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小説サイト投稿作品32 「その指先で、濡れる唇」
立派な口実と、恰好の機会
ひどい土砂降り……。
しんと静まりかえった一人きりのオフィス。
窓に打ちつける激しい雨にため息をつく。
時刻は午後六時をまわったところ。
いつもならほぼ全員が残っていて、まだまだ仕事に没頭している時間。
でも、今日は別だ。
今夜は'交流会'という名目の全員参加の飲み会で、フロアにいたすべての人が幹事の山口さんの仕切りのもと早々に退勤させられ会場へ向かった。
私も含めて皆が「姐さん」と慕う山口さんは、自他ともに認める'幹事の鬼'だもの。
誰ひとり逆らうことなく、おとなしく引率されていったわけである。
フロアをしめる最終チェックを任された私は
「すぐに追いかけますから」などと皆を送り出したものの、なんだかんだともたもたしてしまい……。
さあ出ようと思ったら、外は集中豪雨という始末。
完全に出遅れて、取り残されてしまったという……。
山口さんに到着が遅れそうだとメールすると、電光石火で返信ではなく電話がきた。
『ちょうど私たちが店に到着した直後くらいだよ、急にドカンと降り出してね。ニッシーがタイミング悪くずぶ濡れになってたらどうしようって心配してたとこ』
私のことを「西尾(にしお)」ではなく「ニッシー」と呼び、後輩として可愛がってくれる山口さん。
その安堵の声に申し訳なく恐縮する。
『ありがとうございます。あの、ご心配かけてすみません……』
『いいのいいの。っていうか、ニッシーがまだそっちに居てくれて好都合』
『はい?』
『木村君がまだそっち残ってるみたいなのね』
『えっ』
その名前に体が勝手に反応する。
しかも過剰に……。
心臓がどきんとはねて、顔がかっと熱くなった。
『メールしても返信ないし、電話でないし。そっちにいるのは間違いないはずなんだけど』
『はぁ……』
温厚で几帳面で紳士的。
仕事はできる人だけど、基本的にはマイペース。
決して悪い人ではないのだけれど、飄々としていてどこか掴みどころがない。
それが女子たちの木村さんに対する専らの評価だ。
もっとも――
私は皆とはちょっと違った見解をもっているのだけれど。
『ニッシーは木村係ってことで。
探して声かけて一緒に連れてきてもらえると助かるわぁ。よろしく頼むね』
『木村係って……』
それじゃあまるで小動物のお世話をする小学校の生き物係みたいです……。
思わず苦笑しながらも、やっぱりどきどきして頬は熱いままだった。
電話を切ってすぐ木村さんのデスクを見にいくと案の定……。
机の上には充電するでもなく放置されたスマホがあり、机の下には鞄が置かれたまま。
私は皆の事務的なサポートをするという立場上、木村さんの携帯番号もメールアドレスも知ってはいる。
けれど、これでは呼び出すこともできやしない。
でも、大丈夫。
木村さんの居そうなところくらい見当はついているもの。
おそらく資料室あたりに違いない。
「よし、やっぱり行くしかないよね。うん」
私は誰ともなしに呟いて、小さな声で大きな決意表明をした。
立派な口実と、恰好の機会を手に入れて。
いつのまにか、恋をしていた
職場の先輩と後輩。
さらに詳しく言うと、同じグループの研究員とアシスタント。
それが木村さんと私の関係。
ただ、それ以上でもそれ以下でもないと言い切れるのかと言うと、ちょっと違うような気も……。
私が今の部署に異動になって一カ月くらいたった頃。
木村さんと親しく話すようになったのは紅茶がきっかけだった。
給湯室で木村さんが紅茶を淹れていて、それがたまたま私のお気に入りのフレーバーで。
思わず私から声をかけた。
仕事以外の話をしたのは、そのときが初めてだったと思う。
それからなんとなく給湯室で一緒になってはよく話すようになり、半年ほど経った今ではもう軽口を叩きあうような仲に。
今日の昼前にも――
給湯室で私が自分の紅茶を淹れていたら、そこへ木村さんがやってきて。
