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恋愛とセックスのかけ算/28歳 佳苗の場合


ロックな夢

一人暮らしのマンション。お風呂とトイレは分かれてはいるものの、バスタブは段ボール箱みたいに狭い。佳苗は立て膝で身体を縮ませて熱いお湯につかったままブツクサ文句を言う。

「まるで蒸しパン地獄よ。40度のお湯なら20分、42度のお湯なら10分…こんな狭いお風呂で蒸されたら蒸しパンになっちゃう」

出版社に勤める佳苗は健康雑誌の編集部でダイエットや美容の企画をしている。来月号の目玉企画「ヒートショックプロテインで免疫力を高めてきれいになる」特集のチーフをまかされ、身体をはって体験中なのだ。

二日置きに熱い風呂に20分つかって体温を38度に保つ。都会の1Kマンションの狭い風呂ではたしかに蒸しパン地獄だ。

中学の頃から海外のロックに夢中だった佳苗、本心は音楽雑誌を作る職場で働きたい。だがこの業界の壁は高い。上には上がいるものだ。ロックが好き、CDを200枚持っているくらいのレベルでは到底かなわない。

真の音楽好きしか音楽雑誌の業界にはいない。おたくレベルの知識を持つ強者ばかり。何度か入社試験に落ちてしまったが佳苗はいつか音楽雑誌の編集部に入り、大物アーティストの取材記事を書くことを夢見ていた。 

バスタオルを身体に巻いて舌下に体温計をくわえる。

「38度、よっしゃ達成!」

冷たいレモンジーナを飲みたいところだが15分は38度の体温をキープ。ベッド再度にあるリラクシングチェアに身体をあずけAWAから流れる新譜に耳を傾けた。

突然、スマホが震えた。

「佳苗、もう寝た? 今から行っていいか?」

田崎悦郎。ロッキンジャーナルの編集長。

4年前、編集者達が集まる西麻布のバーで出会い、ずるずると夜だけの関係が続いている。佳苗とそんなに年が違わない娘がいる田崎は娘に嫌われているぶん、佳苗を大事にしてくれた。

陶器の人形を扱うようにやさしく撫で回し、「どうして欲しい?」と耳元でささやきながら佳苗のおねだりを何でも聞いてくれる。学生時代のひとりよがりセックスしかしない男達のセックスに比べると極上の扱いを受けていた。

数分後、悦郎が部屋にやって来た。おやじ世代とは思えない派手な色のシルクシャツを着ている。それが嫌みに見えないのは悦郎のライフスタイルが作り上げたダンディズムの精神をまとっているからだろう。

先のとんがった高級そうな革靴を脱ぎ捨て、バスタオルを巻いたままの佳苗の細い肩にキスをした。

「風呂はいってたのか?」
「うん、でもね、仕事の一環よ。ヒートショックプロテイン特集の担当だから」
「なんだそれ?」
「今話題のHSP。身体をあっためて弱った細胞を元気にするのよ。免疫力も上がるし、美肌効果もあるって言われてるの」

悦郎は佳苗の身体をベッドに横たえ、バスタオルをゆっくり剥ぎ取る。ほてった身体からまだ湯気があがっている。

「おお、あったかくて気持ちいいぞ、佳苗のボディ。いい感じにあったまってる。ここもあったかいのかな」

 

悦郎の指が股の間をまさぐる。

「あんっ、やめて。汗びっしょりだからもう一回シャワーあびるわ」

その言葉を無視し、しっとり濡れた中指を佳苗の鼻先にこすりつけて悦郎はカーリーの「コール・ミー・メイビー」のBメロを口ずさむ。

悦郎の舌が佳苗の唇を押し割って入り込む。

決して強引でなく、佳苗がいやがっていないか確かめるような絶妙な動きで。佳苗は悦郎にキスをされると眼がトロンとなり、関節に力が入らなくなる。

まさに骨抜き。腰の辺りがくすぐったくなってつい太ももを数センチ開いてしまう。

こんな上等のキスをする男は悦郎以外に出会ったためしがない。編集部の仲間で飲みに行き、酔いに任せてキスをすることもたびたびある。元カレ3人ともいまだに会っていてキスもセックスもする。

