注目のワード

小説サイト投稿作品46 「花ぞ昔の香に匂ひける」


「花ぞ昔の香に匂ひける」

〜LC編集部のおすすめポイント〜

大学卒業というタイミングで“彼女との将来”よりも“自分の夢”を選び、そのことがきっかけで喧嘩別れした彼と偶然再会した主人公。
驚くほど素直に、以前と変わらない想いをぶつける彼の本気の言葉を聴くたびに、彼女の心は揺れて…

とても一途な彼の言葉ひとつひとつがいい意味で重く、心が揺れてしまうのもわかります。
嫌いになって別れたわけではないということはこんな可能性があるんだなとしみじみ感じ、再び近づいていく二人にキュンとしました!

昔の恋

私の告げた言葉に別段驚く素振りも見せずに、彼はひとつの顔色も変えることなく冷静な面持ちで訊き返してくる。

「それが、この四年間続いた恋の答えなのか?」

これまでだったら、こんな場面では何も言えずに俯いたままでいたかも知れない。
あるいは、そのままひるんで涙をにじませたかも。
でも、今はそう言う斜に構えた態度さえも癪に障って、私は思わず抑えていた声を荒げてしまう。

「そうよ。だから、こんなこともう終わりにしたいの。このまま関係を続けるには、私達は子ども過ぎるから」

その言葉に一度は伏せた顔を大仰に上げた彼は、ひどくおかしそうに笑い掛ける。
まるで悪びれず、ひとつの悔恨も見せることなしに。

「『子ども過ぎる』だって?俺達は'あんなこと'も'こんなこと'もしたのに?」

突然の臆面なく放たれた一言に、何よりも驚いて――
そして、次第にどうしようもなく苛立ちが込み上げる。

「そう言うことをすぐに言い出すから子どもだって言うのよ。私達もうすぐ社会人になるっていうのに」
「だから何だよ、ただ大学生じゃなくなるってだけだろ。別に二人の仲がどうこうなるわけじゃないはずだ」
「分かってないのね」

そう言いながら自然と漏れる溜め息にさえ、彼は襟元を正して見せる風もない。
その事実が最後に残された正義心を掻き立てて、私はますます募る鬱憤に衝き動かされるように立ち上がった。

「あともう一ヶ月もしないうちに、私達は晴れて大学を卒業するのよ。私は第一志望の会社に内定を貰ったわ。でも…」
「その話なら何度もしただろ。 俺には俺なりの生き甲斐がある。それを二人の未来のために曲げることなんか出来ねえよ」
「また夢を持ち出すわけ?それって、そんなに大事なことなの?」
「ああ。この期に及んで『私とどっちが大事』なんて訊くなよ。そんなの答えらんねえからな」
「……それが答えも同然でしょ」

そのまま私は、その場を立ち去ろうとしていた。
今は悲しみより怒りより、何よりも'呆れ'の方が勝っている。
どんなことがあっても声を荒げて、相手の落ち度を責め立てる段はもう過ぎた。
ほかの何も噛み合わなかった二人なのに、その点に関しては同様のようで、ずっと無言を通していた彼がようやく重い口を開く。

「今出て行っても、俺を忘れられずに必ず戻って来る。こんなに長く情熱を燃やし続けた相手に、そう簡単に背を向けられるはずがないからな」

そんな予想とも願望ともつかない投げ掛けを背に受けながら、私は目の前まで迫った扉を開けて、その部屋を振り向かずに後にした。

ふと嫌な昔話が脳裡を過ぎって、私はキーボードをタイプする手を止めた。
どうして突然そんな記憶が蘇って来たのか分からない。
それは、もしかしたら年度末で多忙過ぎる時勢が祟ってのこと――
そうじゃなければ、あるいは、最近になって色々な出会いに直面して、それに少し面食らっているせいかも知れなかった。

ここ一ヶ月足らずの間に起こった出来事は、私の冴えない人生のなかでも、とても刺激的なものだったと自分でも思う。

以前からずっと憧れていた同僚と友達以上恋人未満の関係にまで漕ぎ着け、 とても頼もしく思う反面で畏敬の念すら抱いていた上司に誰にも見せない甘い笑顔でとろかされ、 あろうことか初対面の美男子と一夜を過ごして、かつて学園のアイドルだったイケメンに抱き締められた。

