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官能小説 【完結】Sweet of edge〜恋と愛の間で揺れてみて〜 9話


戸惑い

静かな和食居酒屋で食事する男女
 

倉前が春を連れて来たのは、静かな佇まいの和食居酒屋だった。心のどこかで年下の男の子が連れて行ってくれる店だから、と思っていた春にとって、想像以上に渋い店を選択した倉前に少しだけ驚いていた。

店員の後に続き、席へと向かう通路は、ぼんやりとした灯りに照らされているだけで、一人で化粧室へ行くには心もとないな、と春は歩きながら思う。店員は個室の前で足を止めると、引き戸を開け、春たちを通した。二人は掘りごたつを挟んで、向かい合せに座る。倉前を正面からしっかりと見たことがなかったことに、春はこの時初めて気が付いた。二重の大きな目に形の良い唇。色白の肌は春よりもその若さを際立たせているように見えた。

「このお店、僕のお気に入りなんです」

そう言って微笑む倉前の顔には、まだ幼さが見え隠れする。

春は今自分が置かれている状況を不思議に思いながら、「素敵なお店ですね」とだけ返した。

適当に食事を注文し、先に運ばれて来たビールで乾杯をした後、何度かグラスに口をつけたものの、春は自分からは口を開けなかった。会社の上司とは言え、異性と二人きりで食事をするのは、もう何年もなく、何を話題にすればいいのかわからなかったからだ。そんな春の様子を察してか、倉前は会話をリードする。

「迷惑じゃありませんでしたか?」

「え?」

「ちょっと強引にお誘いしてしまったかな、と思って」
倉前は春を食事に誘ったことを気にしているようだった。

「そんなことありませんよ。お腹も空いてましたし、家に帰って料理をするには遅すぎる時間でしたし。誘っていただけて良かったです」

「それを聞いて安心しました。普段は自炊されてるんですか?」

「簡単なものですけどね」

「それでもすごいですよ。僕なんて、いつもコンビニ弁当ですから」

二十代前半の一人暮らしの男なんてそんなものだろう。春だって、コンビニ弁当で済ませられるならそうしたいし、仕事で疲れているのに家に帰ってまで料理をしたいとは思わない。けれど、三十歳を目前にし、コンビニ弁当だけではどうしても食事に偏りが出て、体型の維持が難しくなる。それに金銭的にもコンビニ弁当を買い続けるのは無理があった。美容に掛かるお金を削れない代わりに、食費を削るのは致し方ないことだ。

「玖波さんとこうして食事をするのって初めてですよね」

「そうですね。部署の飲み会とかでは、ご一緒することはありましたけど」

他愛ない会話を続けているうちに、次々と食事が運ばれてくる。その度に一度会話は中断されるものの、すぐに倉前が口を開いた。

「いつも無理ばかりお願いしてしまってすみません。玖波さんが嫌な顔せずに仕事を引き受けてくれて、僕たち助かってるんですよ」

「いえ、私は当たり前のことをしているだけですから……」

春のその言葉は決して謙遜しているわけではなかった。理不尽なことを言われれば、反論すればいいとも思っているが、仕事をしているのだから、自分が面倒だと思ったり、嫌だと感じたりすることもするのは当然だ。

「そんな風に言ってもらえるとありがたいです。玖波さん、仕事が出来るから無理なお願いをしてしまうことも多いし、嫌な思いをさせてしまってるんじゃないのかなって心配だったんです」

「大丈夫ですよ。お気遣い、ありがとうございます」

倉前と一緒にいる時間は穏やかに過ぎてゆく。もし倉前が彼氏だったら、どんな日々が待っているのだろう。そこまで考えて、春は内心苦笑した。彼氏がいないからといって、誰とでもこれからのことを考えてしまうのは悪い癖だ。

予想外の質問

食事も終盤に差し掛かり、お酒も随分と進んでいた。

「玖波さんって、彼氏さんいらっしゃるんですか?」
倉前からの予想外の質問に春は思わず箸を止めた。

「いえ、残念ながら」

「本当に?」

「こんなことで嘘なんてつきませんよ」
春は笑いながら答える。そんな春の姿に倉前は安堵したように溜め息をついた。

「倉前さんは彼女さんいらっしゃるんですか?」

「僕もいないんです」

「えっ、本当に?」

「僕もこんなことで嘘なんてつきませんよ」
倉前は笑いながら言う。彼女がいるものだと思っていただけに、春は少々面食らっていた。しかし、倉前に彼女がいないからと言って、今回の食事が何か特別な意味を持つわけではないことくらい、春にもわかっている。仕事のことで気を遣い、誘ってくれたに過ぎない。異性として誘われたなどと思うのは、思い上がりだろう。

