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官能小説 【完結】Sweet of edge〜恋と愛の間で揺れてみて〜 10話


目まぐるしい

「玖波さん」
仕事をしていると名前を呼ぶ声がして、「はい」と返事をしながら春は振り向いた。そこには次長が立っている。
「派遣会社の人が来てるから、会議室に行ってもらえるかな」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
春は席を立つ時に行き先を記入するホワイトボードに『会議室』と記入すると、急いで会議室へと向かった。

出せない答え

ノックをして会議室に入ると、すでに派遣会社で春を担当している磯貝がパイプ椅子に座っていた。流行のボブヘアにエクステされたまつげを見る度に、春より五つも年上だということを忘れそうになる。

「お待たせしました」
「お疲れ様です、こちらにどうぞ」
磯貝は春に向かいの椅子を指し示して言う。
「失礼します」
春は磯貝の向かいに座ると、彼女が口を開くのを待った。磯貝は定期的に春の仕事の状況を聞きにやって来る。

「玖波さん、最近はどうですか? お仕事は順調ですか?」
「はい。社員の皆さんにもよくしていただいていますし、仕事でも特に困ったことはありません」
「それは良かったです。先程、次長さんともお話させていただいたんですけど、玖波さんは仕事を一生懸命してくれるし、とても優秀だって褒めてくださってましたよ」
自分の評価を聞いて、春はほっとした。真面目に仕事をしているつもりだったが、相手がそう思ってくれているとは限らない。きちんと自分の仕事振りが評価されていることに、春はただただ安心していた。

「それで更新の件なんですけど……」
磯貝は春の目を真っ直ぐに見据えた。
「更新しますか?それとも、別の仕事を探されますか?」
問われて春は、すぐに返答出来なかった。
春が派遣会社に登録した時、仕事を辞めた直後だったこともあり、取り敢えず、すぐに就ける仕事を希望した。そんな時、磯貝が紹介してくれたのが今の会社だった。前職と同じ業界の仕事であれば、覚えやすいだろうということ。それから、デザイナーに戻りたいと思った時に戻りやすいように、と配慮してくれてのことだった。その時、更新は追々考えると、磯貝には伝えてあった。

「今すぐに決めてくださいってわけではないので、もう少し考えていただいて大丈夫ですよ。手続きの関係があるので、来月末までには決めていただかないといけませんけど」
「わかりました。もう少し、考えさせてください」
春はその後、磯貝と軽い世間話をして、自分の席へと戻った。
このまま、派遣社員として働くべきか、デザイナーに戻るべきか、春にはまだ答えが出せずにいた。

悩み…

仕事帰りに春はふらりと一人でカフカに寄った。一人でも春が座る席には変わりはない。
「いらっしゃい。あれ、今日は一人?」
稜治は小都音たちの姿が見えないことに少し驚いたようだった。
「すみません。小都音と一緒じゃなくて」
春の冗談めかした言葉に稜治は笑う。
「春ちゃんだけでも大歓迎だよ。今日は何にする?」
「うーん。ジントニックにしようかな」
「了解」
稜治は手早くジントニックを作ると、春の前に出した。すると、その直後、ドアベルが鳴った。

「いらっしゃい、いつものでいい?」
「ああ」
聞き覚えのある声が答える。振り向かずとも、春は店に入って来たのが内館だとわかった。
「へぇ、一人でも来ることがあるんですね」
無視をするのかと思っていた内館が話しかけてきたことに春は驚きつつも、「ええ」とだけ答えた。稜治は内館の前にウィスキーのロックを持ってくると、別の客に呼ばれて、内館とは二、三言葉を交わしただけで行ってしまった。
内館は飲みながら、春の方をちらりと見た。

悩みを男性に相談する女性
 

「何かあったんですか?」
「え?」
「元気がないように見えたから」
「私ってそんなにわかりやすいですか?」
「かなり」
内館はウィスキーを煽ると、正面を向いたまま続けた。
「私で良ければ、話を聞きますよ」
「どうしたんですか、急に」
「困っている人がいたら手を差し伸べるっていうのは、人として当たり前のことでしょう。まぁ、ぶつかった相手の書類を一緒に拾わないあなたには、わからないかもしれませんけど」
「まだそれ言います?」
「少なくとも、年内は」
「……」

