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小説サイト投稿作品57 「大嫌いな唇 後編」


「大嫌いな唇 後編」

〜LC編集部のおすすめポイント〜

「エロイ唇」のせいで、女性には疎まれ、男性には好奇目で見られてきた綾。
彼女にとってその唇はコンプレックスであり、大嫌いなものだった。
そんな時、男性の中では珍しく普通に、むしろ素っ気なく自分と接する村山課長と出会い…

他人には羨ましがられようと、自分にとってはコンプレックスなことだってありますよね。
今回は、そんな気持ちに焦点を当てたお話です。

ひとりのクリスマス

「ちょっと綾!どうするのよ、とうとう今日になっちゃったじゃない!」

まるで先生が生徒を叱るように声を張り上げる久美子に、二、三歩後退してしまった。

「そんなの、自分が一番分かってるってば」

村山課長に心を奪われてしまったあの日から約二ヶ月後の今日。 季節はすっかり冬を迎えていて、今日はクリスマスイヴ。
あの日からどうにか村山課長に振り向いてほしくて、自分から毎日挨拶したり、仕事ではミスしないように努力したり、 最終手段として唇が潤う魅惑のリップをつけたりしていたものの、やっぱり村山課長は私を一切見ることはなかった。

顔も見てもらえないなんて、好かれる以前の問題なのかもしれない。
危機感を感じた私は、思いきってイヴに食事に誘おう!と思い、願掛けで都内の有名ホテルのイヴ限定のディナー券を購入したものの、 肝心なことに当日の昼休みになってしまった今も、村山課長を誘えずにいた。
そんな私を見かねた久美子によって、こうやって今、人通りの少ない非常階段付近で説教を受けていた。

「せっかく買ったディナー券が無駄になっちゃうでしょ!?ダメ元でもいいから、誘いなさいよ!」
「うっ…!ダメ元なんて言わないでよね。…応援するなら、もっと違う言葉で言ってほしいんだけど」

でも久美子の言う通りだと思う。最初から覚悟はしている。誘っても断られることくらい。
だって一度も真っ正面から村山課長の顔を見たことないし。…私を見てくれないし。
だから夢見ちゃったんだよね。村山課長と向かい合わせに座って食事をできたらな…って。それもイヴの日に。

夢を見るくらいいいよね?って自分に言い聞かせていたけど、現実はやっぱり現実でしかなかった。
いつも仕事熱心で、誰かと無駄話なんてしない村山課長を誘うなんて技術は、恋の上級者でさえ難しいことだったんだ。

「村山課長には、綾のエロイ唇攻撃も効かないしねぇ…」
「べっ、別に効かなくていいし!…それに効かないからこそ、村山課長を好きになったんだから」

きっと彼なら、本当の私を見てくれる。そんな彼に好かれたら、どんなに嬉しいか…。

「とにかく頑張って退社前に誘いなさいよ?それと断られた場合を想定して言っておくけど、私は今日、合コンの予定が入っているから。悪いけど綾を慰めてあげる暇なんてないから、そのつもりでね」
「冷たいなぁ。…いいよ、そのときは一人でディナー行ってやりますよ」

断られたときは、もういっそのこと開き直ってイヴの日に行ってやりますよ!お一人様ディナーへ!!
そうよ。当たって砕けろ!的な気持ちでいかないと、きっと私にはこの先も一生村山課長に声をかけられないに決まっている。
なら、それくらいの気持ちでいかないとダメなのよ!…そう意気込んでいたのに――。

「え…直帰、ですか?」
「あぁ。だから書類なら俺がチェックするから、そこに置いておいて」

午後の勤務が始まり、誘うきっかけにと思い、書類を片手に村山課長のデスクに向かったものの見当たらず。
係長に聞いてみると、急な外出が入り昼休みが終わる前に外出してしまったとのこと。
…しかも直帰。それはつまり、今日はもう村山課長には会えないってことを意味する。

「東條、書類」
「あっ、すみません!」

悲しい現実にそのまま自分のデスクに戻ろうとしたけど、肝心の書類を出すのを忘れてしまい、係長に声をかけられる。
慌てて係長のデスクに書類を置いて、今度こそ自分のデスクへと戻った。
すると自然と出てしまうのは、大きな溜息。
なんだ…。本当に最悪。自分の意気地無し。こうなるんだったら、もっと早く誘っておけばよかった。
気持ちのモチベーションは一気に急降下してしまい、ゆっくりと仕事に取り掛かった。

