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【前編】恋愛とセックスのかけ算/35歳 鈴香の場合


”幸せな家族“の香り

田園都市線の電車に揺られて30分、電車の窓から見える景色に緑色の占める部分が多くなる。高層ビルは見えない。

こじんまりしたマンションと戸建て住宅が仲良く混在する。

駅前の広いロータリーにはバスが連なる。

若い母親とはしゃぐ子ども達。子育てしやすい街、環境のいい場所とうたわれる郊外の住宅地。

鈴香は主婦たちの憧れ、緑に囲まれたこの世界で育った。

今は都心のワンルームに住み、月一度のペースで実家に帰っている。

小さな庭。赤い屋根の犬小屋。ドラマに出てくるような実家。

短いアプローチには赤いパンジーと黄色いジュリアンが花を咲かせている。

家の横に回って見ると、ウッドデッキにガーデンテーブルがあり、飲みかけの紅茶が置かれていた。

テラスにはあたたかな日差しが降りそそぎ、”幸せな家族“の香りをただよわせている。

「ただいまー、かあさん、いるの?」

庭側の窓から声をかける。

リビングの奥から、母の洋子が眠そうな声で答える。

「ああ、スズちゃん、帰ったのね。おかえり。かあさん、昨日眠れなかったからソファで横になってた」

目の下にクマをつくり、頬はげっそりとこけている。白髪の手入れをしてないのか、メッシュのような白いものが髪の毛を覆っている。

肩まで伸びた髪をくくるでもなく、落武者のようなたたずまい。鈴香はぞっとした。

昔の母は、美しかった。ふくよかな顔立ち、ぱっちりした目元。ポニーテールにかわいらしいリボン。裾が短めの花柄のワンピース。

小学校の友達に「スズちゃんのママ、きれいね。テレビに出てくる人みたい」と言われて嬉しかった思い出が蘇る。

鈴香が服装専門学校に通うため、一人暮らしをするようになってから少しずつおかしくなっている。兄の耕平は結婚してから実家にはまったく寄り付かない。

洋子は毛玉が張り付いた灰色のカーディガンを肩に羽織って、のろっとした動きでキッチンに立つ。

アイランド型の機能的なキッチンには生ゴミが散乱し、壁はガスヤニでうす汚れていた。

「私がプレゼントしたニット、どうしたの? なんでそんなしょぼい色着てるの」

「うん、あれ派手すぎる。スズちゃん、デザイナーだから、あんな奇抜なのが好きなのよね。かあさん、あれは着れないわ。今、お茶淹れるからね」

「うん、なんか食べたいな。朝から食べてなくておなかすいた」

鈴香は荷物を置いて、冷蔵庫を開ける。調味料と缶酎ハイ以外はたいしたものが入っていない。

鈴香が帰ってくるたびに出前物を取る。

昔は手作りのロールサンドイッチやかわいらしいおにぎりを作っていた。母は別人になってしまったのだ。

鈴香の高校時代、商社マンの父、嘉久がベトナムに単身赴任をした。それが発端だ。

嘉人が現地で愛人をつくり、日本に連れ帰った。もちろん長くは続かなかったが、父の浮気性は加速し、会社の部下や飲み屋の若い女までことごとく手を出す。隠そうともせず開き直る。