だが、悦郎のように知らず知らずのうちに太ももをゆるめてしまう相手はいない。

舌でほっぺの裏側をまさぐられる。何とも言えない変な気分。

「よだれが出ちゃう…」
「ぜんぶ舐めてあげるから」

悦郎は大人だ。嫌な顔ひとつせず、佳苗を舐め回す。おいしそうな音をたてて。時にロックの旋律を鼻歌で唄いながら舐める。

こんな年上の編集長に奉仕してもらっている自分、佳苗は誇らしかった。悦郎と仲良くしておけばいつか音楽雑誌の部署に転職できる、そんな打算も働いた。

親子ほど年の離れた二人

「コール・ミー・メイビー」のさびをいっしょに唄いながらベッドでもつれあう。ヒップを両手で左右に割られるように揉まれると佳苗の歌声はとぎれとぎれになる。

「おしり、そんな開かないで。恥ずかしい」
「じゃあ、ここは恥ずかしくない?」

りんどうの花びらのような割れ目を悦郎の両手が開く。

「ああん、あああん、もっと恥ずかしい…」
「かわいいねえ。佳苗は。恥ずかしがる声がたまんない。高音でちょっとハスキーボイス。たまにビブラートがかかる」
「もう、へんな分析しないで…」
「ブリトニーのプリティ・ガールズ唄ってみて。佳苗なら唄えそうだ」

いきなり、悦郎がまじめ顔で佳苗の眼を覗き込む。

「悦郎さん、エッチ終わってからね」

 

悦郎はにっこり笑って、佳苗がのけぞるほど深く深く押し入れる。佳苗はのびやかなビブラートがかかった声で絶頂を示す。

親子ほど年が離れた二人の夜は、いつもロックな気分になる。

ぬるめのシャワーをあび、佳苗が悦郎の横にダイブするように飛び込む。

「おいおい、せっかくヒートショックなんとかしたのに、身体が冷たくなってるじゃないか」
「しまった、暑かったから体温下げちゃった。でも、エッチが体温上げてくれたから同じ効果あるわよ、きっと。そうかあ、エッチってHSP療法になるかもしんない。専門家にヒアリングしなきゃ」

「佳苗はおもしろいよな。その発想。うちの編集部にいつか入れてやるよ」
「ほんと? いつ?」
「売れてない本だからさ、派遣さんとアルバイトの学生でぎりぎりの予算で回してるんだよ。だから、誰かが退職か転職するときがいいタイミングだな」
「そっか。そうだね」

「今は健康雑誌の編集で力磨きなさい。今を必死でやっとけば、あとにつながるから」

佳苗は悦郎の首筋にチュっと軽くキスをした。

健康雑誌の編集部。午前中は人の出入りが少ないが夜になるにつれ活気を増してくる。

残業という言葉はもはや死語と化している。18時過ぎると取材から戻って来た社員たちが黙々とPCとにらめっこを始める。佳苗もほぼ毎日終電帰りだ。

健康系なのでメーカーから様々な健康グッズが編集部宛に送られて来る。部署の片隅にカーペットを敷いて「健康コーナー」と名付けられたスペースを作ってある。

佳苗の発案でなかなかの人気だ。靴やサンダルを脱いでごろんと横になり、健康グッズを試すことができる。

肩甲骨広げベルト、骨盤矯正クッション、耳つぼ棒。美容アイテムもそろっている。

米ぬかパック、角質除去タオル、足裏デトックスシート。デスクワークに疲れるとそれぞれがこのスペースに集まって健康グッズを試しながら雑談をする。

佳苗がホットアイマスクを眼に当てて、背筋矯正ポールの上でごろごろしていると池上肇が声をかけてきた。

「佳苗先輩、ヒートショックの特集進んでますか? 楽しみですよ。癌にも効果あるとかないとかって言われてますよね」

アイマスクをずらして佳苗が池上を見る。

「うん、池ちゃんもためしてみてくんない? 今、読者さん5名と私で2週間ためしてみてんのよ。あっついお風呂。たしかに調子よくなるんだよね。疲れにくいっつうか。」
「大学の先生への取材、僕もついていっていいすか。興味あるんすよ」
「時間あるなら原稿書く? なら同伴していいわよ。まだライターさん頼んでないから。次の火曜の17時。」