「お疲れ様」
「お疲れ様です」

あれからすっかりとやる気をなくしてしまった私は、気付けは仕事が終わらず状態だった。
そしてさっき私に声をかけてくれたのは係長で、オフィスに残る最後の残業仲間だった。
時計を見ると、十八時半過ぎ。
いつものこの時間だったら何人かいるのが当たり前なのに、今このオフィスにいるのは私一人だけ。
いつもは騒がしいオフィスが、今ではシンと静まり返っている。 それがちょっと不気味で、そして悲しい気持ちにさせられる。

そうだよね、だって今日はクリスマスイヴだもの。みんな早く帰るに決まっている。

「なんか、惨め…」

ディナー券も無駄になっちゃったし。だけど、仕事をこんな中途半端なままにして、帰るわけにはいかない。
カタカタとパソコンのキーを押す音だけが、オフィスに響き渡る。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。

「んー!!やっと終わった!」

両手を上げてグッと身体を伸ばしながら時間を確認すると、二十時を過ぎていた。
仕上げた書類をプリントして、係長のデスクの上にそっと置く。

「あれ…もしかして雪?」

ふと窓の方を見ると、ひらひらと舞い散る白い雪が見えた。
そのまま窓の方へと行き外を見ると、大粒の乾いた雪が、真っ黒な空からひらひらと落ちてくる。 それなのに下を見ると、綺麗なイルミネーションがきらきら輝いていた。
そんな正反対な空間の、ちょうどあいだにいる私は、なぜか不思議な気持ちにさせられる。 真っ黒な世界からきらきらと光り輝く綺麗な世界に落ちていく雪。

それはここでこうやって見ていると、とても幻想的に見えて、そして酷く寂しくなってしまった。
一年で一番幸せを感じられる日なのに、なんで私はこうやって一人でいるんだろう。
しかもオフィスで。

ミントブルーのキス

「村山課長はもう家、かな?」

ポツリと漏れる言葉。大好きな人の名前。いや…。 もしかしたら誰にも知られていないだけで、村山課長には彼女がいるのかもしれない。
だってあの村山課長が直帰するくらいだし。そうだよね…。よく考えれば分かること。あんなにカッコいいんだもん。
同じ会社の人じゃないから、噂が立たなかっただけかもしれない。それに村山課長は、必要以上に誰とも話をしないし。

そう思うと、さらに気持ちは沈んでいく。
そしておもむろに取り出したのは、以前村山課長に貰った会社のキャラクターのストラップ。
今ではお守りのように毎日肌身離さず持ち歩いている。
久美子には「携帯につけなよ」って散々言われたけど、つけられないよ。
だって村山課長から貰ったものだから。携帯になんてつけちゃったら、ボロボロになって色褪せてしまって。
そしていつかは紐が切れてしまうかもしれないでしょ?そんなの嫌だもの。
だからこうやってポケットに入れては、毎日持ち歩いている。

「…どんな気持ちで、くれたのかな?」

自分の目の前にストラップを掲げて見ながら、いつも思っていた疑問を口にしてしまう。
励ますため?ただ貰っていらないやつだったから?…部下が落ち込んでいると思ったから?
理由なんていくらでも予想できるけど、そこに『私を好きだから』なんて理由は浮かばないのは、全くそんな可能性はないから。
…ちょっとくらい気にしてくれているなら、顔を見てくれるに決まっているよね。
ストラップを掲げたまま、もう一度窓の外へと視線を向ける。さっきと変わらず降り続ける大粒の雪。

「…帰ろう」

いつまでもこうやって会社に残っていたら、雪で帰れなくなっちゃうかもしれない。
そう思い、村山課長に貰ったストラップをポケットに入れようとしたとき、誰もいないはずのオフィスに突然聞こえてきた物音に、思わず身体がビクッと反応してしまった。

えっ…なっ、なに!?さっきの音。遠くから聞こえた物音に、一気に怖くなってきてしまった。

「かっ、帰ろう!」

自慢じゃないけど、おばけとか苦手だったりする。
ストラップをギュッと握り締めたまま、急いで自分のデスクへ向かい、片付ける。
だけど次の瞬間、また聞こえてきた音。
それは何かが鳴る音で、また私の身体はオーバーにビクッと反応してしまう。
そして次に聞こえてきたのは、コツ、コツ、と誰かが近づいてくる足音。

