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【後編】恋愛とセックスのかけ算/38歳 千景の場合


人生初のシンデレラストーリー

パワーポイントの資料の作成の締め切りが迫っていたので、土曜に二人で片付けることになった。会社にほど近いビルの広めのカフェ。休日なので客は数名しかいない。

都会は平日と休日で違う顔を見せる。平日、大勢の人でごった返しているせわしい場所でも、休日となるとリゾートでのんびりしているかのように落ち着くことができる。

和人がスーツではなくカジュアルなストライプのシャツを着ているのを初めて見た。紗矢香が言った通り、汐留の貴公子と表現してもおかしくない。実は和人はかっこいいのだ。

「カプチーノくださあい」
「私はカフェラテ」
「千景さん、カフェラテとカフェオレの違いわかる人?」
「うん、ラテはエスプレッソに泡のミルク。オレはコーヒー牛乳かな?」
「おう、じゃあカプチーノとマッキャートは?」

和人が楽しそうに尋ねる。どうやら悩み事は棚上げしたようだ。まるで恋人同士のようにくつろいでいることに千景は気付いた。

「カプチーノはエスプレッソベースで泡のミルクたっぷり。マッキャートはミルクが少ないんじゃない?」
「すげえや、カフェ開けるね」
「なんでそんなこと聞くの?」
「元カノがイタリア大好きで、珈琲の話をさんざん聞かされたからっすよ」
「へえ、大学時代の彼女ね。今でも会うの?」
「うん、月に1回くらいはメシ食うかな」

 

なぜかチクリと胸に来た。和人が誰と会おうが関係ないことなのに。

「千景さんは学生の頃、どんな男と付き合ってた? 今の旦那さん?」

「今の旦那」という言葉で、もっとも会いたくない男の顔が頭に浮かんで来た。あの顔をこのタイミングで思い浮かべたくなどない。ボトルシップの細かい部品が頭の中に散らばる。

「学生時代はね、同じゼミの彼氏。今の旦那と会ったのは…」
「出会ったのはいつ?」

すぐに思い出せなかった。友達の紹介だったのか、誰かの結婚式の二次会で会ったのか。カメラのピントが合わないような変な気持ちだ。

「もうやめよう。この話。書類片付けようよ。私、この前半作るから、30ページ目からの抽出は鳥羽君お願い」
「はーい。ねえ、提案! 休日だから和人って呼んでくださいよ。チ・カ・ゲさん」

またもやられた。千景はこのところ和人にやられっぱなしだ。

朝陽が燦々と降り注ぐ白い壁のカフェで二人は一心にパソコンに向かった。仕事をしているのになぜかくすぐったいような不思議な感覚。さすがに午後になると集中力が落ちて、疲れを感じて来た。

「千景さん、ワイン飲もうよ」
「え? ここで? ダメだよ。書類にミスが出るよ」
「わかった。じゃあ、あと10ページ頑張ったら作業終了。他の場所で飲もう」

日の光の中で微笑む和人がまぶしい。シンデレラのイルミネーションを思い出す。人生初のシンデレラストーリーが始まるかもしれない。

お酒の神様が下した答え

資料作成が一段落してカフェを出た。はずむ気持ちを抑えながら和人と並んで歩いているとLINEが入った。良明からだ。

「カラダだるいから夕飯買って来てくれ。唐揚げ弁当」

思わず眉をしかめて「チっ」と言ってしまった。消えて欲しい、良明に。自分の世界から良明がいなくなってくれれば横を歩いている和人と楽しく過ごすことができる、良明と和人が入れ替わってくれれば。これこそシンデレラストーリー。突拍子もないことを考え始めた。

「和人くんはさあ、今、ご家族のこと悩んでるけど、私もそうなの」

話すつもりではなかった。夫と万年離婚を考えていることなど。家庭のゴタゴタを職場の後輩に話すなど千景のプライドが許さないはずだった。少なくとも今までの千景なら絶対にしなかったことだ。

