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官能小説 【完結】Sweet of edge〜恋と愛の間で揺れてみて〜 6話


綺麗になりたい

夏野にデートに誘われてから、数日が経っていた。

けれど、一向に春の元に夏野からの連絡は来ない。同じフロアにいるはずなのに、社内で擦れ違うことすらなかった。春は黙々とデータの入力をし、コピーを取る。

仕事はもうほとんど終わっているが、終業時間までまだ一時間もあった。今日は桃も小都音も残業があるので、三人でカフカに行くことも出来ない。コピー機の前に立ったまま、気になって第二営業部の方に視線を向ける。けれど、夏野の姿は春の位置からは見えなかった。

小都音に聞く限り、夏野の忙しさはいつもと然して変わらないらしい。

もしかしたら、あの時は酒の勢いに任せて、ただ何となく食事に誘っただけだったかもしれない。酔いが醒めて、食事に誘ったことをなかったことにしたいと思ったとも考えられる。

実際、ほとんど春と夏野は接点がないのだから、突然食事に誘われることの方が不自然だ。夏野が春のことを恋愛の対象として見ている可能性はゼロではないだろうが、その可能性が高いとも思えない。

やはり、酒の勢いで何となく、というのが一番しっくりきた。

だからと言って、折角始めた自分磨きをサボる気にもなれずにいる。それは淡い期待が心の大半を占めていることの裏返しだ。
今日は気分転換に新しいコスメでも買って帰ろう。

春はそう思うと、コピーした資料の製本を始めた。

色とりどりのコスメ

春はいつも最寄り駅からほど近いスーパーの中を突っ切って帰る。 冬は暖房で暖かく、夏はクーラーが効いていて涼しい。雨が降っていれば、雨だってしのげる。春のお気に入りの帰り道だった。

大型スーパーの一階は食料品売り場と化粧品売り場、薬局とフードコートからなり、生活に必要なもののほとんどが揃えられる。二階には専門店と飲食店が入っているので、だいたいの用事も済ますことが出来た。春は食料品売り場には見向きもせず、化粧品売り場へと向かう。

会社近くのデパートで購入することも考えたが、スーパーの化粧品売り場であれば、同じ商品でもデパートよりいくらか安く購入することが出来る。デパートの高級感の中で買い物をするのは良い気分転換になることはわかっていたが、懐事情を考えると、そんな贅沢もしていられない。 春は気分転換よりも安さを優先させた。

化粧品売り場に着くと、ワゴンセールをしているのが目に入った。 たくさんの人がワゴンに群がっている。そのほとんどが春と同じくらいの年齢の女たちだ。仕事帰りなのか、ジャケットにブラウス、ヒールといった堅めの格好をしている人が多い。

簡単な説明を聞いて、対象商品を購入すれば、化粧品会社の営業担当者にいろいろとおまけをつけてもらえる。誰でも一度は見たことがある光景だろう。スキンケア商品を紹介していることが多いので、春はちらっと覗くだけにしようと思いながら、ワゴンに近付いた。

群がる女たちの反対側に営業担当者らしき男が立って、何か説明しているが、店内の音楽と女たちの声で男の声は聞こえない。もうすでに一通りの説明は終えているらしく、数人の客は商品を手にレジへと向かっていた。その手には今月新しく発売された洗顔料が握られている。コスメに疎い春でも、CMで何度か見かけたことがあり、知っていた。

春はワゴンの横を通り過ぎると、メイク用品のコーナーへと向かう。売り場にはアイシャドウだけでなく、チークやファンデーションなどさまざまな商品が並べられていた。その中に色とりどりのアイシャドウもある。どれも良さそうで春はしばらくの間、それらを眺めていた。けれど、なかなか決めることが出来ない。

春は美容部員に見繕ってもらう為、声をかけた。
自分に選ぶセンスがあるとは、到底思えなかったからだ。

再会

偶然再会する男女
 

結局、春はピンクやベージュなど四色が入ったパレットタイプのアイシャドウを買った。

上品なピンク色が目元を優しく彩ってくれるのが気に入って購入を決めたのだ。いつもブラウン系の落ち着いたメイクにしていたが、これなら、会社に行く時に使ったって悪くはないように思える。

会計を済ませると帰る為、春は少し前に横を通り過ぎたワゴンの方へと向かっていた。すでに女たちの姿はなく、営業の男が後片付けをしているところだった。男は腰を折り曲げていて、顔が見えない。