嘘、本当にやだ!まさか泥棒とか!?
こんな日に、こんな時間にわざわざオフィスに戻ってくる人なんているはずない。
そうなると嫌でも想像してしまうのは、悪い人の方。 次第に大きくなって聞こえてくる足音に、怖くて動けずにいた。
そして大きくなった足音は急に止まり、変わりに聞こえてきたのは、販売促進部のドアを開ける音。

「キャアッ!」

咄嗟に手にしていたストラップをドアの方へ投げつけ、目を瞑ったまましゃがみ込んでしまった。

「痛っ」

だけど次の瞬間、聞こえてきた声に瞑っていた目を開く。
え…その声って…。急激に高鳴る胸の鼓動。
ゆっくりと声のした方へ視線を向けると、そこには私が投げつけたストラップを拾う村山課長の姿があった。

「…村山課長?」

まさか…。でも本当に?目の前にいるのは、本物の村山課長?
私があまりにも会いたいって願いすぎて、見えてしまっている幻じゃなくて?
混乱する頭を働かせても、なかなか今の現状が理解できない。だってまさか会えるなんて思わなかったから…。
私の視線は村山課長から逸らすことができなかった。

そんな村山課長は、拾った私のストラップをまじまじと見て、なぜか少しだけ笑って…。
そしてストラップを手にしたまま私の方へとゆっくり歩み寄ってくる。
その足音は、さっき恐怖でしかなかった足音と同じなのに、その足音の主が村山課長だと分かった今は、恐怖心なんて全くなくて、さっきからドキドキして仕方ない。
しゃがみ込んだままの私には、村山課長がやたら大きく見えて、その眼鏡の奥の瞳はなにを見て、どんな瞳をしているのか分からなかった。

それでも私はただ、村山課長を見つめ続ける。
そしてゆっくりと私の前にくると、村山課長はしゃがみ込み、私との目線を合わせてきた。
その瞬間、初めて見る村山課長の瞳に私の胸はまた大きく高鳴り始める。
今まで一度も私の顔を見たことなんてなかったのに――。
二十センチほどの至近距離に私を見つめる村山課長から、視線を逸らせない。
どうやっていま呼吸をしているのかさえも分からない。

信じられなくて、でも信じたくて。苦しくて、恥ずかしくて。
目を逸らしたいのに、逸らせなくて。なんて言ったらいいのか分からない気持ち。

どれくらいの時間、村山課長に見つめられていただろうか。
きっとそんな長い時間じゃなかったのかもしれない。
でも初めて村山課長に見つめられて、私にはとても長い時間に感じてしまった。
本当は聞きたいことはたくさんある。どうして戻ってきたのか。どうしていま、こうやって私と視線を合わせているのか。
……どうして今まで一度も、私を見てくれなかったのか――。
聞きたいのに聞けない。ただ見つめることしかできなかった。
するとなぜか村山課長はフッと笑い、口角を上げ、ボソッと呟いた。

「……こうなるから見たくなかったんだよ」
「え……」

うまく聞き取れなかった声。もう一度聞こうとしたけど、それはできなかった。一瞬だった。
急に近づいてきた村山課長の顔。爽やかなミントブルーの香り。

できるなら、あなたを誘惑したい――。

キス…。

そう認識するのに、ずいぶん時間がかかってしまった。
好きな人からの突然のキスは、目を閉じるのも忘れさせられるほど衝撃的で、自分がキスされているって感覚さえ麻痺してしまいそうだった。
触れるだけのキスはすぐに離される。だけどさっきとなんら変わりないほどの至近距離に、一気に私の顔は熱を帯びていく。

キスされた…。やっと実感してきてしまったから…。

「さっきの続き」

え…続き?唇を撫でられたままで、言葉を出すことができなくて、村山課長を見つめる。

「こうやってキスしたくなるから、東條のこと、見たくなかったんだ…」

さっきとは違い、切なそうに吐息交じのその声に、思わずゾクッとしてしまう。
これが現実なのか、夢なのか。<分からなくなってしまうほど信じられない言葉にどうしたらいいのか分からなくなる。
ずっと大嫌いだった唇…。だけどあなただけはずっとできるなら、この唇で誘惑したかった。

