「誰も好きじゃないから、男と簡単に寝るんだろ」
「わかんない」
「なら、わかれ!」
コウジ先輩は起き上がって着替え始めた。
「裏方も少しやってみろ。自分のことが見えてくるぞ」
先輩の思いやりを感じて、私は思わず胸が熱くなったが、行動はまったく逆。
「嫌ですよ〜だ」と口を尖らせた。
すると、ポカッとまた頭を叩かれた。
こんな生き方、本当はやめたい!
20歳でお笑い芸人に目覚めた私は、2年間相方のカナと地元Y市を中心に声がかかれば、東京でも地方でも飛んで行った。
芸人は才能の世界。
私には才能がない、と早いうちにわかってからずーっと靄のかかった世界で生きてきたような気がする。そう、あの流氷の上をぐらぐらしながら歩いているようなあの感じ。
あの頃から、軽い女になってしまった。
こんな生き方を止めなくちゃ…
何度も何度も繰り返し思い続けていたけど、でも何も考えないで生きていく方が楽だから、昨夜もコウジ先輩の部屋に泊まった。
「裏方をやってみろ」
それもいつか言われるだろうと予想していた。
才能溢れる新人に惹かれて……
コウジ先輩の言葉が現実になる日がやってきた。
その日、私は相方のカナと一緒に退職願を出しに事務所を訪れた。
夕闇が迫る都会のビルは、道路側に大きな影を作っていた。影は自分達のようだった。お笑いという世界では一生、光には無縁な私たち。光になれなかったら、影で生きていくこともない。
「確認するけど、一時解散で、またコンビを結成するという前向きな長期休暇なんだよね」
カナは半分泣き顔で私に訴えた。唇のラインからルージュがはみ出ている。
はみ出す形が一生マイナーだよ、とでも言うようにもの哀しくて、私はそっとぬぐってあげた。
「おはようございます」
社長室の前で、一人のがっちりとした体格の男が私たちに挨拶をした。柔和な表情だが、眼光が鋭かった。
これからデビューするという新人の愛甲和幸で、20歳の大阪出身だという。勢いとブラックユーモアで一世を風靡したお笑い界の大ベテランを思い出して、私は一目で「才能がある!」と直感した。
「社長はまだ外出先から帰っていないから、こっちでお茶しましょう」
和幸に勧められて、社長室の隣にある小さな喫煙室のソファに腰をかけた。
自動販売機からコーヒーを持って、和幸が私たちのところへやってくると和幸の相方の光彦も続いた。
光彦は和幸よりも5センチぐらい背が低くて、見るからにボケ専門というぽっちゃりとした体形。
「カズ&ミツでコンビを組むんですが、マネージャーが決まっていなくて」
「私がやるわ」と私。
相方のカナが驚いた。でも和幸は微笑んだ。光彦も頷いた。
お笑いの話題になると、和幸の情熱がたぎってくるのがわかる。
私は急速に彼に惹かれていった。
「俺についてこい!」に魅了されて……
カズ&ミツのマネージャーになって一ヵ月後の夜。和幸は私の部屋へ泊まった。
冷蔵庫からワインを取り出して乾杯しようとしたのに、「こいよ」と和幸。
ベッドに座って荒々しく服を脱がした彼は、私をふわっと抱きかかえ、そしてすーっと入ってきた。
私はたくさん濡れていた。
「したかったのか」
和幸の声が野太く響いた。
「俺についてくればいい」
そう言いながら、和幸は私の乳首を吸いながら激しく何度も私を突き上げた。
そのたびに私は声をあげた。
「ついていきたい」
と心の中で何度も叫びながら。