やっぱり木村さんも、同じく紅茶を淹れはじめて――。
「西尾さん、ジャム持ってない?リンゴとかじゃなくてイチゴの」
「はぁ?持ってるわけないじゃないですか。リンゴもイチゴも。ついでにブルーベリーもないですよ」
まったく、ここはおうちの冷蔵庫ではありませんので……。
「えー。ポケットに入ってないの?」
「ないですってば。っていうか、ポケットにジャムとか入れないでしょ、普通……」
いつものように繰り広げられるバカ話。
親しく話すようになって、私は木村弘樹という人物のいろいろを知った。
例えば――紳士なんてとんでもない、下品でセクハラまがいの冗談も言う下世話な三十歳であること。
几帳面だなんて誰のことやら、「明日から本気出す」が口癖で、しかもその本気は三日後くらいにようやく出ること。
そして――
そんな残念キャラを披露する相手は、どういうわけか職場の女子では私だけ。
しかも――
二人で給湯室にいるこの時間だけらしい、ということを……。
「あーあ、バラには絶対イチゴジャムなのになぁ」
木村さんはいかにも恨めしそうにじとーっと私を見て言った。
「私に言われても困りますよ。って、その香りってバラなんですか?」
木村さんのカップから漂うほのかに甘い香り。
なんとなくイチゴのキャンディの感じに似ているなって思っていたけど。
「イチゴはバラ科だからな。バラとイチゴってよく合うんだ」
「へぇー。そうなんですねー」
私は木村さんと出会って、まえよりずっと紅茶に詳しくなって、もっと紅茶が好きになった。
そして、木村さんに詳しくなって、私は……いつのまにか、恋をしていた。
試したい、知りたい
資料室へ向かうまえにメイクなおしにロッカールームへ。
鏡に映る自分と向かい合って一呼吸。
ポーチからリップグロスを取り出して、私はそれを細心の注意を払いながら唇にぬった。
鏡をよくよく見ながら、丁寧に、慎重に。
上品なローズがふわりと香るこのグロスは、女性誌の編集をしている友達からのプレゼント。
ついこの間の土曜日、昼下がりのカフェで。
やれ女子力が低下しすぎだの、自分に構わなすぎだのと有難い説教をさんざんしたあとで、彼女はこのグロスを私にくれた。
悪戯っ子みたいに笑いながら
「オトコを虜にする不思議なパワーを秘めたグロスなんだからね」と。
もう一度、あらためて鏡の中の自分と見つめ合う。
控えめだけれど瑞々しい艶やかさを帯びた唇。
その大満足の変身ぶりに心が素直にときめいた。
さらに、まるで夢心地の表情に瞳までもが艶っぽくとろんと潤んでみえる。
もしかして、このうっとりするような香りのせいだろうか?
ローズといえばバラだけれど、バラの紅茶から香っていた甘く可愛らしい感じとはまったく違う。
しっとりと大人びた魅惑の香り。
いったい私は、わざわざこんなことをして……。
たぶん、試してみたかったのだと思う。
試したい、知りたい。
きっと、確かめたいのだ。
私に木村さんの心を揺さぶることができるのか。
そして、できたとして――
そのとき木村さんがどのような行動にでるのか、を。
このグロスにオトコを虜にする不思議なパワーとやらが本当にあるのかはわからない。
それでも……私はなんとなくお守りがわりのようにそれをポケットに忍ばせて、ロッカールームをあとにした。
シンクタンクという職場だけあり、充実した情報量と設備を完備した資料室。
とはいえ、定時を過ぎれば司書の女性も退勤していてカウンターは無人だし、開架閲覧室の利用者も数えるほど。
そして、その数えるほどの中に木村さんの姿はなかった。
たぶん、書庫にいるのだと思う。
十中八九、私の予想どおり。
私の……期待どおりに。
書庫があるのは閲覧室の奥の奥。
IDカードをかざしてドアのロックを解除する。
この建物のドアはトイレや給湯室などを除くおよそすべてが、閉まるとすぐに自動的に施錠されるシステムになっている。
もちろん、この書庫も。
中へ入ってドアが閉まるやいなや鳴る「ピッ」という短い電子音と「ガチャッ」という鍵のかかる金属音。