池上は3年後輩に当たる。入社したときから佳苗のファンで、おりにふれ近寄ってくる。飲み会の時はいつも佳苗の左側にちゃっかり席を取っている。

悪い気はしないので、何度かキスをしてやった。若い男の子がびっくりするような熱烈なキス。それ以来、池上は佳苗の命令は何でも聞く子分のような存在になっていた。

キスレ

その日は池上を誘い西麻布のバーNORIに向かった。NORIは悦郎ともよく会う店。

池上になら不倫していることをカミングアウトしても問題ない。佳苗は池上といると何から何までラクチンだった。自分をかっこ良く見せることもなく、素のままをさらけ出す事ができる。

「肩こったー、ちょっと揉んで」
「おなかすいたー、究極のクリームパン買って来て」
「寝坊したー、机の上の書類、山田さんに渡しといて」

こんな調子で、軽く頼む事ができるのは池上しかいない。池上も洋楽を聴くのでたまに渋谷のHMVに視聴に出かける。女性社員達のあいだでは「佳苗さん、池ちゃんと付き合ってるんじゃない」と噂が出るほどだ。

カウンターの向こうからNORIのマスター、土佐が微笑みかけた。

「やあ、佳苗ちゃん、久しぶりに来たね。今日は若いカレシと一緒?」
「マスター、やめてよ。職場の後輩。池ちゃんよ」

銀の縁取りの眼鏡を中指で持ち上げて土佐が池上をチラっと見る。

「いらっしゃい、大変だね。こんなこわーい先輩がいて」
「マスター、それ以上言うと、他の店行くわよー」
「ハハハ、かなわないなあ。佳苗ちゃんには」

 

池上は馴染んだ二人の会話を耳に入れながら大人の臭いがする場所に戸惑っていた。小さな空間だがゆっくり見回すと、いかにも業界にいるような雰囲気の4、50代の客ばかりだ。

「初めてですよ。こんな裏通りにあるしぶいバーなんて」
「そりゃそうよ。私だって前は六本木のこじゃれた内装の店ばっか行ってたのよ。にぎやかな連中が集まる店。でも一度ここを知ってしまうとさ、落ち着くんだよね。暗いし、みんな小声で話してるし」

池上がうんうん頷いてジントニックに口をつける。

「やべえ、なんか違う。高級って感じ? マスター、うまいです。このカクテル」

土佐が自慢げな笑みをうかべて答える。

「駅前の居酒屋じゃないからね。本物の酒しか置いてない」

この日の佳苗と池上の会話は職場の事や健康記事の企画の事ばかりだ。土佐が見かねて口を出した。

「せっかくいい酒飲んでるんだから、日常の話はやめて、恋の話でもしたらどうだい?」
「そうね、マスターは奥さんいるの? それとも彼女いる?」

佳苗はオレンジブロッサムを3杯飲み、頭の上半分がトランポリンを飛んでいるような気分になっている。

「今はいないな。1年前に別れてから一人だ」

土佐が急にまじめな顔つきになった。

おいしい酒を二人は調子に乗って何杯もおかわりしてしまった。時計の針がてっぺんを回った。

「あ、終電ないわあ」

カウンターにおでこをくっつけて眠そうに佳苗がモゴモゴ言う。

「送って行きますから」

池上が佳苗を抱き抱えるようにして立たせる。佳苗は全身の重さを池上にあずけるようにのったり立ち上がる。

店を出ると静まり返った住宅街。表通りまで池上は佳苗が倒れないように支えて歩き始める。

「池ちゃん、はい、いつものキッス」

佳苗が肩に寄りかかったまま唇を突き出す。

「もう、まいったな、佳苗さん。いつもキスだけで終わりじゃないすか。そのあとの僕の気持ち考えてくださいよう。このモヤモヤ感…」
「いいじゃん、はい! はい!」

突き出された唇に池上は大きな口をあけてかぶりつく。佳苗はキューと唇に力を入れて開かないようにする。池上の舌先が閉じた唇をこじあけようと思い切りつついて攻撃してくる。