母は大きな声で怒鳴り散らしたり、物を投げるようになった。

大学生の兄と鈴香の食事も作らなくなった。鈴香はいつも友達を付き合わせて駅前のファミレスに行ったり、弁当屋の弁当を買ってきて兄と食べた。

兄はその頃から父と母と一切口をきかなくなった。

「かあさん、とうさんはどこ行ったの? 今日、土曜じゃない」

「ゴルフだって。泊りがけで。フン、どこの穴に入れるんだか。あのスケベ男」

「やめてよ。そんな下品な言い方……」

ばさついた雰囲気を漂わせる洋子に、鈴香は時折嫌気が差したが、それでも親子。放っておけないと思っている。

母親が悪いわけではない。原因は父親が作ったのだ。

夫に見放された妻はこうも陰気な空気を身にまとい、枯れ木のようにやつれてゆく。まるで病人の形相だ。

離婚すればいいのにと何度も伝えた。

だが洋子は働いたことがない。頑なに離婚を拒む。主婦という座にしがみついている。

そんな洋子を歯がゆくも感じる。自分は母のように無様になりたくない。結婚して落ちぶれてゆく女。

まだ50を過ぎた頃なのに、母の手は骨と皮。魔法使いのお婆さんのようだ。鈴香はため息をついて母の手を見つめた。

魔が差した瞬間

男性の胸元はだけさせる女性

鈴香は南青山にある中堅のデザイン事務所で働いている。

春夏用、秋冬用の新作が出る前は大忙しだ。海外で流行しているスタイルや、ニューヨークセレブの動向をチェックしたり、ユニークな素材を探したり。

デザインに注力するわけでなく、ほかの仕事がたくさん降りかかる。

専門学校でよく優秀賞を取っていたので、将来を期待されているのは確かだ。

その日も、事務所デザインルームで夜中まで残業していた。来春のファッションショーをまかされている。

「スズちゃん、お疲れー。宅配飲茶頼んだからね」

先輩の野口がデザインルームの戸をあけた。

「あれ? ノグさん、残ってたんですか? 3階にいたの?」

「そうだよ。会議室借りて、スズちゃんが仕切るファッションショーの会場探してた。去年とは違う趣向で、スズちゃんの世界観を伝えたいからね」

野口は鈴香に仕事を教えてくれたり、悩みを聞いてくれたりするいい関係だ。

二人でよく飲みに行くがそれ以上の関係ではない。鈴香は野口と寝てもいいと思っていたが、いまだ誘ってはくれない。

「あー、ずっとパソコン画面と向き合ってたから、意識が朦朧としてきたぜ」

ゆるくウェーブしている長い髪をグシャっと掻きながら野口が愚痴を言う。鈴香もデザインを考えるのに疲れて眠気がおそってきたところだ。

スっと魔が差した。誰もいない事務所。真夜中。

「ねえ、ノグさん、眠気覚ましにしない?」

「え? 何を? まさか、ドラッグ持ってんの?」

「やだぁ、違うわよ。芸能人じゃないんだから」

「じゃあ、なんだよ」

「セックス」

野口がぎょっとした顔つきで鈴香を見つめる。続く言葉が出てこない。息が止まっている。

「脳を刺激するといいアイデアが浮かぶかもよ」

鈴香が野口の真正面から近づき、両肩に手をかける。

野口は静止した動画が再生したかのように鈴香を抱き寄せる。そして、キス。

夜中のデザインルーム。海外の雑誌がフロアに散らばり、ヘッドレスのマネキン達が影を落とす。

「マネキンのおっぱいはよく撫でるんだけど、生物(なまもの)は最近、触ってなくて……」

野口が照れながら鈴香のフランネルの上着を脱がせ、ぎこちない手つきで胸を探る。

