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小説サイト投稿作品18「キスにスパイスを、キスをスパイスに」(ペンネーム:結城せつさん)


「キスにスパイスを、キスをスパイスに」(ペンネーム:結城せつさん)

〜LC編集部のおすすめポイント〜

たまには彼と旅行デート…いつもと違う環境、そして混浴は緊張しますよね。

そんなシチュエーションの中、多忙ですれ違ってばかりの2人は気持ちを確かめ合うけれど…?
不安な気持ちも、温泉のお湯に溶けていくような、ラブラブな展開に注目です。

久しぶりの旅行

―――ガラガラ

「うっわー、すごい」

扉を開けると、2人で過ごすには広すぎるんじゃないかと思うほどの和室が広がっていた。

「分かったから、少し落ち着こうか。…奈々、とりあえず荷物はここに置くからな」
「はーい。荷物持ってくれてありがとう」

久しぶりに彼氏である洋輔さんと2人揃って連休が取れたから、今日から1泊2日で温泉宿に旅行に来た。
ギリギリに予約したからなかなかお手頃なところは空いていなくて、予定よりも少しお高いところになってしまった。
けれど、やっぱりお高いだけはある。雰囲気から落ち着きがあって…いい。一瞬で気に入った。

「持つのは気にしなくていいけど、何泊する気?1泊にしては重すぎる」

洋輔さんは足元に置いたばかりの荷物を、不思議そうに眺めている。私に言わせたら、あれでも妥協したつもりなのに。
そういうのは、男の人には伝わらないか。

「…全部必要なものなの。ねー、この部屋お風呂も付いてるんだよね?」
「しかも半露天」

…やった、部屋に温泉が付いているなんて、すごく豪華。先ほどからその温泉の存在が気になって仕方がない。

「そんなに気になるなら、見ておいで。なんなら、ご飯の前に入るか?」

私がソワソワとしていることに洋輔さんが気づいたらしく、クスクスと笑われてしまった。
ご飯前に…どうしようかな。化粧落とすと大変だから、浸かるだけならいいかもしれない。

「洋輔さんは?」

私だけ入るのもつまらないしと思い、彼にも尋ねた。

「俺は入るつもりだけど、一緒に入るか?」
「…うん、私も少しだけ入る」

“一緒に”という所を強調されたけれど、今更照れるのが恥ずかしくて、何でもない振り。
快諾したのはいいものの、一緒にお風呂は未だに慣れない。嫌なわけではないけれど、恥ずかしいから。
普段だったら断るけれど、今日はいつもと違うし…頑張ってみようかな。

「…」

私の返事に無言のままの洋輔さんを不思議に思ったけれど、顔をしっかり見るのは照れくさくて、気づかない振りをして、お風呂の準備を始めた。
また後からちゃんと入るから、とりあえずボディソープだけを用意すればいいよね。
私の荷物が多かった理由がここにある。ボディソープなんてこういう旅館には置いてあるけれど、私はそれを使いたくないと思った。

だって、いくら高級品だったとしてもどんな成分が入っているか分からないでしょ?
だったら、信頼している愛用品を使ったほうが安心。そう思って準備していたら、こんな大荷物になってしまった。
基礎化粧品類は現品だけど、他は旅行用にサンプルもわざわざ購入した。

荷物を準備したところで、バックの脇に置いてあるものが目に付いた。
いけない、忘れるところだった。…そうそう、浴衣、浴衣。
ここの旅館は色浴衣の貸し出しがあって、女性ものは種類が豊富なところが売りらしい。
チェックインのときに、洋輔さんに選んでもらったんだった。お風呂から上がったら、これを着よう。そうしたら、もっと雰囲気が出そう。
せっかく旅行に来たんだし、非日常を楽しまなくては。
浴衣を抱えて、私の後ろにいるはずの洋輔さんの方を振り向くと、なぜだか難しい顔をして停止していた。