「あの、玖波さん」

「はい」

「また今度、食事に誘ってもいいですか?」
倉前のこの一言で、春は一瞬頭が真っ白になった。春の考えたことは決して思い上がりなんかではないのかもしれない。

気になる存在

今日の春はぼんやりとしていた。

昨日の倉前の言葉が何度も脳裏を過ぎっては消えてゆく。“また食事に誘ってもいいですか?”とは、一体どういう意味だったのだろうか。好意があるからまた誘っていいのかという意味だろうか。それとも、彼氏がいないから、気軽に誘ってもいいかという意味だろうか。

気になって倉前の方へと視線を走らせると、真剣な顔をして、パソコンに向かっているのが見えた。春は小さくかぶりを振ると、再びパソコンの画面に向き直る。余計なことを考えている場合ではない。春には定時までに仕事を終える必要があった。今日は久々に小都音と桃とカフカに行く約束をしている。

モテ期?

今日のカフカは大盛況だった。団体客が入っているらしく、いつもより随分と賑やかで、稜治も忙しそうに行ったり来たりを繰り返している。

「ねぇ、春。白状しなさいよ」

「なんのこと?」
春は小都音の言葉をさらりと流す。

「なんのことって、それでも隠してるつもり?」

「そうですよ。今日の春さん、ずーっと上の空だったじゃないですか」
二人に言われて、自分がいかにわかりやすい性質(たち)なのか、痛感する。一度として、二人に隠し通せたことがない。

「昨日、ちょっと誘われて」

「誰に?」
小都音は間髪入れずに問う。

「同じ部署の倉前さん」

「えっ!? 倉前さんに?」

「あの可愛い顔した年下くんでしょ?」

「そう。その人」
桃はあんぐりと口を開けて、春を見ている。

「春さん、モテ期なんじゃないですか?」

「モテ期?」
モテ期は人生に三度は来ると聞いたことがあった。未だに一度も自分にはモテ期が訪れたことがないし、それもなくはないのかな、と春は思う。けれど、どれもモテ期というには決定打に欠けていた。

「誘われたって食事?」

「うん。昨日、残業終わりに二人で行ったんだけど、また誘っていいかって言われて」

「へぇ、やるわね。あんな可愛い顔して」
小都音は言いながら、ワインを煽った。

「倉前さん、彼女さんと別れたって噂本当だったんですね」

「そんな噂あったんだ」

「はい。大学時代から付き合ってる彼女がいるって話だったんですけど、擦れ違いで別れたって」

「うちの会社忙しいからね。土日出勤も普通にあるし。それで漸く見つけた恋が春との恋だったってわけねぇ。で、どうするの? 夏野さんのこともあるでしょ?」

「どうするも何も……。食事に誘われただけだし」

「でも、今のところ、倉前さんの方が一歩リードって感じしますよね?一緒に食事に行ってるし」

「確かに……」
夏野とは食事に行く約束はしているものの、まだ約束の日は来ていない。

「まぁ、焦ることはないんじゃない?両方とデートしてみて、どっちがいいか、はたまた、別の誰かがいいか決めればいいと思うよ」
いつからそこにいたのか、稜治が得意げに答えた。

「稜治さん、聞いてたんですか?」

「うん、やっと一段落したからね」
そう言って、稜治はロックグラスに注がれたウィスキーを一口飲んだ。



【NEXT】春は派遣社員として働くかデザイナーに戻るべきか迷っていた。そんな中、仕事帰りにふらりとカフカに立ち寄ると…。(Sweet of edge〜恋と愛の間で揺れてみて〜 10話)


あらすじ

倉前が選んだのは、静かな佇まいの和食居酒屋だった。

想像以上に渋い店を選択した倉前に春は驚いた。春は異性と二人きりで食事が久しぶりで、どうしたらいいかわからなかったが、そんな春を察したのか、倉前が会話をリードしてくれた。

他愛もない会話から、倉前から「彼氏さんいらっしゃるんですか?」という倉前からの予想外の質問に「残念ながら」と答える春。

春は、今回の食事が仕事での気遣いだとわかってはいるものの、異性として誘われたとは思ってもいなかったのだが…。

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野々原いちご
野々原いちご
小説家。 1984.3.12生まれ。 法政大学文学部…
嶋永のの
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フリーのイラストレーター・漫画家(少女漫画・TL)
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