「東條…。キス、してもいい?」

さっきと同じように吐息交じりの声で聞いてくる村山課長は、本当にズルイ。
私の気持ちを知ってそんな言葉を言ってきているのだろうか…?
こんな状況で、私が断れるわけないじゃない――。この唇であなたのことを誘惑できるなら、したい…。
返事をする代わりに、目を瞑り自分からそっと村山課長の唇に触れた。
長い時間なんてできるはずもなく、一瞬だけのキス――。
でもさっきよりも短い時間のキスだったのに、リアルに村山課長の唇の感触を感じてしまった。

ずっと羨ましくて仕方なかった村山課長の唇は、想像していたよりも意外に厚みがあって、そして少し乾燥からかガサガサしていて。
リアルな村山課長の唇の感触に、自分からキスしたくせに恥ずかしくなってしまい、そのまま下を向いてしまった。

「…そんなの、キスじゃないだろ?」
「え…っ!」

次の瞬間、強引に顎を掴まれ、グイッと上を見させられる。そして唇が微かに触れているほどの距離で村山課長は囁いた。

「本当のキス、させてもらうから」

その言葉が合図かのように、何度も何度もキスされる。
唇が離れるごとに、村山課長は私が目を開き、目が合うまで次のキスはしなくて。
目が合うとまた、ゆっくりキスされて――。
私の唇の感触を確かめるようなキスに、握りつぶされてしまうくらい苦しくなってしまう心臓。
キスをして、離されて、そして目が合って――。

何度繰り返しただろうか…。
唇が離れ、目が合って。…だけど私を見つめたままの村山課長。息遣いが聞こえるほどの距離。
キスしていないと、どうしたらいいのか分からなくなる。
なのに、こうやって村山課長から目が逸らせないのは、好きだから。
するとなにも言わず、さっきのように私の唇をゆっくりと一周撫でる村山課長の指に、ピクッと身体が反応してしまう。

「…好きだよ」
「え…」

ポツリと漏らした言葉。普通だったら、聞き逃しても当たり前なくらい小さな声だった。
だけど、今の私の耳にはちゃんと聞こえた。だってこんなに近くにいるんだから。

『本当ですか?』

そう聞きたいのに、聞けない。嬉しくて、信じられなくて。だけど信じたくて、夢みたいで――。
私の唇を撫でていた指はそっと離れ、近づいてくる村山課長の顔。
返事をする代わりに、そのスピードに合わせるようにそっと瞼を閉じた。

それからは、ここがオフィスだということも忘れて、村山課長がくれる唇のぬくもりに、されるがままだった。
唇が触れるだけのキス。感触を確かめるようなキス。熱くて、深いキス。 交わる吐息、苦しくなる呼吸。それでも何度も心の中で叫んでしまった。
『やめないで』って。

昔からこんな唇、大嫌いだった。
みんなには羨ましがられていたけど、私にはこんな唇ほしくなかった。
『なんでこんな唇にしたの?』って誰かに訴えたいくらいだったのに――。
いま初めて分かった。この唇は、あなたとキスするためのものだったんだって…。
今までにだって何度かキスしたことはあったのに、こんなキス知らなかった。初めてだった。
こんなに幸せな気持ちになれて、ドキドキして、気持ちよくて、ふわふわしちゃって。全部初めて――。

名残惜しそうにリップ音を立てて離される唇。
切なそうに私を見つめる村山課長の瞳に、堪らない気持ちになる。
そんな目で見つめられたら…。誘惑したい。…大嫌いだったこの唇で――…。

自分からそっとキスをした。

彼女との出会い

生まれて初めて、女性に視線を奪われた――。

開発促進部の課長に就任し、初出勤の日。
部長に『一言』と言われた際、初めて開発促進部内の社員を見渡した。
順番に見ていたというのに、その女性を見た瞬間、視線を奪われてしまった。
大きな瞳で、幼さが残る顔。それとは反比例するような唇…。
右下のほくろがまた強調していて、そのアンバランスな色気に一瞬で視線を奪われてしまったんだ――。

“東條綾”

