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小説サイト投稿作品37 「結香莉」


「結香莉」

〜LC編集部のおすすめポイント〜

結婚し母親となってから、名前を呼ばれなくなったことに寂しさを感じる結香莉。
いつしか手にもささくれができ、夫と上手くいってないわけではないけれど手をつなぎたい、とひそかに思い…?

好きな人と手をつなぐ安心感って女性にとってはとても大きいものですよね。

失った名前

私の手って右手がじゃがいもで左手が玉ねぎみたい。
キッチンでじゃがいもと玉ねぎの皮を剥きながら思った。
そう言えば最近、尚宏さんと手をつないでいない。尚宏さんがつないでいるのは結衣の手ばかり。

別に娘の結衣に嫉妬なんてしていない。
お散歩や幼稚園の送り迎え、電車に乗るときなど、私も結衣と手をつないでいるから、寂しいとかもない。
結衣は5歳。幼稚園の年長さんになったばかり。二重のくりくりした大きな瞳は私に似ていて、ぽってりした桃のようにフルーティーな唇は尚宏さん似。高い鼻は尚宏さんのお父さん。全く癖のないストレートな黒髪は私の妹、小百合と同じ。

遺伝子ってすごい。

子どもが生まれて初めてそう感じた。だけど、大切なものを手に入れた代わりに大切な名前を失った。子どもが生まれてから名前を呼ばれなくなった。
世間からは『結衣ちゃんのママ』、尚宏さんからは『ママ』。私は尚宏さんのことを『パパ』ではなく『尚宏さん』と呼んでいるのに。

私というママ=名もなき女。悲しいくらいそう思える。

ささくれ

皮を剥いたじゃがいも、玉ねぎ、ハート型にくりぬいた人参。この野菜たちが、やがておいしい特製まろやかカレーになる。
他に加える材料は、牛肉、バター、小麦粉、カレー粉、ブイヨン、にんにく、生姜、塩、ウスターソース、ケチャップ、ローリエ、ガラムマサラ。
そうそう、リンゴのすりおろしとハチミツを忘れないで。結衣の笑顔のために。愛情というどこにも売っていない甘いスパイスが隠し味。

私は専業主婦だからこうして丸1日かけてカレーを作るのも当然だし、新築一戸建ての真っ白な壁も常に守り抜いてきた。家事や育児に専念できる今の環境がありがたい。
尚宏さんにも感謝している。だけど、本音はやっぱりちょっと寂しい…。

寂しくない、って自分自身に言い聞かせてきたけど、この手にある『ささくれ』がいつの間にか心にもできていて、タオルケットのような柔らかいループにさえ引っ掛かる。

『ささくれ』なんて大した傷じゃないのに見た目とは対照的にズキンと痛む。もう、言い聞かせられない。

結衣が生まれてからも尚宏さんとは上手くいっていて、体の関係は満たされている。
結婚7年目。私は29歳で尚宏さんは30歳。まだ倦怠期は訪れていない。でも、満たされていない部分がある。

それが『手』。つないでほしい。と願うこの手は、じゃがいものようにゴツゴツで、玉ねぎの皮のようにガサガサで魅力なんてどこにもない。
玉ねぎを切りながら涙がぼんやり滲んできた。周りの物が歪むようにゆらりと浮かんで見える。

恋のお守り

───3週間前。
学生の頃からの親友、綾乃とイタリアンレストランへ行った。主婦の私にとってはちょっとお高めなランチ。

「綾乃、平日が休みなんて珍しいね」
「有給とったんだ。ここんとこ休みなく働いてたから。結衣ちゃん、元気?」
「元気だよ。急にお姉さんになった感じ。子供部屋で1人で寝るようになったし」

などと、互いの近況報告を交えながらランチを楽しむ。目の前にはバジルの緑とトマトの赤がおいしさを奏でるフェットチーネ。昼間からグラスワインも飲んで、至福のとき。
モッツァレラチーズが絡まったフォーク越しに、ふと綾乃の左手薬指を見ると、大粒のダイヤが凛と鳴るように輝いていた。