低いテーブルに厚手の布を敷き、二人は重なり合う。

ジョーゼットのロングスカートが鈴香の膝に絡みついて思うように身動きが取れない。

「スカート脱がせて……」

「大胆だな。誰か来たら言い訳できないぞ」

「来ないよ。こんな夜中」

「あ、中華デリバリー来るぞ」

「玄関前に置いといてもらえばいいじゃん」

野口はスカートを脱がせ、タイツ越しにヒップを右手で撫で回す。

「タイツも脱がせて」

「はいはい。女王様」

野口はタイツもパンティもグイッとつかんで脱がせてしまう。鈴香は仕返しをするかのように野口のズボンを降ろす。

「男の人ってめんどうね。ベルトもあるし、ホックはずしたり、ファスナーおろしたり」

「機能的でしゃれたデザインのパンツをスズちゃんが考えればいい」

「あ、やめて。仕事の話。今はこっちに集中……」

鈴香が股間にスッと手を伸ばし、ボクサーパンツの上から固形物をまさぐる。

「うっ……ずるいぞ」

野口の手が鈴香の太腿の内側を這い上がる。

「ううん……そこ、くすぐったい」

「くすぐったいのと感じるは紙一重だ」

野口の指はすでに鈴香の入り口に到達している。

「ほらほら、こんなになってる」

「滑稽ね。私達、上半身は服着て、下半身が裸……」

「いいじゃないか。動物の本能だ。お前が誘ったんだぞ」

「誘わなければしなかった?」

野口が何も答えず、いきなり入ってきた。

「ああん、何、もう、来るの?」

野口が無言で腰をすくいあげるように突っつく。鈴香にとっては久しぶりの感触。

鈴香は両脚を野口の腰に巻き付けた。野口の長い髪を鈴香の手がかき上げる。

「彫刻みたいな骨格。いい男ね。ノグさん。ずっとしたかったんだ」

「やってる最中は黙っとけよ」

野口は苦しそうな声で身体をくねらす。

「ウォウォ、ハッハッ」

アパレル系の伊達男には似合わない野獣のようなうめき声。

「いいわ。そのギャップがたまらない」

野口が顎を突き出して目を閉じた。

鈴香は絶頂を感じなかった。野口は早すぎる。ちょっとしらける。

玄関のチャイムが鳴る。飲茶でも食べてリトライするか。鈴香はスカートだけ履き直してスタスタと1階に降りていった。

雑踏の街

野口だけを誘っているわけではなかった。鈴香はしたくなると、適当な男を見つけて直球で誘う。

付き合うとか結婚とかは全く考えていない。仕事がたまってむしゃくしゃした時に一人で繁華街に出向く。

六本木ではなく池袋。青山から少し距離がある夜の街。職場関係者が絶対にいない街。知り合いを見つけても有耶無耶にして逃げ切れる雑踏の街。

自分がデザインしたボディラインのくっきり出る服を着て、太腿とヒップを強調させながらバーカウンターに座っているだけで必ず男は近づいてくる。

寝る基準は顔ではなく、清潔さ。爪がきれいに切り揃えられている男なら誰でもOK。

できればタバコを吸う男。キスする時の人間臭い唾液の臭いをタバコの香りが消してくれるから。

寝る回数は3回まで。それ以上身体を絡めると、気持ちまで絡んでしまい情が移る。

結婚などしたくないのだ。洋子みたいにやつれたくない。鈴香は自分で考えたルールを持っている。

野口という同僚と寝たのは、はじめてだった。初めて自分のルールを破った。

「なんで近場の人としちゃったんだろう」

鈴香はデザインデスクの上にあるデッサン用紙に鉛筆でハテナマークを何個も書いた。