佳苗はじらすように閉じた後、思いきり唇をあけて受け入れる。そして長いあいだ唾液の交換をするようないやらしいキスを続ける。

「あふっ、池ちゃん…キスうまいね」
「んぐ、佳苗さんこそ、まじやらしいすよ。俺、硬くなってきましたよ」
「んんん…だめよ…キスだけ」

悦郎とならこのまま股間をまさぐり合い、ホテルか自分の部屋になだれ込むのだが、池上とはキスしかしたくない、佳苗には変なこだわりがあった。

元カレ3人とセックスできるのは、付き合っている頃していたからだ。あらためてファーストセックスをするわけではないからできてしまう。これも変わった考え方だった。

唾液を吸い尽くしたあと、やっと気持ちがおさまった。

「佳苗さん、今、カレシいないんでしょ。俺じゃ無理すか」

何度となく池上に言われた言葉だ。

「無理って言ってるでしょ。池ちゃんとは職場仲間、そいでもってキスフレンド。キフレ!」
「なんすか、それ? キフレって。俺、馬鹿にされてます?」

佳苗は池上の腕にギュっと抱きついて首を振った。

「違うよ。好き。でも恋愛対象じゃないの」
「どんな人が恋愛対象なんですか」
「…すっごいオヤジ系が好き」

二人の前をタクシーが通りかかる。池上はいつもここで終わる男だった。

不倫に理屈なし

佳苗担当の「カラダをあっためてきれいになる方法〜熱いお風呂が女性を救う」を校了した。佳苗自ら自宅の風呂で汗を流して体験談まで書いた力が入った特集だ。

やり終えた感がある仕事をしたとき、佳苗は必ず悦郎に祝ってもらう。4年間ずっと祝ってもらい、そのおかげで今の自分があるとさえ思っている。

がむしゃらに仕事をする、そして好きな男に褒められる。またやる気になる。そのルーチンが「できる女」の階段を一段ずつ上がらせてくれる。

そして憧れていた音楽情報誌の出版社に入り込む。ロックアーティストのインタビュー記事を書く。佳苗にとって悦郎がいれば手が届く、そう思える夢だった。

悦郎にLINEを入れてみる。

「悦郎さん。校了! 超がんばったから、明日お寿司食べに行きたいな」

ポップな寿司のスタンプを3つ送る。

 

20分後、悦郎からの返事を見て、昂っていた感情がストンと地面に落ちた。送った寿司のスタンプを削除したくなる。

「悪い。家族旅行中。言ってなかったかな。来週まで東京にいない」

そうだった。悦郎には愛する妻がいる。娘とは仲良くないらしいが、奥さんとはずっとラブラブでセックスも毎週してると言っていた。

不倫、本来なら妻と不仲になり、外の女に目が向くのではないのかと佳苗は不思議さを感じていた。

しかし「いや、不倫に本来はこういうものっていう理屈なんかないんだ。不倫する人の定義なんかあっちゃいけないんだ。私は倫理に反した恋をしてるんだ」と自分を叱りながらも悦郎と離れる事ができていない。

この関係が始まるとき「僕は奥さんをハニーと呼んで、毎日キスするくらい愛しているけどいいのか」と確かめられたことを覚えている。

それでもよかった。悦郎に仕事を褒めてもらえ、ねぎらってもらえれば充分だった。包み込まれるようなセックスの時間をもらうこと、それが一番の心の支えだったから。

落ち込む女性

4年間、悦郎と洋楽ロックのさびを唄いながらいくつもの夜を過ごした。そのたびにいい女になってゆく自分を感じていた。悦郎が自分一人のものでない事はわかっていた。ものわかりのいい恋人でいようと努めた。

自分はイマドキのいい女。悦郎さんはいつでも奥さんのところに返してあげる。かっこよくふるまえる自分に酔いしれていた。

だが年齢を重ね、佳苗を取り巻く状況がそっと変わってきている事に気づいたのだ。音楽でいうと、メジャーな店舗がはやい曲が、転調してスローで不安定なメロディに切り替わったような。