「綾乃、もしかして?」
「うん。昨日、彼氏にプロポーズされちゃった」
「うわー、プロポーズ!おめでとー。よかったね」

私の興奮した声で周りの視線が一気に集まり、拍手へと変わった。…綾乃が羨ましい。
それは大粒のダイヤが、ではなくて、ダイヤの輝きにより、更に美しさを増した綾乃の手。
細くて艶があって。爪の形も綺麗で、どんなデザインのネイルも綾乃のために存在しているかのように似合ってしまう。

綾乃は頑張り屋さん。努力して希望する今の部署にやっと配属された。結婚しても仕事は辞めないという。きっと私みたいな手にはならないだろう。

カレーを煮込みながら、綾乃の手を思い出していた。
綾乃が使っているという恋のお守り。それは、いい香りがして、手を艶やかにするハンドパフューム。
夜、尚宏さんと結衣がお風呂に入っているあいだに、綾乃が教えてくれたサイトにアクセスしてみた。恋のお守り、私も使ってみよう。

あたたかな手

お化粧品と同じような感覚で買ったハンドパフューム。お風呂上がりに塗ってみた。花のような香り。濃艶な蝶が蜜を吸いに私の手に止まりそう。
その手で、結衣をパジャマに着替えさせていると、くりくりした瞳がキラリと輝いた。

「ママ、いい匂いがする!」

さすが、女の子。既に女性という神秘の感性が蕾となり備わっている。

「ママの手、じゃがいもみたい?」
「うーん、ちょっとそうかな。でも今日はお花みたい」

にっこり微笑む結衣が、愛らしくてたまらない。この子のママなんだから『結衣ちゃんのママ』でいい。私、幸せなんだ。
尚宏さんは…、全く気づいていない様子。

「ママ、明日も弁当頼むよ」

テレビを見ながら呟くようにぽつりと言葉を発する。それでも満足感があり、胸が高揚して煌めく。
ハンドパフュームを塗り続けることで少しずつだけど、自分の手を好きになっていたから。

ある日の夜、公園の陽溜まりで尚宏さんと手をつないでいる夢を見た。
そのまま芝生の上に寝転んで雲ひとつない奇跡的に青く澄んだ空を見ている。微睡んでしまうほど気持ちいい。体を重ねるそれとは違う気持ちよさ。夢の中の感覚だと思っていたけど、違うみたい。

本当につないでいる。その手は結衣の小さくて可愛い手ではなく、筋張っていて丈夫な大きな手。目を開けなくても尚宏さんの手だとわかる。温かい…。

まだ恋人同士だった頃のこと。クリスマスの表参道。
流星のようなイルミネーションが続く歩道で、2人の手がどちらからともなく自然につながった。

「手、冷たいな」
「ごめんね。寒くなっちゃうでしょ」

私が手を離そうとすると、尚宏さんの両手が私の両手を包んだ。

「俺の手、あったかいから」

そのときと同じ体温が今、ここにある。

結香莉

安心感に包まれて、気持ちいいまま再び眠りについた。
翌朝、窓から射し込む、お日さまの合図で目を覚ますと、その手はつながれたままだった。

「結香莉、愛してる」

同じ合図で目を覚ました尚宏さんが耳元で吐息のようにそう囁き、私の手にキスをした。
桃のような唇で濃艶な蝶が蜜を絡めるように。手をつないだまま愛し合う。ダブルベッドが狭く感じるくらい望み以上に本能的に。途切れかけていた心の糸が手と共につながった。
これからも恋のお守りを使い続けよう。

あと2人か3人、尚宏さんと私の遺伝子を残したいと思うから。
ねえ、尚宏さん、私の手と結衣の手、そしてこれから誕生するであろう子どもたちの手を、ずっと、ずっとね、離さずにいて…。
私は無口な尚宏さんがたまに「結香莉」と呼んでくれたら、あとは「ママ」でいい。「ママ」がいい。

恋のお守りが私に幸せを教えてくれた。

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