あの夜はしたかった。猛烈に。ただ池袋まで出向くのは面倒くさかった。それだけだと思うようにした。

女性スタッフたちは、結婚話に花が咲くが鈴香は結婚に夢など抱いていない。小さな頃から両親を見ていて、結婚なんかカスの世界だとずっと思っている。

浮気を繰り返す父。ヒステリックに騒ぐ母。母を豚のように扱う父。留守中、子ども達に父の悪口を刷り込む母。

4人で食卓を囲んだのは小学校の低学年の時が最後。

誕生会もクリスマスもいつも母と兄と3人だけだった。クリスマスの時ですら母は父をののしった。

「今頃、きれいなおねえさんに高価なプレゼントを渡しに行ってるのよ。あの男は」

父親をあの男呼ばわりする母を小学校の頃から見ていたのだ。

友達の家に遊びに行った時、そこの父母が笑い合っているのを見て無性に嫉妬した。

「とうさんと、かあさんが仲良しになってほしい?」

花柄の便箋に書いて、神様へのお願い箱に入れていたが、中学を卒業した春休み、あの日、箱ごと捨ててしまった。

卒業式の謝恩会が終わったあと、仲良しの敦美の家のお泊まり会に行く約束をしていた。

仲良しグループ4人で卒業記念のパジャマパーティー。

学校からそのまま敦美の家に行くと言って家を出たが、みんなに渡すキーホルダーを家に忘れてしまった。

早春の夕焼けがとてもきれいで、トンビが輪を描いて飛んでいたのをはっきり覚えている。

玄関には見知らぬ靴があった。男物と女物。父の靴もあったので父の来客だと思って何も考えずに階段をトントンと上った。

すると聞こえてきた。父の寝室から、怪しげな声。

「んぐぐぐぐ、あなた、許して……」

苦しげな母、洋子の声。

「もっと顔をゆがめろよ。感じてるのか、痛いのかはっきりしろ」

父の声もはずんでいるように息切れしている。鈴香は胸騒ぎがした。

「何が起こっている? とうさんの部屋で。また喧嘩??」

洋子の寝室は1階の和室だ。洋子が父の部屋にいることなどあり得ない。強盗がはいったかもしれない。

耕平は塾に行っているので夜遅くまで帰らない。

鈴香は胸の高鳴りを抑えながらそっとドアをあけて隙間から寝室の中を覗いた。

大人になりきれていない鈴香にとって、そこはおどろおどろしい地獄部屋だった。

ダブルベッドの上で、シミーズ一枚の母が四つ這いになっている。

丸首シャツとパンツだけの見知らぬ男が洋子の尻の間に何かを突っ込んでいる。まるで拷問のようだ。

母の肌が異様に白く暗闇に浮かび上がる。遮光カーテンで夕陽は遮られている。

ベッドの横でガウンを着た父は書斎椅子に座り、膝の上に髪の長い女を抱いている。

女は全裸で、股を大きく開いている。父の手が女の乳房にかぶさっている。そして女の開かれた股は父と結合していた。

鈴香はあまりのショックで廊下に倒れ込んで気を失った。そのあとのことは覚えていない。

気が付くと自分の部屋のベッドに横たわり、氷枕をしていた。

今でも蘇る悪い夢

洋子が目を覚ました鈴香の顔をのぞく。

「スズちゃん、悪い夢でも見てたのね。さっき、敦美ちゃんからお電話あったのよ。なんでおうちに来ないのかって」

「かあさん、強盗に襲われてなかった?」

「なんのこと?」

「とうさんは、どこ?」

「ああ、役員さんに呼び出されたからタクシーで会社に向かったわ。休日なのにねえ……。うなされてたわよ、スズちゃん。大丈夫? まだ6時だから、敦美ちゃんのおたくに行く? 車で送ってくわよ」