「…洋輔さん?」

どうしたんだろう?そう思い、首を傾げながら彼に声を掛けた。

ひとりの温泉

「んー、一緒にお風呂は後からにするか」
「…え?」

もしかして、さっきの一緒にっていうのは冗談だった?そうだとしたら、私、恥ずかしい。
それに、洋輔さんは一緒に入るのは嫌だったのかな。…なんか、悲しくなってきた。
洋輔さんの顔を見たら泣いてしまいそうな気がして、目を逸らすように下を向いて誤魔化すことにした。

――ポン、ポン

頭頂部に感じた重みと、温もり。そして、同時に深いため息が聞こえてきた。

「…洋輔…さん?」

もちろん彼しかここにはいないわけで、私の頭に乗っているのは間違いなく彼の掌。
ため息の真意が知りたくて、彼の顔を確認したくて、不安から脱出したくて、顔を上げようとした…けれど、 乗せられている掌に力が込められ、それは彼に阻止されてしまった。

「絶対今泣きそうな顔してるんだろ?そんな顔で下から見るのは止めろ。 我慢できなくなるから。お風呂も今一緒に入ったりしたら、たぶん俺我慢できないから。 だから、そんな悲しい顔するなよ…な?俺に今すぐ食べられたいっていうなら別だけど」
「…」

ようやく彼の言いたいことと、彼の行動の理由が理解できた。それと同時に、頬がカーッと熱くなるのを感じた。
そうだった、彼はこんな人。浮かれていてすっかり忘れていた。

「…1人で入ってくるから離して」

恥ずかしさが先ほどより増してしまっている。
耐え切れなくて、逃げ出すように彼の手を跳ね除けて浴室の方へと向かって足早に歩いた。
背後からは洋輔さんのいってらっしゃいの声と、楽しそうな笑い声が聞こえている。
もちろん後ろは振り返らない…というか、こんな真っ赤な顔では振り返れない。

この部屋の温泉は岩風呂で、外の少し冷たい空気がすごく心地よかった。ただ、1人で入るには広すぎて、少しだけ寂しかった。
…やっぱり後から洋輔さんと入ろう。2人でここを満喫したい。嫌だって言われても、今日はわがまま言おう。
洋輔さんは私のわがままは不本意そうな顔しながらもちゃんと聞いてくれるから。今日は、それを利用しよう。

「…よし、決めた」

いたずらを思いついた子どものように、なんだか楽しくなって、鼻歌を歌いながら入浴を済ませ、そして彼に選んでもらった浴衣に袖を通した。
彼の居る座敷へと戻ると、洋輔さんはスッと立ち上がり私と入れ変わりでお風呂へと向かった。

「よく似合ってる」

すれ違いざまに私の耳元に唇を寄せ、彼が囁いた。

――パタン

座敷と脱衣所を隔てる扉が閉められて、1人ポツンと取り残される。

「…」

お風呂上りで熱いのか、彼の言葉に身体が熱くなっているのか、とにかくものすごく熱くて堪らない。
立っていられなくなって、その場に屈みこんでしまった。洋輔さんはたまに恥ずかしいことをさらりと言ってのける。
その度に私は心を乱されている気がする。

素直な気持ち

洋輔さんがお風呂から上がった頃、夕飯の支度ができたと連絡があった。
部屋食ではなかったけれど、ちゃんと個室になっていたから周囲を気にする必要はなく、楽しい食事の時間を送ることができた。

本当に個室でよかった。浴衣姿の洋輔さんは彼女の贔屓目抜きにしても、すごくカッコいい。
私もいつもと違う洋輔さんに、見惚れてしまったくらいだ。
食事処に向かう途中、他の女性客からも視線を集めていて、それには嫉妬したけれど。
個室じゃなかったら、終始周りの視線を気にしてしまい楽しい時間が過ごせなかったかもしれない。