大卒の新入社員。特に仕事ができるわけではなくて、どこの部署にでもいるような女性社員だった。
つまらないミスもよくするし、仕事が早いわけでもない。 ただ、その外見に視線を奪われただけのこと。それだけのことだった。
それなのに、次第にこの気持ちは変化していった。東條の話は社内でも何度か耳にするようになった。
同性からも、そして女性からも――。

女性の話はいつも同じ。東條に対する妬みや恨みといったような内容のものばかりだった。
昔からそうだったが、女性のそういった話は、何度聞いてもいい気分になるものじゃない。むしろ嫌悪感しかない。
うちの部署じゃないし、直接東條になにかされたわけじゃないだろ?
なにを根拠にそんなことを言うのか、俺には分からなかった。
でも所詮そこまでしか考えていなかった。この話を聞いて、東條がどう感じているのかなんて…。

それは珍しく仕事が片付き、ゆっくり休憩が取れた日のことだった。
ゆっくり昼食をとって、仮眠室で仮眠を取った帰りにたまたま聞こえてきた声に、思わず足が止まってしまった。

「久美子ー、また聞いちゃったよ私」

その声は間違いなく東條の声で、悪いと思いながらもつい立ち聞きしてしまった。
廊下の角で声を潜めながら話す東條を、必死に宥める女性。
後ろ姿で顔が分からないけど、多分あれは東條と同期の“浅野久美子”。

「そっか。…気にすんな。みんなただのひがみなんだから」

落ち込む東條を必死に宥める浅野。
きっと東條がそんなにも落ち込む原因は、多分アレだよな?
度々耳にする女達の東條に対する妬み。確かに聞いてしまったら、ショックかもしれない。
だけど東條はなにも悪いことなんてしていないのだから、浅野の言う通り気にしなければいいのに…。

女はいちいち気になるんだろうな。そう思うと正直『面倒だな』って思ってしまい。つい大きな溜息が漏れる。
正直、昔から女は苦手だった。何度か付き合ったことはあるけど、いつも面倒になって長く持たない。
自分の性格に問題があるのかもしれないけど、きっと女性に対する偏見をずっと抱いているからかもしれない。

“面倒” “すぐ泣く” “うるさい”

この三拍子が苦手で、この歳になると自分から遠ざけるようになっていった。
所詮、東條もそんな苦手な女性の一人。ただ、視線を奪われただけの女性――。
そのまま気付かれないようにそっとこの場を後にしようとしたが、聞こえてきた東條の声に、また俺の足は止まってしまった。

「こんな唇、いらない。…大嫌い」

東條のその言葉に、息を呑む。まさかそんなふうに思っていたなんて、思わなかったから…。
女性なら誰もが羨ましがる東條の唇――。男なら、絶対目がいってしまう魅力的な唇――。
なのに、そう思っていたなんて、信じられなかった。

俺を誘惑する、その唇――。

それから何気なく自然と東條を見るようになってしまった。
すると今まで見えなかったものが次第に見えていき、いつしか彼女に惹かれていった。
確かに仕事ができるほうではないけど、いつも一生懸命でがんばり屋な彼女。
女性の先輩社員の嫌がらせにも嫌な顔一つ見せない。みんなが嫌がる仕事だって、進んで取り掛かってくれた。
色気があるアンバランスな顔を持っているくせに、笑うと一気に幼さが出で、素直に可愛いと思った。
そんな彼女の魅力に気付いてしまったら、惹かれないわけがない。

だけど自分の気持ちに気付いてしまうと、どうしても彼女を見ることができなくなっていった。
彼女を真っ直ぐ見つめたら、我慢できなくなりそうだったから――。
自分の欲望のまま感情をぶつけてしまったら、他の男と変わらない。
俺は違う。他の男と一緒に思われたくなかった。だから俺は、賭けに出たんだ。
たまたま耳にした部下達の東條に対する不満。

そこに居合わせてしまい、見つからないように身を隠す東條。願ってもいないチャンスだと思った。
さり気なく助けて、そして声を掛けて。自分の気持ちを込めて渡したなんてことない、貰い物の自社製品のマスコットのストラップ。
もし…。もしも東條も俺と同じ気持ちでいてくれているなら、きっと携帯につけてくれるはず。
いつもは業務上以外の話はしない。
いい歳して情けないと思いながらも、声が震えそうになりながらも、どうにか伝え、ストラップを渡した。