何ごともなかったようにしらっと話す洋子に違和感を覚えながらも鈴香は悪い夢を見たのだと言い聞かせた。

この悪夢が、今でも蘇る。

社会に出てから何人かの男に付き合おうと言われたが、その先にある結婚生活のイメージができなくなっていた。

セックスまではいい。楽しく遊んで、おいしいものを食べて、セックスをして気分がハイになる。それでいいではないか。

一緒に暮らし始めると逆に心が離れ、喧嘩が増える。結婚した連中は愚痴ばかり言っている。

世の男は全員、父のように浮気を繰り返すはずだ。そして、女は愛されない母のようにやつれきって文句ばかりつぶやく老婆に変貌する。

結婚に何の意味がある? 鈴香はこの問の答えが出ないまま、池袋のバーに出向く。

仕事は充実している。経済的に自立している。寝る男はいくらでもいる。

母とは全然違う。自分がここまで自由なのは結婚に価値を見出してないからだ。

結婚はカスだ。カス世界に自分だけは行かない。

鈴香はキリッとくちびるを結んだ。

ファッションショーに向けたデザインの仕事に没頭していたので三ヶ月ほど実家に戻れなかった。

久しぶりの週末、また田園都市線に揺られ実家に帰る。

春休みの悪夢が蘇る実家だが、母を放っておけない気持ちは年々強まる。

父に振り向かれず、兄も戻らない。せめて自分だけでも癒やしになってやらねば母の心は壊れてしまう。

玄関の前に立った時、いつもとは違う感覚が襲う。小奇麗に磨かれた外壁とドア。

周りにおいてある鉢植えの数が増え、手入れもほどこされている。

花の種類が増えた。窓がピカピカに光っている。

ドアをあけると懐かしい匂いが鼻をつく。ポトフ。昔、母がよく作ってくれたあたたかい煮込み料理。

乙女のような笑顔

「かあさん、料理してるの?」

信じられないという形相でリビングにはいる。驚いた。

痩せてはいるが、髪をショートボブにし濃紺のジャージ素材のワンピースに真っ赤なエプロンをした母が鼻歌を歌いながらカプレーゼを作っている。

「スズちゃん、おかえりー」

あっけにとられた。なんだ、この変わり方は。しかも薄化粧をしている。

「化粧してるの? かあさん、どうしたの?」

洋子は冷蔵庫から白ワインを取り出す。

「手、洗って、うがいしなさい。風邪引かないようにしなくちゃ。手首も指の先も石鹸つけて洗うのよ」

「どうしちゃったの? 小学生じゃあるまいし、わかってるよ」

洗面所で手をゴシゴシ洗いながらも戸惑う。バスルームもきれいに掃除されてある。

洗面所にジュリアンの鉢まで飾っている。何があったのだろう。

アイランド型のテーブルをはさんでワイングラスで乾杯をする。

「かあさん、なんかあった? とうさん、今日も出張?」

ワインを飲んで饒舌になったのか洋子がうれしそうに話し始める。

「とうさん、もうこの家には戻らないって。くれたの。このおうち」

「は?」

「でね、昔、リストラした部下が家がないからここで一緒に住めって言って、置いていってくれたの。純次さんっていうの」

「純次さん? 誰? 何? 意味不明よ、かあさん。メンタルやられたんだね」

洋子は長々といきさつを話すが、鈴香は信用できず、スマホで近くのメンタルクリニックを探していた。

玄関のチャイムが鳴る。

「純次さんだわ」

母が乙女のような笑顔になり、椅子から立ち上がる。小さな子供のように玄関に走ってゆく。

「ただいま、洋子さん」

40代そこらのガッチリした体格の男が立っていた。フサフサの髪。ダボッとした大きめの背広。

やっと手に入れた幸せ

純次は洋子が言うとおり、父嘉久の会社の部下だった。

4年前、嘉久が手を染めた不祥事をかぶって会社を辞めることになった。

離婚をし、次の就職先が見つからず途方に暮れて嘉久を頼ったのだ。嘉久は純次のおかげで会社に残っている。

蒲田の部品工場の工場長の職を世話した。

そのかわりに家と妻をまとめて引き取ってくれと頼んだのだ。

嘉久は愛人を一人に絞り、彼女のマンションで新しい生活を始める。鈴香は狐につままれたようだった。

「そんなこと父から聞いてません、バカげた話、あり得ない。子供に相談せずにそんな勝手なこと決めないでよ。」

「いいじゃない。スズちゃん。かあさんはやっと幸せになれたのよ。純次さんは家事の手伝いもちゃんとしてくれるし、かあさんを大事にしてくれる」

「かあさん、普通じゃないよ。なんで電話してくんなかったの。そんな大事なこと」

「だいじょぶ、かあさんが死んだらこのおうちは耕平とあなたに財産分与するよう遺言、書いてもらったから」

純次があとをつなぐ。

「鈴香さんだって、病んでゆく洋子さんをどうしていいか分からなかったんではないですか。結局、弱り始めている洋子さんを一人で置いている。一緒に暮らしてないじゃないですか。部長の悪い点はたくさんあるけど、僕は若い頃から世話になった。洋子さんを人生かけて引き受けます。頭金ができれば、蒲田のマンションに引っ越しますから、しばらくここにいさせてください」