「…鍵」
「ごめん…えっと、あった」

ボーっと考えごとをしながら歩いていたから、部屋に着いたことに気づかなかった。
洋輔さんに鍵を促されて、ハッとした。慌てて私が預かっていた鍵を差し出した。

――ガチャリ

ゆっくりと扉が開く。中に入ると、いつの間にか布団が用意してあり、2組ぴったりとくっついた状態で敷かれていた。
いつも一緒の布団に寝ているのに、いつもと違う状況にやけに緊張する。どうしても意識してしまい、凝視したまま固まってしまった。

「…なんで今更緊張してるんだよ」

隣にいたはずの洋輔さんは、いつの間にか私より少し前にいて、そして私の顔を覗き込みながら声を出して笑っていた。

「…緊張なんか」
「はいはい、そういうことにしといてやるから」

クスクスとした笑いを堪えることなく、私の頭をくしゃくしゃと撫でて部屋の奥へとさっさと入っていってしまった。
置いていかれた私も慌てて彼を追いかけた。
部屋の中に入り、しばらくはテレビを見ながらごろごろとのんびりと過ごした。
無言のこの空気も、洋輔さんとなら心地いいくらいで、とてもリラックスできる。

「…風呂入るか?」

洋輔さんの言葉に時計を確認すると21時少し前。そっか、もうそんな時間か…。
さっきは2人とも少し浸かる程度だったからもう一度入ろうと言っていた。今度は、一緒に入りたいな。折角の温泉旅行なんだし。

「うん…い…入ろう」

“一緒に”って私から言おうって決めていたのに、いざ言葉にしようとすると、躊躇してしまう。はっきりと…言えなかった。
どうして素直に言葉にできないんだろう。自分が情けなく感じた。

「あー、今度こそ一緒にな」
「…え?」
「今、そう言おうとしたんだろ?」

私は一緒にと言えなかったのに、言いかけて飲み込んだ言葉をちゃんと理解してくれていたらしい。
…すごく嬉しい。こんなふうに私の気持ちをちゃんと汲み取ってくれる彼のことがやっぱり好きだ。改めて実感した。

「うん、一緒に入ろう」

彼に背中を押され、今度こそちゃんと自分の言葉で伝える。
大きく頷きながら、返事をした。嬉しさを隠すことはできなくて、自分でも表情が緩んでいるのが分かった。彼になら、どんな表情だって見て欲しい。

彼の胸の中で

私の方が温泉に浸かるまでの準備諸々に時間がかかるため、私が髪と身体を洗い終わった頃に洋輔さんを呼ぶことになった。
家から持ち込んだ入浴セットを抱えて浴室に向かうと、それを見ていた洋輔さんは「重かったのはそれが原因か」と呆れたように苦笑していた。
よく考えると、今日の旅行のためにお互いに仕事が忙しかったから、最近身体を重ねてないな。
私に夜勤があることもだし、洋輔さんは体を使う仕事で疲れてきって帰ることもあり、お互いの家を行き来していても、一緒に過ごすだけということが多かった。
よくよく考えるとすれ違いばかりだったな。

そんな今日までのことを振り返りながら、せっせと髪や身体を洗い、洗顔まで済ませてしまった。少しでも綺麗な姿を見て欲しいから、丁寧に。
そして、今日はヘアパックも追加してしまおう。小分けして少しだけ持ってきていたクリームを毛先にたっぷりと塗った。

――ガラガラ

もうすぐ終わるからと、洋輔さんに声を掛けるため脱衣所へと繋がる扉を開いた。

「洋輔さん、もうすぐ終わるよ」
「あー、分かった」

待機していたのだろう、私の声掛けに返事はすぐに返ってきた。
この様子だとあっという間に来てしまいそう。洗い場から移動しなくちゃね。少し早いかなと思いながらも慌てて髪をお湯で流した。
シャワーの音の合間からガタガタと彼がこちらへ向かってくるであろう音が聞こえてくる。
私が温泉に浸かるのと、洋輔さんが扉を開けるのは…ほぼ、同時だった。

