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恋愛とセックスのかけ算/28歳 梓の場合


淡い期待

305号室、いつもなら洋介の好きなポテトチップスや缶ビールを持ってウキウキしながら訪ねた部屋。
今日は、怒りとも哀しみとも言えない思いが梓の中にどんより溜まっている。
大きな巨人の手で胃のあたりをギュっと握られている感触。

ガソリンスタンドで同期入社の洋介とは当時から気が合った。
同期とはいえ、洋介は他会社からの転職組で4歳年上。
年上なのに「新米ですから俺やります」という誰にでも謙虚な態度が好評で人気者になった。
手がかじかむような寒い日にも笑顔でお客さんに接する、洋介がいると場が明るくなる。
洋介は年々昇進して、エリア一帯のスタンド統括をまかされるようになった。

最初は梓の方から居酒屋に誘い、意気投合で付き合い始めた。
結婚を意識しながら付き合っていたがあっという間に8年。長い春だ。
20代のすべてを洋介に捧げた梓は30歳までには結婚できると信じて疑わなかった。
車で海に行ったり、居酒屋はしごのデートをしたり、普通の恋人同士だと思っていた。
洋介は平日が休みの勤務体系なので平日に遊ぶ友達はいないはずだが

「今日は中古車屋の友達と会って車の話してくる」

「今日は市営プールに泳ぎに行く。定年でリタイアしたおっさん友達とタイム競ってるんだ」

など平日にもびっちり予定を入れる。行動派タイプ。
それでも梓とはひと月の休日のうち半分くらい一緒にいた。

梓は実家暮らしなので、のんびりしたいときはドライブ帰りのラブホテルか洋介の狭い部屋。
付き合い始めた頃は会うたびに抱かれていたがこの1年間はラブホテルに行っても、「梓、カラオケしようぜ」と言って、流行りの歌を練習し始める。
うまく唄えないと何度もローテする。そのうちチェックアウト時間が来て

「あーエッチできなかったなあ。ま、またしよう」

と笑ってごまかす。
梓もそれほどセックスにこだわるタイプではないので一緒にいて楽しければそれでよかった。
今度こそ、誕生日にはプロポーズしてくれるかなという淡い期待もあった。

二日前、その期待は叩きのめされた。

悦子が見たもの

職場の近くのスーパーで買い物をしているときだった。
バイトで働いている悦子が、けわしい顔つきで梓に近寄って来た。
悦子はバイト歴が長く梓は妹のようにかわいがっていた。洋介と3人でハンバーガーを食べに行くこともよくあった。

「梓先輩いいなあ、関本さんみたいなステキな彼氏いて。やっぱ4つ上くらいだと頼れる感じですか?私、年下の子からコクられてるんですけど、イマイチ子供っぽいから年上の人と付き合いたいんですよ」

などプライベートな会話もする付き合いだ。
梓と洋介はみんなが公認の仲だったので悦子も応援してくれていた。

「えっちゃん、今日は早番だからもうオフ時間よね。どうしたの? 怖い顔して」

「梓さん、話あるんです。時間ありますか。となりのバーガー屋行きませんか」

当たりをきょろっと見回して悦子が誘った。
いつもは洋介と3人で来るバーガー屋でアイスコーヒーを頼み、悦子が耳打ちするように話し始めた。

「私、梓先輩の味方ですから、黙っていることできないんです。見ちゃったんです」

悦子のただならぬ気配を感じて、胸がざわついた。
アイスコーヒーを口に含んだが、苦い番茶のような味がして美味しいと思わない。
ゴクンと飲み込み、悦子の目に視線を集中させた。

「何を…見たの?」

悦子は一口もアイスコーヒーを飲まずに小さい声で言った。

「おととい、関本さんのアパートの前、自転車で通りかかったんです。おにいちゃんにコンビニで買い物頼まれたから、夜8時くらい。そしたら関本さんが女の人と腕組んでアパートの入り口、入っていったんです。」

石のハンマーで頭を殴られたような衝撃だった。
梓は一瞬間を置いて、聞き返した。

ロングヘアの彼女

ロングヘアの彼女

「えっちゃん、その女の人って私たちが知ってる人?」

自分が発した声がやけに低く、震えているのがわかった。
突然思いがけないことが降って来ると人は普通の声が出なくなるのだ。

「ううん、会ったことない人でした。髪の毛、腰まであるストレートヘアだったから、そんな人、うちのスタンドにもお客さんにもいないでしょ?」

長い髪の毛、梓はハっと息を飲んだ。
いつだったか洋介が言っていた。

「梓も髪伸ばせば? 似合うんじゃない。そういうおかっぱスタイルより」

「おかっぱじゃないわよ、ボブ!このスタイル保つのに苦労してるのよ。跳ねないように。友達からは似合ってるって言われるんだけどな」

洋介はニコニコしながら

「うん、似合ってるよ。梓、色白いし、お人形さんみたい」

そんなたわいない会話だったが、たしかに洋介の部屋にたくさん転がっている写真週刊誌のグラビアにはロングヘアの豊満な美女が写っていた。
前から黒髪ロングヘアの女優が好きというのも知っていた。長い髪の女が好きなのは確かだ。

「腕、組んでたの?」

「はい、女の人が関本さんの腕にすがる感じで甘えてるみたいな」

梓はそのシーンを想像しただけで頭痛がしてきた。
さっきハンマーで殴られた頭の中に痛みの振動が広がるようなジリジリした痛み。
呼吸も早くなり手のひらに汗がにじみ出た。