ムカつくと思ったものの、これ以上、この話を長引かせるのは自分にとって不利でしかないと思い、春はぐっと言葉を飲み込んだ。そう言えば、夏野が以前、内館のことを、“困ってる人も放っておけないしね”と言っていたのを思い出す。
「で、何に悩んでるんですか?恋愛?結婚出来ないのはなんでだろう、とか?」
「生憎、恋愛には困ってませんから」
「そう言えば、前にここで会った時、食事に誘われたとか言ってましたもんね」
「ええ。恋愛より、多分、もっと大事なことです」
春はそこまで言うと、ジントニックに口をつけた。
今まで誰にも話したことはなかった。小都音や桃には勿論のこと、学生時代の親しい友人にすら、春は仕事のことで悩んでいると口にしたことはない。それは春の最後のプライドがそうさせているのだと、彼女自身思っていた。けれど、誰にも言わず、抱え込むには限界を感じてもいる。そんな春は、勢いに任せて口を開いていた。

「仕事のことで悩んでるんです」
「へぇ……、意外だなぁ」
「意外?」
春は内館の言葉の意図がわからず、オウム返しに問う。
「恋愛よりも仕事の方が大事だって、あなたくらいの年齢の女性が口にすることが意外だなって思って。アラサーでしょう?」
「そうですけど、仕事は一生していくものじゃないですか。結婚しても、家庭に入る気はないですし、人生の中で一番時間を割くのは仕事だと思いますし。勿論、恋人がいたら楽しいだろうなとは思いますけど、それが全てだとも思っていないので」
その言葉に嘘はなかった。しかし、少し強がっていることも春は自覚していた。でも、実際、仕事が春にとってどれだけ大事なものなのか、デザイナーという仕事を辞めて初めて気が付いたのも事実だった。

「なるほど……。結婚が人生のゴールだとか、一番の幸せだとかいう考えを否定はしませんけど、現代の女性には当てはまらないこともあるかもしれませんね」
内館は今時の考え方も持ち合わせているらしい。春はそのことに少し驚いていた。
「仕事で悩んでいるのは人間関係?」
「いえ」
「それも意外だなぁ」
「それ、どういう意味ですか?」
「いや、気が強そうだから、てっきり……」
春がじろりと睨むと、内館はバツが悪そうにグラスを傾けた。
「元々、デザイナーだったんです」
「デザイナー?」
「服飾デザイナーです。でも、辞めてしまって。それで今の会社――アパレル会社に営業事務として、派遣社員で入社したんです」
「どうして、デザイナーを続けなかったんですか?」
内館はずけずけと質問をしてくる。デリカシーのなさに、春は一瞬の気の迷いで話そうなんて思うんじゃなかったと後悔し始めていた。

「転職活動には時間がかかるでしょう?だから、出来る限り早く、仕事が見つかる派遣で働こうと思ったんです。それに……」
内館は春の方を伺うように見ている。彼はただ春を見ているだけで、その先を急かせようとはしない。春は深呼吸を一つすると、話し出した。

「デザイナーを続けたいと思えなかったんです」
少なくとも、あの時の春はデザイナーを続けることが出来なかった。
子どもの頃からずっと就きたかった仕事だったのに、だ。
誰もが子どもの頃に憧れた職業に就けるわけじゃないことも、自分がどれだけ恵まれた環境に置かれているのかもわかっていた。
それでも、あの頃の春には、あの会社でデザイナーを続けることも、新たにデザイナーとして就職出来る会社を探すことも出来なかった。
それほどまでに、あの頃の春は身も心もボロボロだったのだ。


⇒【NEXT】春は内館に今後の仕事について話を続けた。そして気が付くと、時間は随分深くなり、終電はもうなくなっていた…。(Sweet of edge〜恋と愛の間で揺れてみて〜 11話)

あらすじ

春は磯貝に呼ばれて会議室へ向かう。派遣社員として働くかデザイナーに戻るべきかまだ迷っていた。磯貝との面談は春にそんな決断を意識させるものだった。

春は仕事帰りにふらりとカフカによる。そこへ偶然、内館がやってきて、元気のない春に話しかける。
ちょっと意地悪な内館の嫌味な台詞と優しい面に、ムっとする春だったが、春は誰にも話したことのない仕事の悩みを内館に相談する…。

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野々原いちご
野々原いちご
小説家。 1984.3.12生まれ。 法政大学文学部…
嶋永のの
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フリーのイラストレーター・漫画家(少女漫画・TL)
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