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小説サイト投稿作品15 「アオルクチビル」(ペンネーム:櫛川沙希さん)


「アオルクチビル」(ペンネーム:櫛川沙希さん)

〜LC編集部のおすすめポイント〜

ひとり残業中の主人公のもとへ、腰の低い上司の室長が労いにきた。
捨ててあったというリップグロスを渡し、主人公の失恋に触れる。
実はそれは主人公がわざと捨てたもので…?!

無害だと思っていた上司の素顔とは?
ふたりきりのオフィスでキス…主人公の心の揺れが伝わってくるような作品です。

最初とはまったく異なる室長の態度のギャップに キュンとときめいてしまいました♪

戻ってきたリップグロス

「これ柴崎君のものですよね?」

定時前ぎりぎりの時間にまわってきた『至急』の見積もり書のせいで、電卓片手にひとり残業しているときだった。

ノー残業デーの水曜日だから、てっきりもう帰っているのだとばかり思っていた御幸室長が、購買課のフロアに入室してきた。

彼の手の中にあるものを見て思わず失笑しそうになる。
いかにも女の子が好きそうな繊細でデコラティブな容器に入ったそれは、某ブランドのリップグロスだ。
すこし骨ばった室長の手の中でさえ、その主張のあるつやつやとしたパールピンクが意味ありげに輝いている。

「お疲れ様。また営業二課がこんな時間に無理やり押し込んで来たんですか?」

誰に対しても腰の低い室長が、私の手元を覗き込み、いつもながらの丁寧な言葉で残業を労ってくれる。

「室長こそお疲れ様です。私のこれはいつものことですから」

会話をしつつも、室長がグロスを差し出してきた。
私が受け取ることを逡巡していると、不思議そうな顔をして「柴崎君のものではありませんでしたか?」と訊いてくる。

「私のです。室長、よく分かりましたね。…これ、どこで?」

「喫煙所のゴミ箱の中にあったらしいですよ。今、清掃の田上さんに渡されました。 まだ中身もたっぷり入っててしかも高価なものみたいだから、誰かが間違えて落としたんじゃないかって。 喫煙所を利用する女子社員はこのフロアでは柴崎君くらいでしょう。それに…」

「――こんな高い化粧品使うなんて、年増の私くらいですからね」

見積もり書に視線を落としたまま言った言葉が、自分で思っていた以上に自虐的な言葉になってしまう。
御幸室長は整っているけれどあまり印象に残らない控えめな顔に、困ったような笑みを浮かべた。

「柴崎君。たかだか28で年増っていうなら、30も半ば過ぎてる僕はなんですか」
「室長はいいんですよ。男だし、年齢なんか気にならないでしょう?それに男前で若く見えるんですから」

自分で言っていて、いちいち棘のある言い方だなと内心呆れていた。
室長もそれを感じ取っているようで、

「…柴崎君?今日はどうかしたのですか」

と気遣わしげに訊いてくる。

部下に嫌味っぽい言い方をされているというのに気分を害した様子もない。
やさしげな見た目といい、懐の広さといい、本当によくできた男だ。あいつとは大違いだ。

「まるでお前みたいだって」

「すみません。…ちょっと室長に当たってしまいました」
「べつに構いませんが、君みたいなしっかりした人が感情的になるなんて、珍しいこともあるんですね」

そう言って、室長はじっと私を見詰めてくる。

「もしかして失恋でもしましたか?」

穏やかな雰囲気だけど口数はさほど多くなく、部下のプライベートには酒の席であっても立ち入ってくることがないのが御幸室長だ。
他の男性社員に言われたなら即座に「それってセクハラ発言ですよ」と指摘してやるところなのに、 御幸室長がこの話題を振ってきたことがあまりにも意外だったから、思わず本当のところを答えていた。

「いえ。まだですけど」
「まだ?」

煮え切らない私の言葉に、室長は不思議そうな顔をする。

「はい。まだ別れてはいません。でももう時間の問題なんだと思います」

手元に戻ってきたリップグロスを呪わしい気持ちで見下ろす。

「これも捨てるつもりだったんですよ」

このグロスを塗って浮かれ気分で退社した昨日の自分を思い出し、苦笑してしまう。

「捨てる?どうして、」
「…彼に言われたんです。水飴みたいでベタベタで、まるでお前みたいだって」

未練を引き受けるということ

―とてもキスする気なんて起きねぇよ。

久々のデートに舞い上がっていた私に、あいつは無情にもそんな言葉を浴びせてきた。

もともと俺様気質で口うるさい男だった。
付き合いはじめは私もそれを彼の男らしさとして楽しむことができていた。
けれど長く付き合えば付き合うほど、メッキが剥がれていくように、彼の傲慢さがただの配慮の足らない幼稚さとして目に映るようになり、 自信家な男はだたの我の強いだけのちっぽけな男に成り下がっていた。

でもそれでも私はあいつのことが好きだった。デートの前にはうれしくてコスメを新調してしまうくらいに。
でも気持ちがあったのは私だけで。昨日は折角会えたのにセックスどころかキスのひとつもしないまま。

決定打があったわけじゃない。けれどもう駄目だろうなということだけは分かっていた。
連絡を取らなければこのまま自然消滅、取ったら取ったで心無いことを言われるだけ。
結果が同じなら、せめて「ベタベタして気持ち悪い」と思われない引き際を心得るべきだと思った。

