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官能小説 指先から溶ける朝


指先から溶ける朝

一月の朝、8時7分の急行電鉄。

車内の窓ガラスは、外気との温度差で白く曇っている。

加奈(25歳)にとって、定位置に立つ「彼」を眺めるのが、毎朝の唯一の癒やしだった。
普段なら、知的な眼鏡をかけ、丁寧に紙の本をめくっている彼。

けれど今日は、本を開くスペースすらないほどの異常な混雑だった。

(……今日も、すごい人……)

加奈は、分厚いウールのコート越しに伝わる周囲の圧迫感に、小さく身を縮めていた。

(……っ、う、動けない……)

駅に停まるたびになだれ込んでくる人の波。普段はドア横をキープできるのに、今日に限っては車両の中ほどまで押し流され、四方八方からの圧力に息が詰まりそうになる。

その時、急ブレーキとともに激しい衝撃が襲った。
悲鳴を飲み込み、倒れそうになった背中を、誰かのしっかりとした腕が支えた。

彼が左右の腕をポールと壁に突き、加奈を抱え込むようにして、殺伐とした車内にシェルターのような『空白』を作ってくれたのだ。

「……大丈夫ですか?」

至近距離で降ってきた落ち着いた声。見上げると、そこにはいつもの『彼』がいた。
あまりの近さに緊張で体が強張った瞬間、加奈の目に『それ』が飛び込んできた。

彼のチェスターコートの襟元、わずかに覗くジャケットにつけられた、銀色の社章。

(あ……私と同じ、会社の……)

その瞬間、気になっていた他人である彼への気持ちが、一気に安堵へと変わった。

知らない男性ではなく、同じ場所で戦っている『誰か』だったのだ。
そう確信した途端、加奈の身体からスッと余計な力が抜けた。

ふと、彼の右手が下ろされ、加奈のバッグを握る手のすぐ隣に添えられた。

電車が揺れ、二人の体がさらに密着する。普段なら避けるはずの接触を、加奈は拒まなかった。
社章を見た後の親近感と、彼への淡い憧れが、心の境界線を曖昧にしていた。

「……こんなに冷えてる」

加奈の手に触れる彼の手

耳元で、彼が声を潜めて囁く。
彼は、震える加奈の手を温めるように、その小指をそっと包み込んだ。

唐突なはずのその触れ合いが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、彼の熱が自分を溶かしていくような心地よさすら感じていた。

「……さっき、ぶつかった時。社章が見えて、……同じ会社の人だってわかったら、つい、手が動いてしまいました。…すみません」

「いえ……。同じ会社の方だってわかって、すごく安心しました」

小さな声で答えながら、加奈は絡められた彼の指に、かすかな力を込めて握り返した。

やがて、目的の駅が近づき、電車の速度が緩やかに落ち始める。
それまで加奈を押し潰していた人の波が、潮が引くように少しずつ引いていった。

加奈を囲っていた彼の両腕も、周囲に空間ができたことで、自然と解かれていく。
密着していたコートのぬくもりが離れ、代わりに車内のひんやりとした空気が二人の間に滑り込んだ。

(……あ、離れちゃう)

急に訪れた物理的な数センチの隙間。けれど、ふと下ろした視線の先で、加奈の鼓動は再び跳ね上がった。
彼の大きな手と、加奈の手は、まだバッグの持ち手の上で重なったままだった。

混雑はもう解消され、もうわざわざ触れ合っている必要なんてない。
彼の指先は名残惜しそうに加奈の小指を絡め続け、加奈もまた、その熱を離したくない一心で、そっと指を重ね返していた。

窓の外、凍てついた街並みを切り裂いて走る電車の中で、加奈は彼に閉じ込められたまま、その『指先から始まる融解』に、ただ身を委ねていた。

「……また、明日も」

小さな、けれど冬の朝の静寂に溶け込むような声。

加奈は深く頷き、駅のドアが開くと同時に、一歩を踏み出した。
繋いでいた指が離れた瞬間、手の甲に残った消えない熱が、今日一日の私を支えてくれる『お守り』になってくれればいいのに、と思う。

ふと隣を見ると、彼もまた、私と同じ歩幅でゆっくりと歩き出していた。
これから始まる忙しい一日のどこかで、くじけそうになったとき。

この指先の熱を思い出して、ほんの少しだけ前を向けたら。
『明日』という場所へ、また今日と同じように笑って辿り着けたらいい――。

加奈はもう一度、熱の残る指先をそっと握りしめた。
階段の手前、不意に彼が立ち止まり、加奈の方を振り返った。

「あの、加奈さ……」

彼は何かを言いかけて、けれど思い直したようにふっと視線を逸らし、口を閉ざした。
その眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけひどく真剣に、そして愛おしそうに揺れたのを、加奈は見逃さなかった。

(……今、私の名前を呼ぼうとした?)

「……いえ。今日も、頑張りましょう。お互いに」

彼はそれだけ言うと、少し照れたようにマフラーに顔を埋め、先に改札へと向かった。
驚きで立ち尽くす加奈の胸の中で、小さな、けれど鋭い期待が疼き出す。

名前も教えていないはずの彼が、なぜ自分を知っているのか。
あの時、何を伝えようとしたのか。

それ以上に――離れてしまった指先が、さっきよりもずっと、彼の熱を欲しがっている。

同じ会社なら、探そうと思えば探せるはずだ。
明日まで待つのもいいけれど、もし今日、社内のどこかで彼を見つけてしまったら、私はどんな顔をしてしまうだろう。

純粋な『お守り』にするには、あの指先の温度は、あまりにも生々しすぎた。
加奈は、自分の内側に生まれた少し不純で、熱い衝動を自覚しながら、彼を追うように改札へと足を踏み出した。

END

あらすじ

朝の満員電車、憧れの彼。
密着した指先から始まる、冬の恋の融解…

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