地元の友達から結婚の知らせが届くようになり、仕事の重圧が重くのしかかる。親は電話の向こうで「30歳になるまでに嫁にいきなさい」と同じフレーズを繰り返す。ふっと寂しくなる瞬間がある。

そんな時は悦郎を独り占めしたいという本当の声が耳の奥でこだまする。何度頭を振っても、悦郎は佳苗だけを愛してはくれない。

はじめて涙を流した。

 

トクンと心臓の裏で小さな音がして、それを機に涙が頬をつたう。顎からポトリと落ちたとき、涙が泉のようにどんどん湧き流れて来た。あとからあとから、まるで4年分の涙が一気に吹き出したかのように。

ベランダに出て空を見上げると、満月まであと少しという形の月が浮かんでいる。月の形が涙でにじんで見える。

実家の庭で見る月も、都会の真ん中で見る月も変わらず美しい。月はどこで見ても妖しく光りを放つ。きっと永遠に。

佳苗は自分だけがくすんで見えた。仕事を頑張ってるように見えるが、これは好きな分野じゃないとどこかで斜めに構えている。

自分の野望のために悦郎と関係を持っているだけなのかもしれない、家庭があると知っていて悪びれず誘い出してきた、奥さんより若い自分の方を愛してくれていると思い込んで。

そんな自分に都合がいいことばかり考えていたからお月様から罰をもらう時期がきた、急に寂しい気持ちがおそってきた。 

ひとしきり泣いたあと、佳苗は両手で頬をパンパンとたたき、気分を変えようとした。眼は腫れているが、月を一人で見ているのはあまりに辛い。バッグを手に取って、マンションを出た。

こんな落ち込んだ夜はNORIで、カクテルを飲んでまぎらわせよう、佳苗は誰かと話したかった。

「佳苗ちゃん、一人? 若いカレシは? 悦郎さん、今週は留守だから若い方と遊んでると思ってた」

土佐がシェイカーを白い布で磨きながら声をかけた。

「一人よ。悦郎さんが奥さんと旅行してること忘れてた。それにこの前の子はカレじゃないってば。後輩だよ。ウォッカのカクテル飲みたいな。マスター特製の。明日午前中は会社休む事にしたから」
「なんか荒れてないか? そういや、涙眼になってるし…」

土佐は佳苗のいつもと違う様子を察した。

女神が宿るグラス

ウォッカのカクテルを舐めながら、佳苗は土佐に胸の内をポツポツと話し始めた。

最初は悦郎のコネクションで音楽出版社に転職しようと考えていた事、悦郎に家庭があってもドライな付き合いができると意地をはっていた事、仕事ができる女を演じていたけど、それは悦郎の励ましがあったからできていたという事。

部屋であれだけ泣いたのにまだ涙が残っていたのか、嗚咽とともにカウンターで泣き崩れてしまった。

「佳苗ちゃん、店で泣いちゃだめだよ。お客さんいるから、外に出よう」

バーテンダーに店をまかせ、土佐は佳苗を店から連れ出した。

「うち、すぐそこだから、紅茶でもいれてあげよう」

肩を揺らして泣きじゃくりながら佳苗は頷いた。

土佐の部屋は西麻布の低層マンションの二階にあった。落ち着いたベージュの壁紙、木製の大きなカウンター、家具はほとんどない。

「マスター、やっぱ、おしゃれな家に住んでるんだね。ドラマに出てくるみたいな…」
「年をとるにつれ、抱える物が多くなてくるだろ、だから、せめて身の回りの物は必要なものだけにしようって、物をたくさん捨てたんだ」
「お酒も置いてないの?」