高価だったグロスごとあいつへの気持ちもゴミ箱に投げ捨ててやった。
そのつもりだったのに。

「…ひどいですよ、室長」

抑えようとしても恨みがましい声になってしまう。

「折角思い切って捨てたはずだったのに。これで未練が残ったらどうしてくれるんですか?」

酔ってるわけでもないのに、いい加減八つ当たりが過ぎるな。
室長に悪態をつきつつ、内心では反省して、室長にひとこと謝ろうとする。
けれどそれより先に室長が思わせぶりなことを囁いてきた。

「どうしてくれるって。…それは僕に責任を取らせる気があるという意味ですか?」

どういう意味だろうと理解する前に、思わぬ距離まで近付いてきた室長の銀フレームの中の目があやしく揺らめいた。

「いいですよ、彼への未練を僕が引き受けても」

無害な男の本性

「本当に水飴みたいだ」

いったん唇を離すと、室長がくすくす笑いだす。
長く重なっていたその場所が濡れたようにつやめいているのはグロスなんかのせいじゃないことは明白だった。

あえて私を辱めるように言ってくる室長の顔に、業務中には見ることのない男の表情が滲んでいた。
冷静なようでいて、キスで息を乱す私を物欲しげに見詰めてくる雄の顔。

「君の唇は不快などころかこんなに艶っぽくて後を引くのに。…馬鹿な男もいたものですね」

こんなときにまで丁寧な言葉遣いがすこしも乱れないところに、この人の余裕が見て取れた。

顔は整っているけれど、どちらかといえば中性的で、性の匂いのしない捉えどころのない男という印象だったのに。
すこしきれいな顔をしただけの無害な男の本性は、草食なんかじゃなかった。

獲物を見定めるような鋭いまなざしに射竦められると、唇を開いて差し出すことしかできなくなる。
室長はいい子だと言わんばかりに、さっきまで我が物顔で私の口内を荒らしていた舌で上唇を舐めてくる。

「…前から思っていましたよ。君の唇は」

意味ありげに言葉を切って、室長は黙り込んでしまう。その先の言葉を室長の口から聞いてみたい。
懇願するような気持ちで室長を見上げたその顔は、さぞ物欲しげに見えたのだろう。
何を言う代りに室長はまた口づけてきた。

キスの理由

なんで室長とキスして、応えてしまって、やめられなくて。
なんで振られたばかりなのに、まだ好きで、あいつに未練たっぷりなはずだったのに。

なんでこんな場所で、人がいて、見られるかもしれないのに。なんで私が相手で、ただの部下で、ただの上司相手に。

なんで、なんで、なんで。

絶え間ないキスの合間にも取り留めなく「なんで」が脳裏を舞う。
そんなわたしの顔を見て、室長は唇を離すとまた笑った。

「なんて顔するんですか。キスの理由を訊きたがるなんてかなり無粋な行為ですよ」

それから一瞬で真顔に戻ると、室長を見上げる私に囁いてきた。

「でも理由が知りたいなら一緒に来なさい。まずは食事で親睦を深めて僕の口を割らせてみるのがいいと思いますよ?  …もっとも、僕が口を割る気になるかどうかは君次第ですが」

いつも穏やかな室長から挑発的な物言いをされて、受けて立ちたくなってしまってる私は、 きっとこの人の手のひらの上で既に心ごとうまく転がされてしまっているからなのだろう。

「…室長。それは、順序がおかしいと思います」

すでに落とされかかってる女の最後の意地で悔し紛れに言ってやった。
言外に私とキスしたかったのならば、まずは私を口説いてからのはずでしょう、という喧嘩腰のメッセージを込めて。

室長は

「本当に柴崎君はしっかりした女(ひと)ですね」

とうれしそうににっこり笑う。
それから、

「柴崎君の唇はただでさえ好みなんですから。その口でこれ以上煽るような言葉まで言わないほうが身の為ですよ」

と、獰猛にすら見える凄みのある笑顔でそんな言葉を仕掛けてくる。

―――このひとに、味わい尽くされてみたい。

御幸室長相手に今まで想像したこともなかった願望が、キスの余熱で炙り出されてくる。

室長は力が抜けて膝が崩れそうになる私を顧みることもなく、
手早く帰り支度をすると澄ました顔でコートを羽織って「お先に」と出て行った。
颯爽としたその姿をぼんやり見届けた後。

デスクの引き出しを開けて、ポーチに忍ばせておいたデート前のとっておきを取り出した。
グロスではなくそのエッセンスを唇に素早くひと塗りすると、グロスの方はもう一度手近のゴミ箱に放り込む。
今度こそ惜しいと思うことはなかった。

濡れたような質感になったこの唇を見て、室長は「煽るなと言ったでしょう」と言って叱ってくれるかなと、甘い期待をしてしまう。
普段涼しげな顔したあの人にもう一度物欲しげな顔をさせて、キスしてもらいたかった。
見積もり書を放り出し、急いでロッカーから取り出したコートに袖を通す。

室長に完全に主導権を握られてしまっていることに酔いながら、
私がついてくることを確信しているであろう室長の背中をそっと追いかけた。

櫛川沙希さん/著

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