「どうした?そんなに慌てて。今更恥ずかしがるなよ」
「だって…」

私の行動がばれていることが、更に恥ずかしかった。お湯に顔だけが見えるくらいまでしっかり浸かりながら洋輔さんを見つめた。
お風呂だからもちろん裸なわけで…申し訳程度にタオルで隠してくれているのがありがたいくらいだった。
相変わらず、引き締まったいい身体しているよね。

…って、私何考えているんだろう。パッと急いで目を逸らして、くるりと向き直り彼に背を向けた。
ここが温泉でよかった。火照る顔も今ならば誤魔化すことができる。
背後から聞こえていた笑い声は、シャワーの音によって掻き消された。
私が背を向けた理由も、きっと洋輔さんにはお見通しなんだろうな。こうなったら、もう開き直るしかない。

――

――――

ザバっと勢いよく洋輔さんがお湯に入ってきたため、 足を伸ばして座っていた私はお湯の勢いに押されて横に倒れそうになってしまい、顔までお湯に浸かってしまった。
完全に倒れなかったのは、洋輔さんが私の腕を引っ張り自分の方に抱き寄せてくれたから。原因も、この人なんだけどね。

「悪い、大丈夫か?」
「…」
「…奈々?」

私の目の前にぴったりと触れるようにあるのは彼の胸板で、ここからでは彼の表情は見えないけれど、何も答えない私に不安そうにしているのが分かった。
洋輔さんにこんな顔をさせているのが私だと思うと…嬉しい。きっとこれは私だけの特権。
なんだか楽しくなってきて、彼の背中に腕をまわしぎゅっと抱きついた。
一瞬ピクリと反応したかと思うと固まってしまった彼だけど、何も言わずそっと抱きしめ返してくれた。

2人の距離

抱き合ったままの状態でしばらく時間が経ったが、沈黙が続いている。
掛け流しのお湯が流れていく音だけが辺りには響いていた。この静けさはすごく心地がいい。

「…どこまで俺を煽れば気がすむんだ?」

静寂を破ったのは、洋輔さんのよく通る声。耳元で聞こえた声と彼の言葉に、感情が昂ぶっていくのを感じた。
たまに見たくなるのが、こういう洋輔さんの反応。私のことをちゃんと見てくれてるって感じることのできる瞬間。

「…って、何を笑ってるんだ。肩…震えてるぞ」

無言のままの私、けれどこの状況が楽しくて、ついつい笑みが零れてしまっていた。
声を押し殺していたせいか、肩が震えてしまっていて彼に気づかれてしまった。仕方ないな。

「だって…なんだか嬉しくて。洋輔さんがそんな顔してくれるのは私だけでしょ?  そんなこと考えてたら、嬉しくて、よく分かんないけど可笑しくなってきて」
「今のは絶対に笑う場面じゃないよな?」
「んー、そうかも…?ねぇ、ねぇ、洋輔さん」
「…なんだよ」

彼の背中に回している腕を離すと、今度はしがみつくように首へと腕を絡めた。
そして、不振がる彼をグッと自分の方に引き寄せて、そっと耳元で囁いた。

「…大好き。…愛してる」

あー、今度はどんな反応をくれるんだろう。

――ザバっ

「…きゃっ」

実際に彼から返ってきた反応は、私の予想を上回るものだった。彼は私を抱きしめたまま、急に立ち上がった。
幸い彼にしがみついていたお陰で、お湯の中に落ちたりすることはなかったけれど、急な出来事につい声を上げてしまっていた。

「奈々…覚悟はあるんだよな?」
「覚悟って?」

今日までの彼の行動と、身体に教えこまれたことが覚悟の意味を明確に示してはいたものの、彼から聞きたくてわざと聞き返していた。

「しらばっくれるなよ。分かっていてやっただろ…お望みどおり、可愛がってやる」

お風呂から出たところで私は彼の腕の中から降ろされてしまった。
そして、そのまま腕を引かれ脱衣所へと足早に向かわされた。彼に掴まれている腕がものすごく熱い。
いつからこんな身体になってしまったんだろう。私は彼から与えられる快楽を期待しているらしい。
脱衣所に入ると、バサっと乱暴にタオルを頭からかけられてしまった。そして、力強くごしごしと拭かれている。
こんなにも切羽詰ったような彼も新鮮。そのままタオルを渡されたから、身体は自分で拭いた。
目の前の洋輔さんも豪快に…というか物凄く雑にパパッと拭きあげている。
そして私からあっという間にタオルを取り上げて、彼は言う。