キッチンのボードを見ながら佳苗が尋ねた。

「だって酒は店になんでもそろってるだろう。自分の家で飲まなくてもいいから。店で飲んでちゃんと払う。ま、その酒代は戻ってくるけど」
「フフフ」

佳苗にやっと笑いが戻った。

「佳苗ちゃん、さっきの話の続きする? 悦郎さんとこの先どうするか、決めかねてるんだろ」
「うん。ちゃんとお別れしないと、私だけつらくなるってわかったの。思い出したんだけど、クリスマスもお正月も悦郎さんは奥さんと一緒にいた。私はそれが寂しくて職場の仲間や、池ちゃん達とそういうスペシャルな日を過ごしてた。でもいつまでも、こんなこと続くと、気持ちがすさんじゃう」

土佐は熱い紅茶を佳苗に差し出した。ほどよい甘さが佳苗の気持ちを和らげた。

「おいしい…。カクテルも上手だけど紅茶も最高。マスターってプロだね」
「僕は飲み物を作るとき、グラスやカップの中に女神様がいるって思いながら作ってるからね。女神が宿るグラスだから、ぞんざいな扱いはしない。心をこめて作る」

佳苗は土佐の言葉を一言ずつ噛み締めた。

自分の仕事もそういう思いでやり遂げなければならないと感じた。原稿用紙に女神が宿る。

たとえそれが健康特集でも恋愛特集でも、自分が好きな分野ではなくても。中途半端な仕事はだめなのだ。嫌々取り組んでも、読者にはわかるのだ。

「マスターも悦郎さんも私より20年も長く生きてるから、かなわない。もっといろいろ教えて欲しい」
「佳苗ちゃん、僕はね、佳苗ちゃんが悦郎さんと付き合い始めた頃から、佳苗ちゃんの事かわいいなあって思ってた。妻子持ちの悦郎さんより、バツイチ独身子供なしの僕の方が佳苗ちゃんにあってるんじゃないかって」
「え? そうだったの?」

土佐も紅茶をゆっくり飲みながらやさしく微笑んだ。

「君はどうやら、おじさんに好かれる体質なんだね」
「なんでかな。そういえば、年下とか同僚とかは恋人としては無理だ。池ちゃんなんか、何度も付き合ってって言われたけどキスしかしてない」

 

土佐がカップを置いて佳苗を抱き寄せた。

「オヤジキラーの女神様、悦郎さんの事は忘れなさい」

佳苗は動揺して何も言えなくなった。あんなに悲しくて泣いていた心が熱い紅茶にあたためられたのか、落ち着いた気持ちになってきている。

悦郎との4年間は無駄に過ごしたわけじゃない、大人になるための経験だったと前向きにとらえることができる。

佳苗は顔をあげて、土佐を見つめた。

「マスター、今すぐ、マスターに切り替えるのは難しいよ。けど、マスターのまなざしや物腰は好き。だから時間をちょうだい」

土佐に抱きしめられた身体がほんわりと熱を帯びてきたのがわかった。

「悦郎さんが旅行から帰って来たら、ちゃんと話す」

土佐は何も言わずに佳苗の背中をやさしくさすってくれた

コンチータ

ホテルの部屋にある大きなソファに腰をかけて悦郎がシャツのそでをまくって日焼けした腕を差し出した。こんがり焼けた肌から南国のココナツの香りがただよってきそうだ。

「僕くらいのおじさんになると日焼けのあとがシミになるから焼きたくなかったんだけどね、周りの男達がテカテカ黒光りしててかっこよかったからつい真似したくなってさあ」

佳苗は心の底から笑う事ができない。悦郎との関係にけじめをつけるつもりで会っているのだ。

「悦郎さん。奥さんと二人きりの旅行、楽しかったんだね」
「ああ、言ってるだろ。僕ら夫婦は仲がいいんだ」

いつも聞いている言葉。前は強がって、ちゃかしていたが、今日はずっしり重い砂袋を肩に置かれたようにのしかかってくる。

「ねえ…奥さんとした?」

 