自動的に施錠されたドアに、まるで退路を断たれたような……。
閉鎖空間、密室……そんな言葉が脳裏をよぎる。
閉じ込められたような錯覚に、胸が一瞬ざわめいた。
それは不安か緊張か、あるいはもっと別の何かなのか。
わからぬまま、私は奥へと歩みを進めた。
唇の感触
中肉中背でどちらかといえば色白。
トレードマークは、頑丈そうな黒縁眼鏡と、ちょっと珍しいアンティークの腕時計。
奥から二番目の書棚まで来て、隅っこの壁によりかかって資料を読みふける木村さんを発見。
私はふぅと小さく呼吸を整え、徐に声をかけた。
「木村さん」
「なんだ、誰かと思えば西尾さんか」
なんだとはまたご挨拶な……。
でもまあ、これもまた私への親愛の情とも受け取れる。
他の女子たちにはこんな言い方しないもの。
「資料、見つかりました?」
「まあ、ぼちぼちね。西尾さんも何か探しにきたの?」
この人、交流会のことなんてすっかり忘れてるな……。
「木村さんを探しにきたんです」
私はわざと真剣な顔をして意味深に言った。
「私……誘ってもいいですか、木村さんのこと」
「え……」
一瞬、ほんの一瞬だけれど――
木村さんは確かにどきりとして、その眼鏡の奥の瞳にはっとした表情を見せた。
けれどもすぐに、「あぁ……」と状況を理解して「やっちまったなぁ」と決まり悪そうに苦笑した。
「俺としたことが……西尾さんごときにはめられるとは不覚」
「いちいち失礼な人ですね……。
私、山口さんに仰せつかってきたんですよ。
責任をもって木村さんを捜索して連れてくるようにって」
ちょっと迷惑そうな口ぶりで言いながら歩み寄り、私は壁を背にして木村さんの隣に並んだ。
「でもしばらく出られそうにないですね。あんなにひどい雨じゃあ傘なんて意味ないですもん」
「雨、そんなにすごいの?」
「それはもうかなり。あ、ここにいるとわかんないですよね。窓少ないし、閉め切った感じだから」
ここは今、ほぼ完全な二人きりの密室。
そもそも、開架閲覧室はともかくとして書庫へ入る利用者は少ないのだ。
書庫に在庫する資料は捜索が難しいし取り扱いも少し面倒だったりする。
ほとんどの人が司書に頼るところを、ちょいちょい書庫へ立ち入る木村さんは少数派の変わり者だ。
「とすると、雨が小降りになるのを待つしかないか」
「ですね」
「ふたりだからってタクシー使うにはあまりにあんまりな距離だしな」
「歩いて十分ちょいですもんね」
「だよな」
「ですよね」
ぽつぽつととりとめのない話をしながらも、内心はドキドキ。
自分から勇んで乗り込んで来たようなものなのに、まるでダメダメだ……。
木村さんは今、いったい何を思っているのだろう?
雨早く止まねぇかなぁ、とか?
交流会面倒くせぇなぁ、とか?
それとも、なーんにも考えてないとか?
「西尾さんってさぁ」
「は、はいっ?」
鬱々悶々とのめりこんでいたところで、急に呼ばれてびくり。
「香水とか、何かつけてる?」
「えっ」
「いやさ、なんか……いい匂いだなぁって」
ど、どうしよう……。
ドキリ、ギクリ、ズバリだよっっ。
どきまぎして咄嗟に言葉がでてこない。
「これって何の香り?」
「えっと……バラの香りです。ローズ、なんです。一応……」
「そうなんだ?」
「はい。あ、そうだ。これなんです、こういうやつ。香水とかじゃなくって」
なんだか苦し紛れみたいに、私はポケットに忍ばせていた'お守り'を木村さんに手渡して見せた。
「これって?」
「グロスです。リップグロス」
「へぇー。開けてみても?」
「どうぞ」
私が快諾すると、木村さんは興味深げに慎重にキャップを外し、先端部分をそっと鼻先へ近付けた。
「なるほど。このバラだったのか」
「そのバラです」
ちょっと得意げに微笑む私。
そんな私を、木村さんがまっすぐ静かに見つめてる。
「西尾さんと――」
静かなようでいて、やっぱりどこか熱っぽい木村さんの眼差し。
身長差があるので、ただ「見つめる」というよりは「見下ろす」と言ったほうが正しいかも。
「あの……」