彼らは彼らなりに真剣に、私を想ってくれてる。
それが分かっているだけに、そのことをちょっと考えるだけで、この胸はひどく痛んだ。
でも、どんなに悩んだって、結局選ぶことが出来るのは、たった一人きり。
その一人になれない大多数を傷付けることになるのだから、あまりに残酷と言えば残酷な話だった。

もしも――

私は、この人生において恐らくと言わずに最初で最後であろう'モテ期'に、この空っぽなココロを投げ掛けてみる。
もしも最終的に誰を選ぶことになるとしても、そこには並々ならぬ覚悟ってものが必要とされるはずだ。
そして、その'覚悟'ってやつを備えるには、 私はまだまったく子ども染みている。
その幼さを克服するには、 かつて'子ども過ぎる'と言う理由で別れを告げた
恋人との関係に向き直るしかないと思えて、私は図らずもその過去と向き合うことを試み続けている。

――彼と出会ったのは、
未だに忘れもしない大学の入学式だった。

王子様との出会い

まだ上京したてで右も左も分からないヒヨっ子には、何もかもが物珍しく見える新天地に目を見張るばかりでいたことは、なんだか遠く昔のことのようだ。
それまでに見慣れた校庭の代わりに横目で眺める大広場、毎日目を通すようにとその後に固く言い付かる掲示板に、その学閥の由緒を思わせる創立時からのシンボル・ツリー……。
そして、それまでを学ランとセーラー服で過ごしてきた中高生時代とは違って、ひとたび大学の門をくぐれば男女の別なく単なる'学生'として扱われることを、その日を迎えてみて、私ははじめて知ることになる。
ただ簡潔に学籍番号順に着席するように指示された私の周囲は、何の因果か男子ばかりがあふれ返っていたこともあって、ほんの少しばかり焦りがあったことは確かだ。

(一刻も早く女の子の友達を作らなくちゃ……!)

そう息巻く私の前に現れて、まるで歯の浮くような台詞を言って退けた彼の姿は――
そのまま恋に落ちてしまうには、充分過ぎるほどに魅力的だった。

「俺達って同じ年に同じ大学の同じ学部に入って、こうして学籍番号も近くて……これってもう運命じゃないか?」

今にして思えば――まるでそんな素振りは見せなかったけれど、彼にとっても新生活は心細いものであったのかも知れない。
私達は出会ってすぐに意気投合して、その日のうちに付き合いだした。
お互いに上京して来た地方出身者同士として、なにか惹かれ合うところがなかったと言えば嘘になる。
その夏にはお互いの両親に紹介し合って、さらに何歩も先を行く仲をたった十代にして深めた。

彼のご両親の感触も決して悪くはなかったけれど、とりわけ私の父母の反応は、それは大袈裟なものだったのを今でもまだ覚えている。

「いやだ、随分と達希くんっていい男じゃないの! これは入学式の当日に口説き落とされちゃうだけのことはあるわねえ」

そんな能天気な口調で手離しに誉めちぎる母の、彼への執心は相当なものだったと思う。
何年にもならないのに歳月を追うごとに「さっさと結婚しろ」だの「早く孫を見せろ」だのと要求がエスカレートしていっている事実に気付いていないわけではなかった。

確かに、既に別れを喫した仲ながら達希は、今思い返しても欠点のないまさに'いい男'だったと思う。
私と同じ下宿組で苦労を分かち合えたし、その分だけいろいろなバイトに従事して、お互いを切磋琢磨して高め合えた。
それなりに学力が求められる大学に合格したものの、そこそこの成績を残そうと試みて結果的には失敗した'落伍者'同志の絆もある。
普通ならそれくらいがせいぜいだけれど、彼はすこぶるかっこよかった。

ただ『かっこいい』って言ったって、いわゆる並の'それ'じゃない。
かつて入学時に演劇サークルに入団したのを皮切りに、その在籍中に有名な俳優を何人も輩出した劇団の預かりとなって、それ以降は主だった舞台で凄まじい活躍を見せていた。

その顔立ちもスタイルも一般人の外見とは桁外れに整っていて、そこには誰もが振り返るオーラさえ漂っている。
そんな彼との将来を見据えて就活に精を出し、なんとか辛くも職を得た私にとって、彼がその腰を落ち着けようとせずに劇団に残ったのは、まさに青天の霹靂だった。
それでも彼を信じようと堪え続けた恋心は、これから働きはじめようと言う余裕のなさから、ふとしたきっかけで呆気なくもその終わりを迎えてしまう。