こんな質問はしたことがない。その答えを聞いてどうなるというのだ。

笑い飛ばす? 嫉妬する? 怒り狂う? 期待している「NO」という答えが返ってくる保証がないなら聞かない方がいい。そう思って今まで握りつぶしていた問いかけだった。

悦郎の眉が一瞬ピクリと動いた。シャツの袖を元に戻す。そしてまたいつもの穏やかな笑顔に戻る。年の功。動揺など見せない。隙のない大人なのだ。

「そりゃするさ。波の音が聞こえるロマンチックな部屋だ。ベッドだってキングサイズ。どんなに暴れても落っこちない。大声で叫んでも波の音がしなやかにかき消してくれる」

佳苗は両手で耳を塞いだ。

「どうした? 佳苗は自分のポジションを知った上で僕と会ってるんだろ。割り切ってるって言っただろ」

佳苗は両手で耳をふさいだまま首を横に振り、ポツリと言葉を吐いた。

「悦郎さんとは、もう会わない。いいかっこするの疲れた。私はほんとは強くないんだ」

悦郎が眼を細めて、窓の外を見つめた。

「4年間でずいぶん大人になったんだな。強がりはやめてほんとの気持ちをさらけ出すなんて」
「奥さんと別れて私と一緒になってなんて言えるわけない。それは不倫の鉄則に反するよ」

悦郎が笑う。

「不倫に鉄則なんてあったのか」
「そうだよ。お互い誰にも秘密。相手を束縛しない」
「そして佳苗に彼氏ができてもとやかく言わない」
「でも、私には彼氏はできてない。悦郎さんだけ奥さんと愛し合ってるなんて不公平だもん」
「独り占めしたい? 僕を」

佳苗は頷く。

「じゃあ、この関係は終わりだ」

佳苗はひと呼吸置いてうなづく。

「最後のセックスをしよう。今日の BGMはコンチータだ。」

 

悦郎は部屋にそなえつけてあるコンポにCDをセットし、コンチータを流し始めた。

佳苗をそっと横にしてうなじに舌を這わせた。それだけで佳苗の体中の体液は流れが速くなる。股間で眠っていた熱い液が滲み出る。

悦郎のゆっくりした動きを佳苗の神経が読み取って、次はここを触られると予測する。そのとおりに悦郎の指が動くと、ああ、やっぱりここにきたと身体全体が打ち震える。

悦郎は佳苗が気持ちよくなるように、策略をたてる。佳苗がここを触ってと懇願する前に、それを察する。4年間で悦郎の指がしっぽりなじむ身体になっていた。

悦郎の陰茎の先が開かれた太ももを行ったり来たりし始める。これをされると欲しくてたまらなくなる。

「腿の内側にしずくが垂れて来てるぞ」
「…だって…だって…」
「ほんとに最後のセックスでいいんだな」
「しょうがないじゃない。悦郎さんは私だけのものになってくれないんだから」

言葉が終わらないうちに悦郎が中心を突いて来た。

「はぐっ…いい…いい」
「何がいい? コンチータのメロディライン? 歌、うまいよなあ」

悦郎は動かずじっと佳苗の中を味わっている。佳苗の奥底の何かを確かめるように。

淡い恋の予感

悦郎がじっとしていると、我慢できずに佳苗自ら腰をスライドさせてしまっていた。

「どうしていつも入れたままじっとしてるの?」
「佳苗が自分で動く姿がいやらしくて好きだからさ」
「意地悪ね」
「今日も自分で動いて、自分で達しなさい」

佳苗は悦郎の上にかぶさる姿勢になり、股を広げて上下に揺れた。

「いい、いいわ」
「自分でおっぱいを揉んで、両手で」

佳苗は背中を伸ばし、悦郎の上にしゃがみこんだままブラジャーを取る。霧のような汗が乳房を覆っている。

ブラジャーを取るとすぐに右と左の乳房を下から上に揉み上げた。乳首が硬身を帯びてそそり立つ。悦郎が下側から腕をスっと伸ばして乳首をキュっとつまむ。

「あんっ、感じちゃう」
「もっと、腰を振れよ」

 

佳苗は乳房を自分でギュっとつかみながら極みに近づいていた。

悦郎とは、これで最後にする。いつまでたっても自分のものにはならない男を引き止めていても時間の無駄なのだ、佳苗は腰を沈めながら言い聞かせた。

気持ちいい、気持ちいいけれど、気持ちいいセックスができる男はほかにもいるはず。マスターも池ちゃんも、きっと誰としたって気持ちいいにちがいない。この際、明日元カレの誰かとしたっていい。