その日からますます東條から視線を逸らせなくなった。特に休憩中に。
俺と同じ気持ちを抱いてくれているかもしれない――。

だけどそんな思惑は見事に打ち砕かれてしまった。
いつ見ても、東條の携帯には俺が渡したストラップがつけられることは、一度もなかった。
所詮一方通行な想いだった。
諦めればいいのに、それでも東條のことを嫌いにはなれず、むしろ気持ちは膨らむばかりだった。
世間ではクリスマス一色だったからだろうか。

東條とクリスマスを過ごせたら…。なんて女みたいな憧れを抱いてしまう始末。
おかげでイブの日、前日に出した各業者への商品案内書にミスがあることに気付き、午後から急な外出が入ってしまった。
東條と今日一緒に過ごせないなら、このまま会わない方がいい。
逆にミスしてよかったのかもしれない――。係長には『直帰する』と伝え、会社を後にした。

「それでは失礼します」

最後の取引先を後にし外に出ると、雪が降っていた。時刻は十九時半過ぎ。
ホワイトクリスマス、か……。こんな日はますます人のぬくもりが恋しくなる。
今日はクリスマスイブ。ほとんどの社員が皆、早めに帰宅する日。

「行ってみるか…」

いるはずないって決まっているけど、さっきから降り続ける雪をこうやって見ていると、信じてみたくなった。
よく言う“クリスマスの奇跡”ってやつを。
最初から信じていなかった。会社に着いた頃には二十時を回っていたし、オフィス内はシンと静まり返っていたから。
だけど開発促進部に近付くと見えてきた光に、淡い期待を抱いてしまった。
もしかしたら、いるのかもしれない。奇跡が起きるのかもしれない…って。

ドアの前で、軽く深呼吸をして、そっとドアを開ける。

「キャアッ!」

ドアを開けると同時に、なぜか聞こえてきたのは怯えたような叫び声と、そして俺の顔に飛んできた物。

「痛っ」

見事に顔に当たってしまい、しゃがみ込み、当たったものを確認する。
一瞬、息が止まってしまった。それは俺が東條にあげたストラップだったから…。
そしてそのストラップを投げつけてきたのは、東條だったから――。
この奇跡に、自分の気持ちを抑えることなんてできなかった。

見たい、触れたい。東條のその、唇に。伝えたい、自分の気持ちを。見て、触れて。そして感じて――。

堪らなく好きだって再認識させられる。きっと彼女の唇には、一生勝てない。
赤みをより一層含んだプルプルの唇。ぷっくりツヤツヤしている唇。
一度でも見たら、思わず食べたくなってしまう美味しそうな唇――。
そんな魅力的な唇に誘惑されてしまったら、拒めるわけないんだ――。
ここがオフィスとか、誰かに見られたら、とか。そんなこと考える余裕もないくらい、ただ彼女の唇を奪った。

確かめるように、感じるように、味わうように――。

大嫌いな唇

「綾……」

切なそうに私の名前を呼ぶ彼。

いつもそう。
彼は私にキスするときは、こうやって私の名前を呼ぶ。
そしてその長い指で、私の唇をそっと撫でる。その一連の仕草に、私はいつもドキドキしてしまっている。
何度も彼とはキスしているはずなのに、こうやってドキドキしてしまう。
その瞳が、触れる指が、声が――。全てで私を『好きだ』と言っているようで、胸が苦しくなる。

私の唇の感触を確かめるようなキス。恥ずかしくさせられるキス。苦しくなるキス。
彼がくれるキス全てに感じてしまう。

昔から大嫌いだった。この唇が――。
子どものときからバカにされて、妬まれて、下ネタにまでされちゃって。
本当、いいことなんて何一つなかった。羨ましがる友達と、交換できるものなら交換したかった。
だけど今はそんなこと、思わない。

「……綾の唇、すっげ好き」

そう言ってまたそっとキスを落とす彼。その色っぽさに、カッと熱くなる頬。
そんな私を見て、彼はクスクスと笑いそして私の耳元でそっと囁いた。

「もちろん、唇だけじゃない。…綾の全てが好きだよ」

彼がいてくれて、好きだって言ってくれる。
もう思わない。自分の唇が、大嫌いだなんて――そう言ったら、なぜか彼は満足そうに笑った。

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