――『今出て行っても、俺を忘れられずに必ず戻って来る』――

つくづく返す返すも悔しいのは、その別れ際の台詞が、あながち間違ってもいなかったと言う事実だ。
学生時代を通して目標とし続けた会社に内定こそ貰えたものの、それから先の人生設計を鮮やかに彩っているはずの'結婚'と言う二文字を、未だに漠然と追い続けている。
彼を「この人こそが王子様」と標榜した頃から、何にも状況は変わってないような気がして、私は人知れず歯噛みを決め込んだ。

再会

もう四月にもなろうと言うのに、相変わらず街を飾り立て続けているイルミネーションを見つめながら、この顔に浮かんでいるのは、誰もが心待ちにしていた週末に似つかわしくない仏頂面だったと思う。

いつの間にか気が付けば終業を過ぎていて、私は傍らに置いていたバッグを掴んで、そのまま逃げ去るように職場を後にしていた。
こんなウヤムヤなキモチを抱えたままじゃ、今夜は職場にはいられない。
だけど、今はまだ家には帰りたくない……。

そんな捨て鉢な思いから、いつもなら滅多にない定時上がりを受けて、こうして柄にもなく繁華街をウロついちゃったりしてるわけなんだけど――
それなのに新作のバッグや靴を見ても、その周辺を賑わす幸せそうな人々の雰囲気に触れても、この心は一向に晴れる気配がなかった。

自分では気付かなかったけど、やっぱり過去の恋と向き合うってことは誰にとっても相当な痛手らしい。
もしもあのまま付き合っていたら、こんな気持ちになることなんてなかっただろうな……。
ふと頭に浮かんだ馬鹿げた考えを慌てて追い払って、私はもう一度前を向き直す。
どんなことでも'たられば'に思い馳せることなんて、何の役にもたたないし虚しいだけだ。
それに、あの恋はああ幕引きすることで、とっくに終わりを告げているんだから。

でも――

そんなことは無駄だと思いつつ、私はずっと探ることを禁じて来たひとつの可能性について、今更その禁を解いてみる。
でも、今達希に会ったら、私は一体どうするだろう?
その足許に縋って復縁を乞うかそれとも最後に会話したときと同じ呆れに見下すのか、はたまた長い歳月を置いてもう無関心に変わっているのか……。
どんなに悩んだところで、やっぱり結論なんて出なくて、私は密かに拾い上げた匙をもう一度投げ捨ててみせる。
今度と言う今度は、もう見付からないほどに遠くへ。

私が自虐に背を向けて振り返るとそこには何故か人だかりができていた。
なにかのイベント?それとも事故が起きたとか?
どちらにしろ、その野次馬に加わるより、今日はもう帰って休んだ方がよさそうだ。
幾重にも及ぶその人垣を遣り過ごして、なんとか帰宅の途に就こうと歩を進めた私の肩越しに、昔から聞き覚えのある活き活きとした声が掛けられる。

「昔馴染みを無視して行くとは、随分と冷てえじゃん」

この声はまさか――
そんな心当たりに振り向いた私の目が捉えたのは、かつて見慣れた長身に映える、淡いけれど豊かな髪に整った顔立ちの……まさに'思い出の権化'だった。
それを取り囲むようにその場に連なる女の子達の視線が一斉にこちらへ向けられて……
こんなの居心地悪過ぎだったら!

まったく遠慮なしに浴びせ掛けられるその視線に気付かないはずはないのに、むしろそれをおかしがるように達希はとんでもない一言を繰り出して来る。

「俺達は'あんなこと'も'こんなこと'もした仲だってのに」

そんな軽はずみな言葉に沸き返るその場から連れ去られるように、この手を強引に掴んだ彼に引き摺られるようにして、私はその場を後にした。

いくつも細い路地を抜けて行き着いた喫茶店で、私達は向かい合って座りながら弾む息をなだめ続けていた。
さっきの場所から有無を言わさずに結構な距離を走らされて、ただでさえ普段から運動不足な私はもうヘトヘトで……。
おかげで、折角オーダーを取りに来てくれたウェイトレスさんに答えられずにいると、先に平静を取り戻した達希が代わって注文してくれた。