「ほら、これでどうだ」
「ああああ」

悦郎がクイと腰を突き上げるとそのまま佳苗は3秒で達してしまった。

悦郎の胸の上にしなだれかかり、ゆっくり息を吐いてぐったりする。コンチータの曲がローテーションモードで流れている。すっかりメロディを覚えてしまった。

佳苗の頭を撫でながら悦郎が話しかける。

「最後のセックスが終わったな…」

佳苗は指で悦郎の胸に

「Bye Bye」と大きく書いた。コンチータはもう二度と聴かない。

翌週から、佳苗は以前にも増して仕事に没頭した。

仕事が一息ついたのでNORIに行こうと思い、土佐にLINEを送った。「今日は店休むから、外で飲もう」土佐からの返事が嬉しかった。

「マスターとNORI以外の場所で飲むなんて新鮮だあ。しかもこんな水族館みたいなおしゃれなお店。楽しすぎでしょう」

サメが泳ぐ水槽の前に座って佳苗ははしゃいだ。悦郎と別れを告げてから2週間。いろいろな思い出が浮かんでくる時期だ。土佐の気遣いが心にしみる。

「悦郎さんは、別れたくないって言わなかったのかい?」
「うん、そんな駄々こねるタイプじゃないでしょう。どこまでも大人よ」
「佳苗ちゃんは寂しくない?」
「寂しいから、マスターの店で癒してもらうつもりだったんだよ」

土佐はいつものように眼鏡をクイと持ち上げて微笑んだ。

「やっぱいいね、大人の男の人は。ゆっくり見守ってくれてる感じで」
「おじさんだから、早く動けないんだ。周りを観察してからのったり動く」
「落ち着いてる感じがいいのよ。一緒にいると安心する。」
「親父キラーの佳苗ちゃん、そんな眼をパチクリして覗き込むなよ。益々好きになるぞ」
「あはは、おもしろい。好きになってくれていいよ。こっちは恋が終わったばかりだけど」

「佳苗ちゃんが、俺にその気になるまでゆっくり待ちますか…」

 

土佐がタバコの煙で輪をつくって佳苗の頭の上に飛ばした。

「うん、待ってて。近い将来、マスターに恋するかもだよ」
「あのさ、ノリさんって呼んでくれないか。マスターってこんな同類の店の中で呼ばれるの変だから。店員がいやがるだろ。スパイかよって。」

二人は深夜までカクテルの話やお互いの子どもの頃の話をして楽しんだ。

ある朝、悦郎から佳苗にメールが届いた。

「佳苗ががんばってた特集記事、読んだよ。ヒートショックプロテイン。いい記事だった。わかりやすくて説得力がある。読者にやってみたいと思わせる筆力。ライター使わず、佳苗が書いたんだろう。すっかり凄腕編集者になったな。グッジョブ!」

佳苗はスマホを握りしめて、眼を閉じた。

悦郎との思い出は楽しかったことばかり。行ったことのない高級旅館、食べた事のない河豚の刺身、したことのない静かなセックス。はじめてづくしのオンパレード。

「ありがとう。悦郎さん。自分一人の力で音楽出版社に転職してみせるね」

佳苗は眼をあけ、スマホの悦郎の電話番号とアドレスをゆっくりした動作で削除した。

「さあ、今日も仕事がんばるぞー」

AWAからベリンダ・カーライルが流れて来た。

「コンチータよりこっちのほうが好きだな」

曲に合わせてダンスのステップを踏む。佳苗は少しだけ大人になった自分を実感した。


END

あらすじ

佳苗は、4年前に西麻布のバーで出会った田崎悦郎と不倫関係にある。

悦郎には佳苗と同い年くらいの娘がいるが、娘に嫌われているぶん陶器を扱うように大切にしてくれるが、佳苗は彼を独り占めしたくなってしまい…

公開中のエピソード 全67話公開中
三松真由美
三松真由美

恋人・夫婦仲相談所 所長 (すずね所長)・執筆家…

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