緊張と恥ずかしさを誤魔化すように思わず目を伏せる。
すると今度は、まるで逃すまいとでもいうように覗き込むように見つめられ、それから――。
「同じ香りだ」
木村さんの鼻先と私の唇が、触れるか触れないかの至近距離に。
私は反射的に目を閉じた。
「西尾さん。俺のこと、誘いにきてくれたんでしょ?」
木村さんの意地悪……。
心の中で悪態をつくも実際は、言葉を紡ぐことなどできなくて。
答えるかわりに彼の腕にそっと触れ、シャツの袖をぎゅっと握る。
なんだか負けを認めたような、でも結局は勝ちを手に入れたような。
そうして――私は木村さんの唇の感触を知った。
柔らかに重なる唇。
滑らかにかよい合う温度。
嬉しさとときめきが、とろんと甘くとけあった。
温厚で、緊張面で、紳士的。
初めて交わした彼とのキスはひどく優しくて、優しすぎて……。
たまらずに、私はその胸にきゅっと抱きついた。
「ずっとずっと、こうしたかった」
「木村さん」
「うん?」
「私、西尾です」
「知ってるよ」
「下の名前は真琴(まこと)です」
「それも知ってる」
「何か言うことないですか?」
もちろん、言われなくてもわかってた。
優しいキスがちゃんと教えてくれたから。
好きだってことも、私でいいんだってことも。
それでもやっぱり……言葉が欲しい。
「うーん、何か言うことねぇ……あ、そうだ」
「え?何?何ですか?」
「領収書の提出、もう少し待ってよ」
「この男、ぶっ殺す……」
ちょっと拗ねて、私はグーでその胸を突いた。
「うへ。ぶっ殺すなんて物騒だなおい……。ニッシーはハト派じゃなかったのかよ」
「あ、初めて'ニッシー'って言った」
「だって、ニッシーだろ?女の人たちとか同期の連中からそう呼ばれてるじゃん」
「木村さんは一部の人たちから'キム'って呼ばれてる。一部の'男の人たち'にね」
「そりゃまたよくご存知で」
「ご存知ですよ。私、木村さんのこといっぱい知ってるんですから」
例えば――マイペースで我関せずのようでいて、実は意外と面倒がいいってことも。
それで密かに、後輩の男の子から「キム兄さん」なんて芸人さんよろしく呼び慕われていることも。
私が仕事でミスして凹んだときだって、さりげなーく励ましてくれたりするし。
それに――。
「私がカップを持って給湯室に行くと、なぜかいつも木村さんも給湯室にくる」
「そういうのを自意識過剰って言うんだよ」
「そうですか?今日もそうだったし。昨日だって午後の会議が終わってすぐ――」
「いちいち指摘すんな」
そうして木村さんは「この話はもうおしまい」とでもいうように、私の口をキスでふさいだ。
意地悪を言ったお仕置きのキス。
誰にも言わない口止め料のキス。
木村さんがたらめいがちに唇を離すと、私は――やっぱりぎこちなく目を伏せた。
「可愛いよ、西尾さんは」
えっ……?
い、今なんて……!?
はっとしながら、おずおずのろのろ顔を上げる。
すると、木村さんは私のお守りのグロスを自分の指先にとって――。
「可愛いよ、本当に」
その指で私の唇にそっと触れた。
何度もキスをしたせいで、グロスがすっかり落ちてしまった私の唇に。
「西尾さんはいつだって可愛いよ。本当に、すごく……」
淡々とした声で甘い台詞を重ねながら、木村さんが丁寧に私の唇をなぞっていく。
彼の指先で濡れる唇は繊細で敏感で、なのにとても無防備で。
私は彼にされるがまま。
キスのように互いの唇が触れ合うのとは違う感覚。
ぜんぜん対等じゃなくて一方的。
誤解を恐れずに言うならば、私ばっかり――
弱くて恥ずかしいむきだしの自分を弄ばれているようで。
辱められているようで。
完全に掌握されているようで。
なんだか悔しくて、ちょっと……屈辱的。
それなのに、ちっとも……嫌じゃない。
甘美で被虐的な快感に体が痺れて動かない。
まるで魔法でもかけられたみたいに。
「いつもみんなに一生懸命で。すごく頑張っててさ」
じっと唇を見つめたまま、ちっとも私の目を見ようとしない木村さん。
ひょっとして彼もまた照れているとか?