「私、梓先輩のこと好きだから、隠していられなくって、連絡入れようかどうしようか、ずっと迷ってたんですけど」

「ありがと、その言葉だけで嬉しい。私、確認してみる。えっちゃん。コーヒーだけじゃなくてアップルパイ食べる?ごちそうするから」

悦子がパイを注文に席を立つと、梓はすぐにバッグから携帯を取り出し、二日前の履歴を覗いた。
毎日、夜には洋介からメールが入るが、二日前は入っていない。
梓がおやすみメールを23時頃に送ったあとで

「あいー、また明日」

と返信が来ただけだ。
何も気にしていなかった。
信じていた。8年も普通に付き合って来たのだ、職場でも公認なのだ、自分を裏切るはずなんかない。
30歳までに結婚するのは当然のことだと。

同性の匂い

その夜の洋介からのメールはいつものちゃらけた内容だった。
「ラーメン食い過ぎて胸焼けー。もう寝るわ」と。

「気をつけてね」

とだけ返して梓はベッドに入った。

洋介が髪の長い女と歩く姿が浮かんできて消えない。頭を振っても、目をギュっとつむっても二人の姿が執拗に浮かんでくる。
頭痛がひどくなった。梓は枕をドアに投げつけた。
夜のとばりがとてつもなく寂しくのしかかった。

305号室を合鍵で開けた。洋介は今日は会社出勤、梓は非番だった。
合鍵はずっと前に渡してもらっていたが、いつも洋介といっしょに部屋に入るので使った回数は数回しかない。
洋介は留守中、掃除や洗濯しに来るタイプは苦手と言っていたし、結婚したらいやでもそういう日常の繰り返しなので今のうちから世話女房しなくてもいいと思っていた。

ドアを開けると、ツンといやな匂いがした。
自分以外の同性の匂い。嗅ぎたくなかった。敗北の匂い。あきらかだった。
悦子の言ったとおり、女がこの部屋にやって来た。
寝室を覗くと、布団が派手にめくれあがり、ベッドのシーツがしわだらけに乱れていた。
そしてコンドームの箱。

吐き気がした。

「私とする時は避妊なんかしないくせに、何よ。これ」

コンドームを使うということは遊びなのか、それとも本気なのか混乱した。
箱を踏みつぶした。むせ返る情事の匂い。

梓は窓を開けた。
窓を開けたまま洋介が帰ってくるのを待った。こんなに屈辱的な午後を生まれて初めて過ごした。
頭痛と吐き気、最低の気分で帰って来た洋介を睨みつけた。
洋介は何も言わない。神妙な顔つきでたたずんでいる。

「なんとか言いなさいよ」

腹の底からやっと声を絞り出した。

「梓のこときらいになったわけじゃなくて、その男の本能っつうか、一途になれないんだよ。あの子もいい、この子もいい。バイトのえっちゃん見ててもかわいいと思うし。それでつい」

洋介は「別れよう」とは言わなかった。
「ごめん」も言わなかった。

恋から逃げないで

翌日からまた日常が続いた。
職場もハンバーガー店も今まで通り存在するのに梓が感じる風景はガラリと変わってしまった。何もかもが色あせ、人が信じられなくなった。

「梓さん、仕事頑張ってるね、経理の書類も完璧に作ってくれてるし」

と褒められても

「梓先輩、色白できれいー。うらやましいな」

と後輩にヨイショされても、心が動かない。
本心で言っているのか疑うようになった。
一番辛いのは洋介が何事もなかったように話しかけてくることだ。

「梓、今度の休みは何曜日?俺も合わせるから一緒に中古車見に行く?」

無視した。
洋介は人の気持ちを読めない奴なのだ。

「梓、まだ怒ってるのか?しょうがねえだろ、男ってのはみんなそうなんだからさ。もてたいのよ。複数の女に。梓のことも好きだって言ってるんだからいいじゃん。ちょっとの間、二股だったかもしんないけど」

この言葉が刀のように梓の胸を斬った。

「別れよう。もういい。」

梓から別れの言葉を発した。

「そうかあ、まあしょうがないよな」

その言葉が梓の心の傷口をまたえぐった。

「そうかあ、まあしょうがないよな」で8年間が終わるなんてむなしすぎる。
人当たりがよくて明るい洋介が梓にとっては恋愛のトラウマになろうとは思わなかった。

見抜けなかった自分が馬鹿だ、長く付き合ってるんだから結婚するだろうと安心していた自分が馬鹿だ。つい自分を責めてしまう。

そして一年。
洋介が他店へ移動し、やっと心穏やかに暮らせるようになった。
バーガー店でスマホを見ていると、いきなり声をかけられた。

「混んでるんで相席いいですか」

見上げるとニカっとさわやかな笑顔を見せる青年が立っていた。
久しぶりに気持ちが揺れる異性を見た。

「はい、どうぞ」

青年がトレイをテーブルに置きながら小声で言った。

「ここのアイスコーヒー、あんまうまくないんすよね。なんか番茶っぽくないすか」

クスっと梓は吹き出した。

「あのう、電気屋の向いのスタンドの人でしょ。中で事務してる。俺、たまにしかガソリン入れないから知らないと思うけど、洗車するあいだ待合室から見てたんす。色白でかわいい髪型の人がいるなあって。話したいなあって。よかったらフライドポテトおごらせてください!」

梓は、大きな声で答えた。

「はい! 遠慮なく。じゃあLサイズで、ソースもつけてください」

何度でも恋愛すれば鍛えられるかもしれない、恋から逃げるのはやめよう、そんなふうに思える午後だった。


END

あらすじ

ガソリンスタンドで同期入社の洋介と付き合っている梓は、そのうちプロポーズしてくれるだろうという期待していた。
しかし、後輩から洋介が別の女と腕組んで歩いていたことを聞いてしまい…。

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