「どうせブルーマウンテンだろ?あの頃から、全然変わんねえのな」

……そう言う自分だって、相変わらずトアルコトラジャにしたくせに。

そう言い掛けて飲み込んだところへ大袈裟な鐘の音みたいなものが聞こえた。
何処か懐かしくて、なんだかあったかい印象のするその音色は、どうやら年季の入った柱時計が鳴らしたものらしい。
ふと周囲を見渡せば、このお店にはそうした骨董品やアンティークがそこかしこに置かれている。

どうしてこんな雰囲気のある素敵な純喫茶を、よりにもよって達希なんかが知っているんだろう?
そんな疑問に駆られて、まじまじ目の前の人物を見つめてみる。
あの頃と変わらない不機嫌そうな唇もそこによく頭を預けて眠った広い肩幅も、その魅力はそのままに、さらに大人の色気を備えた分だけ素敵に見えた。

色褪せない思い出

もしかしなくても、今はもう別の恋人がいるのかな……。
そう言う結論に至らずにはいられないほどに、さらなる魅力を身に付けた元カレを見て、なんとなくそう思った。
こんな冴えない自分にさえ想いを寄せてくれる人がいるのだから、まして達希ほどの人気者ともなれば、その想像に難くない。
現に、さっきものすごくたくさんの女の子達に囲まれていたわけだし…。

そう考えめぐらせる私の顔に、自然とその疑問は表れてしまっていたのだと思う。
(あの女の子達は一体何なんだろう?もしかしてあのなかの誰かが、彼の新しい――)
隣のテーブルの上に置かれた木製パズルに興じるのを無言で見つめ続けていると、何の前触れもなく彼が言う。
まるで言葉にならない疑問を察したみたいに。

「最近はモデルもやらされててな……さっきのは、その撮影。何処にでも来る野次馬が集まって来ただけで、別に恋人だとか彼女だとか、そんなんじゃねえよ」

その手元のパズルを未完のまま戻しながら、ちょっと気まずそうに、そう種明かしをした。
彼は私の方へ向き直るけれど、その視線はちっともこちらを見ようともしない。

「あれだけ啖呵切って役者になった割に、たかだか雑誌に載るくらいで大騒ぎされて……こんな体たらくじゃいい物笑いの種だよな」
「そんなことないよ。あんなに人気があるんだもの、ほんとにすごいって思う」

ば、馬鹿!私ったら何言って……!
まるで掛けるつもりのなかった労りの言葉が思わずに突いて出て、私は慌ててこの口を噤む。
それが達希の方でも意外だったのか、いつもは眠たげなその目を大きく見開いた後で、とても嬉しそうに「ありがとな」って小さくつぶやいた。

「あれから――」

私達のどちらも恐れているらしい沈黙を避けるように、そうして達希は間髪を入れずに口を開く。

「あれから、どうしてた?」
「それなりに順調だよ。最初の何年かはどうなることかと思ってたけど、乗り越えちゃったら、なんだか仕事も楽しいなって」
「そりゃよかった。 もしかしたら毎日泣いて暮らしてるんじゃねえかって心配してた」
「まあ、まだ就職して間もない頃はね。でも、もういい大人だもん。最近では一人で企業セミナーに出して貰ったりして、だんだん責任も増えた感じだし」
「それで?」
「『それで?』って?」
「決まってんだろ。誰も仕事の話に興味なんかねえよ。俺と別れてから新しい彼氏はできたかって訊いてんだ」

あまりにも唐突過ぎる直接的な質問に、私はどうにも言葉を詰まらせてしまう。
そうだ、いつだって彼はこう言う性急な質問の仕方を好んで、それをよくぶつけてきた。
そんな駆け引きを好まない素直さを嫌いじゃなかったはずなのに、もう長いこと離れているあいだに、それを忘れてしまっていたなんて。

かなり辛抱強く答えを待ってくれてはいたものの、どう答えるべきか未だに目を白黒させたままの私を見て、その腹を決めたように達希が吐息混じりに打ち明けて来る。

「俺には誰もいらない。今も、これからも。たった一人を除いて付き合う気なんかねえからな。この世界中の誰ともだ」

まるで予想していなかった甘い告白を空笑いで往なそうとした私の手をもう一度掴んで、達希が力強く握り締める。
その痛いくらいに込められた気持ちも切なすぎる視線も、そのどれもが真剣さを語るには充分で、私ははじめて達希の本気を思い知らされた。