「どんな悩み? 旦那さんと喧嘩したんすか」和人が千景の顔を覗き込むように問いかける。

ワインがある小洒落たイタリアンを探す時間がもったいなかった。一分でも早く聞いて欲しかった。最初に目に入った「小椅子」という小料理屋の看板。和人の手を引っ張った。

休日なので客は一人も入っていない。

「熱燗!」

千景が大声で叫ぶ。

「マジカ? 千景さん、ワインって言ってたのに」

和人が茶化しながら「じゃあ俺は蕎麦焼酎。お湯割!」と手を挙げる。

それから何時間過ぎたのかもわからない。延々と千景は良明との不仲を訴えた。最近の不機嫌な出来事から過去にさかのぼる。

「夫の愚痴言うなんて最低」と心の底で囁く自分もいた。最低とわかっていながらも話をしたかった。塵のようにたまった不機嫌さを絞り出したかった。

千景のスマホには良明から「腹へった」「熱あるんだぞ」「いつ帰るんだ」というメールが入り続ける。またもボトルシップの細かい部品が千景の頭の中にばらまかれる。

ボンドの薬品臭が蘇り、鼻を思わず抑える。千景は戦闘態勢に自分を追い込んでいた。酔いがまわる。脳の一部がしびれている。

「夫の顔なんかもう見たくない。臭いも嗅ぎたくない」
「はっきり言うねー。でも帰って話しないと泥沼化ですよ。円満離婚目指した方がいいっしょ」

年下の男にたしなめられる。千景のプライドというものは水蒸気のようにどこかへ散ってしまっている。

「それは正論ですよねえ。でも、反乱起こしていい日もある」

酔っ払った口調で和人を睨む。

和人は腕組みをして何か企んだような笑いを見せる。

「オッケー。じゃあ、お酒の神様に聞いてみよう。あと5分以内にこの店にお客が入ってきたら千景さんは家に帰らない。このまま誰も来なかったら家に帰る」
「乗った。でも…来るはずないよね。日曜だし、目立たないビルの地下のお店なんて」
「確かにね。日曜に開いてるってのも珍しいもんな」

その時、ガラリと引き戸が音をたてた。

「オヤジー、今日、やってんの? あいててよかったよ。駅前のチェーン店ではどうも飲む気にならないや。学生ばっかだから。大ジョッキ二つ」

常連らしき二人の中年男。

カウンターの奥から店主が大きな声で叫んだ。

「へい、らっしゃいー。休日出勤ですか。今日、暇だからブリのあら煮作ってるっんすよ、座って待っといてー」

和人が急に真剣な顔つきになり、席を立った。

掻き立てられる背徳感

見つめ合う男女

外に出ると氷の破片が顔にあたったように感じる。冷たい空気が頬を突き刺す。酔いが一気に冷めてくる。冷静にならなくては、間違ったことをしてはいけない…会社の後輩と。自分はチームのリーダーだ。

千景の中で気持ちを必死に切り替える音がする。カチカチっと。その音は大きくなったり、小さくなったりする、そしてフェイドアウトする。店では饒舌に話していた二人が黙ったまま夜道を歩く。パソコンの入ったバックが肩に重く食い込む。

「あの…こっからタクシー乗って帰るわ」

千景が先に言葉を発する。

和人が振り返る。

「お酒の神様の指示はそうじゃなかったはずだ」
「あれは、酔った勢いで」
「旦那さんと会いたくないんでしょ。じゃあ、意思表示したほうがいい」
「意思表示?」
「今日は帰らない。それで男は全てを察する」

 

和人はスタスタとホテル街へ向かって歩く。千景は背中を見ながら歩幅を合わせることに集中する。気持ちを切り替える音はすっかり消えている。

**

「ほんの出来心とか、はずみで来たとか言わないでね」

部屋に入るとなぜかわからないが肝が座った。千景の方から和人を誘う。和人をおそるおそる抱きしめる。

暖かい。こうしたかったのだ。今まで我慢していたけれど、会議中に突拍子もないことを言う和人を、ふざけている和人を、しょげている和人を千景は思い切り抱きしめたかったのだ。抱きしめてみてはっきりわかった。両手に力を入れて和人に巻きつける。

「あのさ…千景さん…」
「シー静かに」

和人の唇をふさいだ。二人はそのままベッドに倒れこんだ。バッグの中でスマホが何度か震えていた。その音が良明の反抗に聞こえる。反抗されればされるほど背徳感を掻きたてられた。

自分だけの物語

翌朝、眠っている和人を見つめ、良明との戦闘開始のスイッチを自分が押したことをあらためて把握した。和人の寝顔は紗矢香がいつか言っていた汐留の貴公子。すっと通った鼻筋、整った唇の形。