「かあさんも、純次さんと一緒に出ていく。このおうちはいい思い出がないから。あとは売るなりなんなり、好きにしていいわ。耕平は私に寄り付かないから、このことはあなたから伝えて」

「なんなの? どうしちゃったの?」

鈴香は懸命に理解しようとしたが理解力を超えた出来事だった。

ただ、洋子はこれまで見た中で一番、幸せそうな笑顔を見せている。

純次は40代なかば。母と釣り合わない年齢でもない。

ポトフの湯気の向こうで母と純次、二人が並んで座って笑い合っている。小学校の頃、友達の家でうらやましかった光景。

洋子はガーデニングの話を夢中でしている。

すると純次は工場の流れ作業がいかに効率的かを母に真剣に説明している。

洋子が大きく頷く。

純次が肩についているほこりを払う。

洋子が女の顔で喜ぶ。

キスに没頭できる男

鈴香はその日は実家に泊まらず青山のマンションに戻った。

父親が元部下を母に押し付けたってことなのか? 腑に落ちなかった。

兄の耕平にメールをすると「勝手にやらせとけ。僕達には関係ないから」と相変わらず無関心な反応だ。

悶々としながらベッドに横たわっていた。フッと、野口と事務所でした行為を思い出す。

胸から下がジンジンしてくる。身体の中でシュッとマッチがすられた。

真っ青の膝丈のアウターコートを羽織り、池袋に向かう。

カジュアルなカフェのような開放的なバー。外人が丸テーブルを囲んで立ち飲みをしている。

奥のカウンター席があいていたのでそこでピルスナーを頼む。

コートを脱ぐ。薄手のピンクのシャツ。大きくあいた襟ぐり。

胸の盛り上がりがくっきり強調されている。一口飲むと、隣の椅子に派手な顔立ちをした男が座る。

南国の出身なのか彫りが深くて眉毛が濃い。茶色に染めた髪がクルッと巻き毛になっている。

「友達待ってるの?」

男が話しかける。

「違うよ。喉乾いたから飲みに来ただけ」

「ファッション系の仕事でしょ?」

「なんでわかんの?」

「コーディネート見たらわかる。そのアウターの色とか、短めのエンジニアブーツとか」

「あなたもこっち系の仕事なの?」

「美容師。たまに頼まれてスタイリストのバイトもしてるんだ」

20分ほど仕事の話をつまみに飲む。鈴香の方から切り出す。寝てもいいと感じたらいつも自分から誘う。

タバコの香りがしたのでこの男は「○」だ。キスに没頭できる。誘い言葉を投げる。

「どっかうるさくないとこ行かない?」

男が大げさに両手を挙げる。

「わおう! いきなり? ちょっと待ってて。部屋、すぐに確保する」

数分して男が席に戻ってきた。

「俺の部屋、散らかってっから、後輩の部屋借りたよ。こっから歩いて行けるとこ」

「……いいよ。行こう」

「名前は? 俺、リョウ」

「スズ」

リョウがコートを着せてくれる。実家であったおかしな事を忘れさせてくれるだろう。

⇒【NEXT】鈴香は、浮かび上がった妄想をかき消すように、小さな生き物を責め続けた。(【後編】恋愛とセックスのかけ算/35歳 鈴香の場合)

あらすじ

主人公・鈴香は、環境のいい場所とうたわれる主婦たちの憧れ、郊外の住宅地で育った。

しかし、鈴香の高校時代に商社マンの父が浮気をしたり愛人をつくったりして、その頃から母は大きな声で怒鳴り散らしたり、物を投げるようになった。

そんな母をほっとけなくて、今でもたまに実家に帰っている生活。ある日、会社の仲が良い先輩・野口と残業中に関係を持ったが…

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三松真由美
三松真由美

恋人・夫婦仲相談所 所長 (すずね所長)・執筆家…

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