「そう思ってんのは俺だけなのか?さっき姿を見掛けて、すぐに'そうだ'って気付いた。いつだってあの頃のことを思い出さねえ日はねえってのに」

『私だって』――
そう言い掛けて、私は辛くもその言葉を口に乗せることを躊躇う。

『私だって、昔二人で過ごした時間を簡単に忘れたりなんかできなかった』

どうしてそんな本音を素直に言うことができただろう?
そんなにも未練を引き摺るほどに愛していたはずの'恋人との将来'よりも、彼は'自分の夢'を優先させたんだ。
その時点で二人の関係はとっくに片が着いているんだって、自分に言い聞かせることで、なんとか今日まで生きて来られた。

「あのままで青春が続いてくんだって、そう信じて疑いもしなかった。この手を離してからの毎日は地獄だったよ」

今更何も言うべきことなんてなくて沈黙を決め込む私に、急に達希はとんでもない告白を押し付けて来る。

「こうやって夢に執着するより、二人でいられるなら勤め人にでも何でもなっとくんだったって、あれから何度思ったか知れない」

そんな悔恨を打ち明けられたところで、すべての物事には遅過ぎると言うことだってある。
誰しも自分の選択を憂えて、まざまざ悔いることはよくある。それに取り返しがつかないとなれば、余計に。

「でも、それを選んだのは、私じゃないもん。あのときに気付いて欲しかったことを今になって言われたって、もうどうしようもないでしょ」

その言葉を禁じ手と知りながら言い放って、ふいに私は視線を逸らした。
なのに、彼はまだこの手を握り締めたままで離そうともしない。
それどころか、より込める力を強めてさえ来る。

「あのまま残された思い出だけに縋って生きるには、これからの人生は長過ぎるんだ」

忘れられない

しばしの気まずい沈黙を突き破った彼の言葉に、何も考えさせられるところがないではなかった。
さほど遠くない下宿先を行き来し合いながら、結局はどちらかの部屋で半同棲に落ち着くと言うのは、取り立てて盗むべき親の目を持たない学生カップルにとって当然の成り行きだろう。

その側を離れる日がまさか来るなんて思わずに置き去りにしてきたものたちを、私は思い返してみる。

まだ大学入学直後の嬉しさに勢い余って買ったお揃いの校章入りマグ、あの年代にしか許されない際どい露出の水着、今ではすっかり型落ちしてもう用を為さなくなった古い携帯の充電器……
それらのどれも、今の私には未練のない不用品ばかりだ。
彼にとっても同じだとばかり思って、今日まで忘れようとしてきたのに、まさかまだとってあるなんて――

「なにもあんなガラクタに囲まれて生きることないでしょ。さっさと全部捨てちゃって、新しい恋でもしたら」
「何もかも全部捨てろって言うのか?」
「だから、そう言ってるでしょ。とっくに捨ててるって思ってたし、私にはもういらないモノだもの」
「……あの香水もか?」

そのたった四文字の単語を聞いただけで心臓が突かれたように高鳴って、私は息が止まりそうに驚いてしまう。
どうやって手に入れたのかは、よく覚えてない。
もしかしたら誰かから譲り受けたか、あるいはなにかのイベントで貰ったのだったかも。

その香水のインガな名前を冷やかしながら半信半疑に使ってみたものの、たった一押しで効果は絶大だった。
'何度も何度もつかみどころなく変わる香りに絡め取られるみたいにして、お互いに求め合う'そんな甘い時間が、幾日も幾晩も続いた。

「あの快感を忘れたとは言わせねえぞ。その髪に触れて、それから激しく唇を貪り合って、あちこちに舌を這わせて抱き合って、そのまま――」
「……っ、やめてよ!そんな戯言なんて、もう聞きたくないんだから」
「なんで?とっくに捨てた男がとり憑かれた、とっくに捨てた思い出話だ。ただの戯言だって言うなら黙って、別のヤツのことでも考えてりゃいいだろ。どうしてそうしない?」