しかしシンデレラ物語とは少し違う。シンデレラにはお城に不機嫌な亭主が待ってなどいないのだ。千景は頭を振った。和人を起こさないように千景はそっとホテルを出る。

始発に乗り込み帰宅する。結婚してからは初めての早朝帰宅。そっと家のドアを開ける。リビングにはコンビニ弁当の殻と空き缶が転がっている。良明が自分で買いに行ったのだろう。市販の風邪薬の瓶もある。

簡単に片付け、シャワーを浴びる。良明は起きてこない。急いで着替えた。会社に向かうために外に出た。後ろめたさなどない。自分で決めた戦闘なのだ。

会社に着くと、和人がいつもと変わらぬ顔で元気に挨拶をしてきた。和人もスーツに着替えている。急いで帰宅したのだろう。

「おはようございますー。先輩、今日もお美しい」

少し照れた。こんな面映い気持ちになるのは何年ぶりか、女性としての立ち位置を矯正したような気分だ。王道のシンデレラ物語とは違うけれど自分だけの物語を作ってやると思った。

オフィスのデスクの上のカレンダーが目に入る。「17日」。千景は目線を上げて、笑顔を作った。

その日は一日、良明から連絡はない。

夜、帰宅するのを少しためらった。

第一声で何を話せばいいのか。嘘をついてごまかす。本当のことを言う。いや和人に迷惑をかけてはいけない。本当のことの一部だけを言おう。戦闘開始の言葉が交錯した。

 

リビングのソファに良明が座ってタブレットを覗いていた。千景は見下ろす位置に立った。

まずはやさしい言葉で反応を探る。

「ヨシくん、昨日はごめん。お弁当買って帰れなくて。風邪治った?」

出会った日の情景

良明がタブレットをコトンとテーブルの上に置いて、妙にスローな動作で千景を見上げる。千景はハっとした。良明の目は戦闘態勢の目ではない。親に叱られておどおどする子供のような目つき。

千景は戸惑う。予想外、こんなはずではない。いつものように不機嫌な顔でとがめてくると思っていたのだ。テーブルの下に目をやると半透明のゴミ袋に入ったボトルシップの部品が見える。

「ヨシくん、ボトルシップの…」

覇気がない声が返ってくる。

「捨てる。お前がいつも嫌がってたから。もう部品を散らかさない」
「そんな…」
「千景が嫌がることばかりしてやろうという思考回路になってた。大人げないよな。俺」
「どういうこと? 怒らないの? 私、朝帰りしたのよ。何してたって聞かないの?」

良明は無表情のまま、立ち上がる。

「メシあるぞ。刺身買ってきて、味噌汁作った。チューブのワサビも買っといた」
「ちょっと、ヨシくん、ちゃんと話そうよ」
「まだ熱あるから先に寝る。うつさないよう和室で寝るから」

 

良明は完全に戦いを降りているのだ。調子が狂った。千景も戦闘意欲を失いそうになる。「万年離婚を考えてる夫婦関係を解消しよう」と言うつもりだったのに。

和人と一夜を過ごしただけで、踏ん切りがついていた。和人と付き合うことは難しい。だが面白くない結婚生活をこの先何十年続けてゆくのを断ち切る覚悟を持てたのだ。

良明が折れてくるとは微塵も考えていなかった。半透明のゴミ袋の中のボトルシップを袋から出そうとした。瓶は壊れて海に沈んだ船のように悲しげだ。

良明が作った味噌汁を一人ですすりながら、どうすればいいのかわからなくなっている。味噌汁の中に小さくサイコロ状に切った豆腐がたくさん入っている。

「味噌汁に入ってるお豆腐は大きなのがゴロンじゃなくて、小さいサイコロみたいなのがたくさん入ってるのがおいしいよ」

確かに千景はそう言った。結婚した頃、まだ二人で笑いあっていた頃。リビングで手をつないでテレビを見ていた頃。

突然思い出した。良明と初めて出会ったのは、上野の森美術館。高校時代の友達が絵画展のチケットを8枚もらったから行けそうな知り合いに配ったのだった。偶然、友達の友達のお兄さんという遠い関係でやって来たのが良明だった。

千景は美術が好きだが、良明は興味ないけれどチケットもったいないからという理由で来ていた。千景が一緒に絵を見ながら説明したのだった。

なぜ、今になって思い出すのか、離婚を決めた日に、出会いの日の情景が目に浮かぶなど皮肉なものだ。口の中で豆腐がほろりと潰れる。

「味噌汁…おいしい…」

友達プラスα

その日から、良明はできるだけ穏やかに暮らそうと努力しているようだった。悪態を吐くこともなく、早く帰る日は無言で家事をしてくれた。

いつの間にかボトルシップのキットはリビングから消えている。千景が気に障ることは何ひとつない。そんな相手を見ていると離婚の話をする気分にならない。

 