「…それくらいで、いいだろ?」

って。少し離れていた距離を詰められて、彼の唇が私のそれへと徐々に近づいてくる。

「…待って」

2人の距離がもうすぐゼロになるというところでハッと我に返り、彼の胸に腕を突っ張って2人の距離をとりながら訴えた。

「…は?待てない」

急にかかる待ての言葉に、彼は不機嫌を露わにしている。私から煽ったのも知っている。
けれど、このままの雰囲気に流されてしまったら、明日が大変なことも知っている。

「ちょっとだけ時間ちょうだい」
「なんで今更」
「だって…今キスしちゃったら、そのまま流されちゃう。お手入れもせずに寝ちゃったら、絶対朝から後悔する」
「そんな理由で俺は拒否されたのか?1日くらい平気だろ」

私から出た言葉に彼は更に不機嫌になってしまった。

「明日の朝起きて、洋輔さんとの時間を後悔したりしたくないの。洋輔さんは私に後悔して欲しい?  朝から私のテンション低くて、洋輔さんのせいだって言い続けてもいい?」

私は知っている。洋輔さんは普段は俺様気質な面があるけれど、私のこういう言葉には弱い。
適当に言っているわけではなくて、本心なんだから、いいでしょ?洋輔さんが気にしてくれるようにちょっと言葉を選んだだけ。
少しでも洋輔さんの隣がふさわしくなれるように、自分を磨くことに妥協はしたくない。その1つがお肌のお手入れなの。

「…分かったよ」

案の定、彼は私の訴えを聞き入れてくれた。しぶしぶではあったけれど。

「ありがとう」

そう笑って伝え、一度着替えようと下着へと手を伸ばそうとしたけれど、パシっと洋輔さんに掴まれてしまった。

「それは要らないだろ。…これでも羽織っとけ」

私を掴んでいる手とは反対の手で、彼は私に浴衣を渡してきた。…これでもってさ、絶対に何か足りないよね。

「下着は?」

「必要ないだろ。どうせすぐに脱がされるんだしな」

彼はさらりとそんなことを言う。腕に込められた力に、浴衣以外着させてもらえないなってことを確信した。
私のわがままを聞いてもらったのだから、ここは大人しく従っておくべきだよね。そう言い聞かせ、渡された浴衣を羽織った。

キスにスパイスを、キスをスパイスに

部屋に戻り、私が化粧水やらを並べ始めた頃には、彼の不機嫌も少しだけ治まっている様子だった。
彼も浴衣だけを羽織り、布団にごろんと横になりこちらをじっと見ている。
彼の様子が気になったけれど、横目でチラチラと見るだけで気にしていないふりを貫いた。

こんなふうになんでもない素振りを見せてはいるけれど、本当は私も彼と同じ気持ち。
早く触れて欲しいし、早く触れたい。でも、自分に妥協もしたくない。だからせめてと思い、せっせとスキンケアをしていく。