その理由は、たったひとつに決まってる。
この髪を撫でる時のちょっとじれったそうな指遣い、いつも唇を奪う前にはそこを親指で優しくなぞって……
この人が服を脱がせてくれるときには、そのケダモノのような衝動に破られたりしないようにって、あの頃は到底ブランドとは縁遠かったっけ。
でも、どんなに飾らなくても、あの日々はまぶしいくらいに輝いてたのかも。

――私は、今でも彼のことが忘れられないままなんだ――

今でも目を閉じれば鮮やかに蘇る思い出に落ちる涙を、彼が差し出したハンカチが受け止めてくれる。
いつからこんな気の利いたもの持つようになったの?
しかも一目で高級ブランドと分かるようなシロモノを、それとはまるで無縁だと思ってた彼に差し出されるなんて。
じっとハンカチを見つめながら止まらない涙を、彼がその長い指で掬いとってくれる。

「これから俺の部屋に来ないか?その涙を止められるようなこと、してやれると思うから」

そう言われて、私はあの頃に二人で暮らした西陽の強い古びたアパートの一室を思い出す。
何もなくて夢ひとつきりの生活も楽しかったけれど、今あそこに戻るには私はあまりにも年齢を重ね過ぎちゃった……。

変わらないもの

「ここからじゃ、とてもじゃないけど遠過ぎるわ」
「確かにな。でも、お互いに年取ったんだ。いつまでもあの部屋に住み続けてると思うか?」
「引っ越しちゃったの?」

なんだか寂しいような苦いような――
どちらにせよ、ひどく自分勝手な気持ちを沸き返らせた私の耳に舞い込んだのは、実に疑わしい言葉だった。

「この道を挟んで向かいにデカいビル、あるだろ? その後ろに高層立てのマンション見えるよな。あれが俺の新居」

ここは都内でも有数の人気街だ。
さっきの繁華街から少し離れているとは言え、その住環境から芸能人や著名人の住まいも多い。
ましてその場所にあるタワー・マンションは、まず私達なんかには手の出せない高級で有名な物件なんだから。

「……嘘ばっかり」

あまりに信じ難い言葉に顔をしかめている私をよそに、彼は驚きの事実を畳み込んでくる。

「実は、今映画撮ってんだ。その監督が結構うるせえ人でさ、すげえ時間とかにも厳しいの。でも、その人に起用された新人は必ず売れるって折り紙付きの才能だから、いずれ出世払いで返せばいいって事務所が用意してくれたんだ」
「そんな……だって映画なんてそう簡単に……」
「それだけじゃないぜ。 来年には新しくできる劇場の柿落とし公演で主役やるし、この春の新ドラマにも出演が決まってる。まあ、こっちはキー・パーソンとは言え、そんなに出番は多くねえけど。俺の方も信じて貰えなかったなりに、それなりに順調にやってんだ」

『信じて貰えなかった』――

彼の口から繰り出された鉛のように重たい言葉が、この心にずしりと圧し掛かる。
今日までずっと現実を見てくれなかった恋人を恨めしく思ってきた。
けれど、もしかしたら、それは彼の方だって同じだったのかも知れない。

「そう達希が言うなら、達希の言うことなら、何だって全部信じるよ」

私は一緒に夢を信じてあげられなかった自分を恥じて、その反省をたった一言に込めた後で立ち上がった。
そんな私をまるで壊れ物を扱うように、達希は優しい力で引き止める。

「おい、大丈夫か?まだここにいろよ、せめてその涙が乾くまで」

この世は目まぐるしく変わってしまうものだらけ。でも、いつまでも変わらないものだってあるのかも。

「ここにいたって仕方ないでしょ。久し振りに見たいな、あのマグや水着や――それに香水も」

私の言葉に驚いたように目を見開いた彼も、その長身を燻らせるようにして、ゆっくりと立ち上がる。
その四文字の言葉をつぶやきながら抱き締められた温もりが、今夜もう一度燃え上がる恋の予感を告げている。
それはきっと永遠に消えない香りのように、これから縺れ合う私達に、いつまでも快感の余韻を残し続けていくに違いなかった。

この投稿小説を読んだ方におすすめ

今、人気・注目のタグ<よく検索されるワード集>(別サイト)

あらすじ

大学卒業時、彼女との将来よりも自分の夢を選びケンカ別れした二人が偶然再会して…
彼の変わらぬ想いを知り、彼女の心は揺れ動き…

公開中のエピソード 全61話公開中
カテゴリ一覧

官能小説