すらっとした脚と小さく上がった尻がスタイルの良さを強調している。

「はぁ……」

男は大きく溜め息をつくと同時に、折り曲げていた身体を元に戻した。男は後ろに置いてあったバッグを手に取ろうと、春の方を向く。
すると、春と男の目が合った。

「あ」

春と男の声が重なる。
男は内館だった。

「どうして、あなたが……」
「それはこっちのセリフです……!」
内館の言葉に春は眉間に皺を寄せて応えた。

「私は見ての通り、仕事ですよ」
「私だって、家に帰るところです」
「へぇ、この辺りに住んでるんですか」
「そうですけど、悪いですか」
「悪いなんて言ってないじゃないですか」
「それは失礼」
「また心にもないことを」
「それじゃあ」

春は続きそうだった話を切り上げ、内館に背を向けた。これ以上、意味のない言い合いをするのは、時間の無駄だ。内館は仕事の途中だし、春は少しでも早く家に帰りたい。お互い余計なエネルギーを使う必要などどこにもなかった。

「ちょっと!」
数歩歩いたところで、内館に呼び止められ、春は足を止めた。
「なんですか?」
春は振り向き、返事をする。しかし、その言い方は半ばケンカ腰だ。
「これ、どうぞ」
「え?」
内館はいくつか化粧品のサンプルを袋に入れ、春に差し出す。

「これ、うちの化粧品」
「なんで……?」
春は明らかに訝しがっていた。それもそうだ。さっきまで言い合いをしていた相手が急に好意的な態度を取ってきたのだから、裏があると思ったって仕方がない。
「クレンジングと新商品の洗顔料、化粧水に美容液、それから乳液と保湿クリーム。これでスキンケア全部試せますから」
「でも……」
「遠慮しなくていいですよ。あなたもお客さんには変わりないし」
「……ありがとうございます」
春は遠慮がちに化粧品のサンプルを受け取った。

「どういう風の吹き回しですか……?」
春は内館を見上げて問う。
「ほら、今日のあなたはすごく疲れてるっていうか、前みたいにキラキラした感じがないから、可哀想だなぁって思って」
「キラキラ?私が?」
聞き間違いか、はたまた、からかわれているのか、春は内館の言っていることの真意がわからずに聞き返した。

「ええ、キラキラしてましたよ」
「そんなこと初めて言われました」
「自分で気が付いてないんですか? もったいない。初めてぶつかった時も、夏野と一緒に会った時も」
内館の口から「夏野」という言葉を聞いて、思わず、春の表情は険しくなった。

「……夏野と何かありました?」
「え……?」
「いや、私の思い違いならいいんですけど」
内館は一瞬、触れてはいけないことに触れてしまったというような顔をした。

春は新しいアイシャドウを買ったり、自分磨きに時間を費やしたりして、夏野から連絡がないことを紛らわせている。なんだかそれを内館に見透かされているような気がして、居心地が悪くなった。

「これ、ありがとうございました」
「仕方ない。これもあげますよ」
「え?」
そう言って、内館が差し出したのは、バラの香りの入浴剤だった。
「これも試供品。うちの会社が出してる入浴剤です。疲れた時にいいですよ」
「ありがとうございます……」

内館が急に優しくなったことに若干気味の悪さを感じたものの、案外、悪い人じゃないのかもしれない、と思った。 ただどうしてそんなにも優しくしてくれたのかがわからない。不思議に思っていたが、すぐにその理由はわかった。

スーパーを出る直前、自動ドアに映った春の顔はひどく疲れきっていた。



【NEXT】春は仕事から帰り、夏野からのメッセージが来ていないかスマートフォンを手に取ると…。(Sweet of edge〜恋と愛の間で揺れてみて〜 7話)


あらすじ

夏野にデートに誘われてから数日。

しかし、夏野からの詳細のメールはいまだに届いていなかった…。

もしかしたら、あの時は酔った勢いに任せて、
特に意味もなく食事に誘っただけだったかもしれない…。
そして、酔いが醒めてみると食事に誘ったことすらなかった事にしたいとも考えられる。

いや、それとも単純に忙しいだけなのかも…。

もう食事に行く可能性はないかもしれない…。
ただ、折角始めた自分磨きをサボる気にもなれずにいた。

なぜならまだ心のどこかで夏野との恋が始まるのを…期待しているからだ。

そんな淡い希望を抱えて、春は気分転換に新しいコスメを買いに行くことに。

そこで意外な人物と再会することになるとは
春はまだ予想もしていなかった…。

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野々原いちご
野々原いちご
小説家。 1984.3.12生まれ。 法政大学文学部…
嶋永のの
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フリーのイラストレーター・漫画家(少女漫画・TL)
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