職場では、和人を意識しながら仕事をこなす充実した日が続く。周囲に気付かれぬようメールをしたり、お茶を飲む。恋愛開始期によくある人目を忍ぶ二人きりの世界観。だが千景は和人と一線を引かねばならないとブレーキをかけようと努める。

あの時の情事は一夜限りの遊び。お互い、凹んでいたから慰めあっただけ。溺れてはいけない。既婚の千景と職場の後輩和人の関係がさらされるのはお互いに大きなマイナス。

千景が酒の席は避けてお茶しか付き合わないので和人もそのことに気づいている。その後の良明のことを尋ねようともしない。

エレベーターの中で和人と二人きりになる時間があった。

「千景さん、俺らの事、これ以上進展しないようにしてるっしょ」

スーツのポケットに手を突っ込んで和人が尋ねる。千景は気持ちを決めたとでも言うように大きくうなずく。

「夫婦仲が悪いからあなたに逃げたなんてカッコ悪いじゃない。それにバレたら二人ともまずいよね」
「確かにね。じゃ、友達プラスαくらいの関係でいようってことで。けじめのキスしない?」
「けじめ?」
「うん、このキスを最後にして、この前みたいにエッチな関係にはならない」

17階でエレベータが停止する。

和人は千景の腕を引っ張り、17階で降りる。早足でD会議室の方に歩く。この日は会議がないらしく、誰も部屋にいない。

ドアを閉め、和人は千景の唇に軽いキスをする。

ラッキーセブンティーン

「エレベータはカメラで撮られちゃうからね。個人情報なんかない世の中っすよ」

千景はクスっと吹き出す。「この会議室だって、監視カメラ付いてるかもよ」

和人は目を大きく開いてグルリと天井を見回す。

「ないないない。もし撮られてたら、こういうキスシーンがあるCMを作りましょうって相談してたって説明する。真夏の海岸のシーンですけどって」
「海岸かあ。17階会議室、私の思い出の場所になりそう。17って数字好きだから」
「へえ、ラッキーセブンティーンなんすね」
「うん、じゃあ、先に下に降りるね。別々に降りよう」
「OK。先輩。お先にどうぞ」

その時、会議室の窓から汐留のイルミネーションが目に入った。

「ロマンチックな夜景だね。和人ちゃんと一緒にディナーでもしたいところだけど、それはなしってことで!」

千景は振り返って元気に言った。

「リョーカイ。俺は元カノを誘い出してみるわー。イタリア好きの彼女!」

エレベータに乗り込む。3人社員が乗っていた。軽く会釈をして背筋を伸ばして立つ。クイーンという音を立ててエレベータが急降下する。前は地獄の底にでも連れて行かれるような気がしていたのに、今は滑り台を心地よく滑って降りている感じだ。

エントランスを出てビルの上を見上げる。17階はあの辺り。和人とは会えないわけじゃない、いつだって会える。友達プラスαだ。落ち込んだらまた二人でバーに行けばいい。汐留の貴公子を射止めたことに変わりはない。

シンデレラストーリー変形バージョン。千景は落ち着いて考えることができていた。銀座のデパートに立ち寄り、ボトルシップキットを買う。部品が散らかっているくらいで怒るようなカリカリした女はやめにしよう。

万年離婚を考えていた夫婦がもしかすると笑い合えるかもしれない。離婚もあるかもしれない。それはもう少し先に結論を出せばいい。シンデレラは焦らない。じっと耐えて待っていると運命的な何かが起きる。

「お客様、お釣りとレシートでございます」

デパートの店員の声で我にかえる。

「17円?」

吹き出してしまった。

「ラッキーセブンティーン…」

和人が言った言葉を千景も声に出してみた。

店員がやさしい微笑みを返す。

「大切な方へのプレゼントですね」


END

あらすじ

ウインターイルミネーションの季節、主人公・千景は「もう旦那さんがいるから安心ですよね。」という言葉を聞くのが辛かった。
そう、いわゆる万年離婚危機の状態だ。何から何まで合わないと感じていた。
そんな時、会社でメイクのことを指摘してきた後輩・鳥羽と出会い…

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三松真由美
三松真由美

恋人・夫婦仲相談所 所長 (すずね所長)・執筆家…

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