「西尾さんが可愛すぎるから。だからずっと――」
切ない熱を帯びた木村さんの視線と、心もとなく揺れる私の視線。
ようやく交わるふたりの眼差し。
「ずっとずっと、こうしたかった」
瞬間、木村さんはいともあっさり私の唇を奪った。
その指ではなく、その唇で。
一瞬の心の隙を突かれたような、そんな気がした。
求めあって、与えあって、確かめあって。
深く口づけられるほど、全身がふるえるような快感に包まれた。
今日ここへ来て初めて交わしたキスとは違う。
激しくて、熱っぽくて、ちょっと淫猥。
無遠慮に求められるほど嬉しかった。
彼の心の核に触れることを許された気がして……。
あなたの名前
名残惜しくも唇を離した頃にはもう、彼の指で艶やかさと取り戻したはずの唇は……。
「せっかくつけてくれたのに。また取れちゃいました」
残念ながら、すっかりすっぴんの唇に逆戻り。
木村さんは決まり悪そうに小さく笑うと、何を思ったのかグロスを自分の胸ポケットに入れた。
「これは没収」
「ええっ」
友達からもらったプレゼントなのに。
今いっちばーんのお気に入りなのに。
没収なんて断固拒否、断固抗議だ。
っていうか――。
「ああっ。木村さん、まさか……!?だめでしょ、それは。いくらその香りが気に入ったからって、そんな自分で――」
「アホ言うな」
木村さんはちょっと呆れたように私の頭をかるーく小突いた。
「これからは職場につけてくることを禁じます、ってこと」
「えーっ」
「お願いだからさ」
「えっ……」
ふんわりと抱きしめられて、ねだられる。
「これをつけるのは、ふたりで会うときだけにしてくれないか」
嬉しくて、嬉しくて、嬉しすぎて。
ちょっと……泣きそうになった。
「ふん。そこまで言われたら仕方がないですね」
気づかれてしまっただろうか、ちょっと涙声になっているのを。
私はそれを誤魔化すようにわざと偉ぶって言って笑った。
それにしても、わざわざこのグロスを木村さんが持っているということは今度も……。
彼はまた愛でるつもりなのだろうか。
私の唇を、その指先で。
まあ、それはそれで。
それなら、それで……。
きっと、そんな逢瀬も悪くない。
「ところで西尾さん」
「なんですか、木村さん」
つんとした言い方は、私なりのささやかなクレーム。
名前を呼んでくれないことへの。
なのに、木村さんときたら……。
わかっていてとぼけているんだか。
それとも、ほんっとにわかっていないんだか。
なんだか、ちょっとやきもきしちゃう……。
すると、彼はしれっとした顔をして言った。
「誘い誘われた俺たちは、これからいったいどこまで行くのでしょう?」
「そんなの……」
どこまでも……そう言えたらどんなにいいだろう。
いっそこのまま、すべてを委ねてしまえたら。
すべてを……委ねて、しまいたい。
けれども――。
「ああっ、電話だ。山口さんからですっっ」
そう……私たちがこれから行くのは「どこまでも」ではない。
歩いて十分ちょいのところのにある皆が待ってる洋風割烹。
あわてて山口姐さんからの電話に出ると、ようやく雨足が弱まって今がチャンスとのこと。
そういうわけで――。
『木村はもうほっといていいから。一人で早くいらっしゃい』
姐さん、そんなばっさり……。
でも、気の毒ながら木村さんの不憫さが妙におかしくツボにはまって、思わずぷぷぷと笑ってしまう。
『ん?ニッシー?』
『あ、すみません。木村さんとは資料室で会えたので、これからふたりでそっち向かいますね』
懸命に平常心で話そうとする私に、木村さんは見えないのをいいことにやりたい放題。
髪にキス、耳にキス、うなじにキス。
まったくもう、この性悪男めが……。
「ほら、さっさと行きますよ」
「へいへい」
「木村さん」
「うん?」
「私に'弘樹'って呼んで欲しいですか?」
「さあなぁ。なんでもいいよ、俺は」
「えー」
「好きなように呼べばいいじゃん」
「なんかつまんない」
「'真琴'の――」
「えっ」
「真琴の好きにすればいい」
彼の唇から紡がれた私の名前。
心躍る嬉しさに、思わず彼に抱きついてキスの雨をふらせたかった。
でも――。
「じゃあお言葉に甘えて。急ぎますよ、'木村さん'」
「そうくるかよ……」
とりあえず今は皆が待ってる場所へ急がなきゃ。
だから、続きはまた今度。
こんなところじゃなくて、もっと……別の場所で。
呼ばせて欲しい、聞いて欲しい。
お気に入りのリップグロスをつけた私の唇が紡ぎ出す、大好きなあなたの名前を。