…よし、あとはこれだけ。
最後の仕上げにリップをたっぷりと唇にのせ、くるくると指の腹でマッサージしていく。これで夜のケアは終わり。

「…何やってるんだ?」

声のしたほうへと向き直ると、横になっていたはずの洋輔さんがむくっと起き上がり、膝立ちのままこちらに近づいてくる。

「何って…マッサージ。塗るだけより、次の日唇がぷるぷるになるの」
「へぇー、ぷるぷるね…」

私の言葉になぜか彼は眉を顰めた。何か失言でもしたかな、と不安になった。

「仕事のときもこれ塗ってるのか?」

これといって彼が指差したのは、たった今塗ったリップ。意図が掴めないまま、彼の質問に答えることにした。

「これはナイトケアだから、仕事のときは別のやつだけど?」

すると彼は難しい顔をして何かを考え始めた。

「…奈々の職場は、色は付いてて大丈夫だよな?」
「まぁ、濃すぎなければね」
「じゃあ、仕事行くときは絶対色つき使えよ。俺からの命令っていうか、俺からのお願い」

更にわけが分からなくなった。
いつもならこんな風に、化粧とか身だしなみのことで彼が口を出すことはなかったのに。一体、どうしたんだろう。

「色が付いていると、急なキスはできないだろ。色が移るからな」
「…キ…キスって。そんなの仕事のときに気にする必要ないから」

いきなり飛び出したキスの単語に驚いてしまった。何がどうしてそういう話になるのか。

「俺が心配なだけだから、大人しく言うこと聞いとけよ」

“心配”という言葉に、彼の言いたいことが分かり、熱が顔に集中していく。

「…誰もそんなことしないから。心配なんて必要ない」

そもそも私の職場は女ばかりなんだから、そんな心配いらないのに。

「奈々は俺たちの出会いを忘れてないか?」

出会い?
…あっ、そうか、私が洋輔さんを意識したきっかけは、私の勤める病院に彼が入院して、2人きりになった個室でいきなりキスをされたことだった。
でもさ、それって…

「あんなことをするのは、洋輔さんくらい!!でも…心配してくれるのは嬉しいから、善処はします」

バカだなと思いながらも、彼の気持ちは嬉しいと感じた。
こんなにも素敵なあなたに惚れているんだから、他の人なんて目に映らない。
ちゃんと彼の目を見つめて、そう答えた。けれど目が合ったのは一瞬で、すぐに逸らされる。
そして、彼の指が私の唇にそっと触れた。

「俺にもさせて…」

そう言って、彼は私の唇を撫で始めた。そんなふうに優しく触られると、私の中の欲情も少しずつ大きくなってしまう。
私もそろそろ限界かも。今度は私が焦らされている気分になった。

――パクリ

口元にある彼の指を私は衝動的に銜えていた。

「…奈々」
「ん?」

そのままの姿勢で、彼の顔を覗き込みながら返事をすると、すぐに指を引っ込められてしまった。
触れていた箇所から感じていた彼の体温まで遠のいてしまい、寂しくなった。名残惜しむように、彼の手を目で追っていた。

「…こっちを見ろよ」

という言葉と同時に、後頭部を抱えるように引き寄せられて、唇には再び温かいものが触れた。
今度は指ではなくて、彼の唇。
最初は啄ばむようなキスだったけれど、角度を変えながらどんどんと深くなっていく。
それと同時に身体には力が入らなくなってきて、洋輔さんに支えられていないと倒れこんでしまいそうだった。

「…ん…ん」

私の唇から漏れるのは、吐息と意味を成さない声。完全に力が入らなくなってしまった私を、彼は布団の上へと移動させ、そのまま組み敷いた。
今私の目に映るのは、欲情した目をしている洋輔さんただ1人。
洋輔さんと見つめ合っていた目を逸らし、先程まで触れ合っていた唇に視線を落とした。
あっ…。洋輔さんの様子に違和感を覚えた。だって…

「あーあ、私のリップ。洋輔さんに盗られちゃった」

たっぷり塗ったはずのリップクリームは、洋輔さんの唇にたっぷりと移ってしまっていた。
いつもと違う彼、なんだか凄く魅力的に見えた。彼女のリップがたっぷり付いちゃってるとか…いつもより色気倍増。

「じゃあ、返してやるよ」

そう言ってキスがまた降ってくる。あー、このまま彼に溺れたい。

「もっと…ちょうだい」

私の上に覆いかぶさる彼を引き寄せて、今度は私からキスをした。2人の熱い夜は、これから始まる。

キスにはちょっとスパイスを。そして、キスをスパイスに。
今夜も2人の愛を深めましょう。

結城せつさん/著

あらすじ

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