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恋愛とセックスのかけ算/28歳 ひなたの場合


心に深く浸透する曲

大きな交差点の人混み、ひなたは向こう岸から押し寄せてくる人の群れに向かって歩くのが怖い。全員が「ちょっと邪魔、どいて。」と言っているような顔つきに見える。ぶつからないように歩くとジグザクな動きになり、いつまでたっても向こう岸にたどりつける気がしない。

「シブヤ、やだ…」

人混みが苦手なひなたは小さい頃から行列も苦手だった。滑り台で後ろに友だちが来るとスっとよけて譲ってしまう。中学の頃は「ひなたって、存在感ないよねー」と噂されているのを聞いて一週間学校に行かなかったこともある。

道下坂のはずれにポツンと置いてある自販機でミルク紅茶を買う。そしてもっとも苦手とする、人が溢れるハコに向かう。

 

アットユーのライブは常に満員だ。開演前からライブハウスの前には気合いが入ったメイクの女たちが溜まる。ゆる髪ウェーブのcancam系、金髪のロック系、だぼっとしたトップスのearth系…固定スタイルのファンばかりでないことがアットユーの強さだ。

いろんなライフスタイルの女性たちがアットユーの曲の世界に遊びに来る。ポップスのようでもあり、ロックのようでもある。型にはまらない耳障りがいい音楽。

ひなたは、学生の頃、アットユーの曲をネットで耳にして一瞬でとりこになった。友だちが作れずに、部屋でコミックばかり読んでいた頃。

母親に友だち作って出かけなさいと言われ、「友だちなんか簡単にできない」とつっかかって喧嘩をした日。アットユーの曲がひなたの胸にスーッと入りこんだ。真綿の上に水をこぼしたかのように。染みてきた。

“下を向かないで  空を見て
闇を見つめないで  そこから出てきて
光の中で まばゆそうに目を細める君は
僕のエンジェル”

そしてCDをすぐに買い、一晩ですべての曲を何も見ないで歌えるほどのめりこんだ。

ネットで読んだアットユーのインタビュー記事。ひなたはギターの流司の言葉に釘付けになった。

「あんまり人と関わるの得意じゃないっていうか、苦手です。言葉では30%くらいしか伝えられない。口下手かな。だからギターで伝えるんです。心を込めて。このフレーズで僕の気持ち、わかってくれよって。わかんないかあ(笑)」

流司はひなたと似ているんだと頭のなかで何かが光った。ひなたもそうだ。一生懸命伝えようとしても相手は「はあ?」という顔つきをする。その顔を見るのが辛くて口数が少なくなった。

完璧に自分の気持ちを伝えることができる人がうらやましい。クラスの人気者や優等生たちはみんな完璧に会話をする。コンプレックスが根強くへばりついたままひなたは大人になっていた。

 

卒業後は小さな商社で事務の仕事を始め、給料が出るとアットユーのライブやグッズに注ぎ込んだ。

いつの頃からか流司のギターソロを集中して聞くようになった。イントロ、間奏。動画で見せる流司の表情を細かく全部覚えた。うまく弾けて嬉しそうな顔。弾き間違えてしまったと思う顔。そしてうなじに流れる玉のような汗。一コマ一コマが、まるで自分の目の前にいるように鮮烈に浮かび上がる。

「流司。好き。大好き」

そしてひなたはアットユーのライブをすべて観に行くようになる。いつの間にか東京エリアだけでなく地方公演もするくらい人気が出てきている。オフィシャルサイトで静岡公演を知り、さっそくチケットを購入する。ネットのファン書き込み掲示板でメンバーが宿泊するホテルがわかった。ひなたはためらわずホテルを予約した。

「少しでも流司の近くにいたい。いつか話せることができたらいいな」

アットユーの新曲は、まるでひなたに向かって書かれているような詞だ。作詞は流司。

“夜のとばりが君を包む
ひとりぼっちで涙を流していても
その涙は拭かないで
僕がそっとぬぐってあげる”

ひなたはいつの日か流司と会い、抱かれることを夢に見るようになっている。

理想の世界

アットユーの静岡公演は東京のファンも押し寄せ、会場は熱気で満ち溢れた。MCはボーカルのジュンヤ。静岡ネタで盛り上げた。

心待ちにしたメンバー紹介で流司の番になった時、ひなたは身体中の熱が一気に頭に集まってきたような感覚にとらわれた。

首筋はじっとり汗ばみ、頬は焼けた石を当てられたように熱い。下半身に思いもよらず鋭い電流が滑りこむ。「あんっ」ひなたは思わずうめき声を漏らす。客席にスポットライトが当たっていなくてよかったと思う。恋焦がれている流司がギターを肩にかけたままで恥ずかしげに笑う。

「今日はありがとうございます…俺、あんましゃべり得意じゃなくて…えっと、趣味はギターです」

会場が女性たちの笑いの渦に包まれる。

「当たり前すぎて、すみません」

ひなたがクスっと笑った時、ステージ上の流司と目が合った。ひなたの席は前から4列目。さほど広くないホールなので、ステージから顔が見える。

「あ、」

ひなたは思わず、手を振る。流司が気づいたように手を振った。

「通じた…」

ひなたはさっき頭にのぼってきた熱が今度は首から背中、太ももからふくらはぎまで駆け巡る錯覚を覚えた。

「流司、私を見つけてくれた。私だけに手を振ってくれた」

ベースの鏡也、ドラムの春都の紹介が終わると同時に曲のイントロが流れる。ギターソロで始まる。一心不乱にギターをなぞる流司の指に、ひなたは自分の身体をなぞられている気がした。

地元のファンが出待ちをしているのを横目に見ながらひなたはホテルに戻った。東京のライブでは必ず出待ちをするが、なぜかしらこの夜はしなくていいと感じた。

ひなたの中で自信が首をもたげている。流司とつながった自信。出口に群がって騒ぐ地元のファンを見るひなたの目には余裕が見て取れた。

「流司は私のものなのに」

「おなかすいたあ」

ホテルの周りを散歩しながらちょうど裏手の路地で見つけたるカトレアという店にはいる。おしゃれとは言えない古びた喫茶店だが、駅前のレストランまで歩くのは億劫だった。

冷たいコーラを一気に流し込みライブの高騰感を冷ます。夜遅いせいか客はひなた一人。アットユーの歌を聴いていると、違う自分が歌の世界で生きている気がする。

違うひなた。もうひとりのひなた。口下手なひなたではなくいつもはしゃいでいる、はつらつとしたひなた。昔から「こんな私になりたい」と描いていた自分像。歌がひなたのバッテリーをチャージしてくれる。たくさんの友だちと笑い合っているひなた。理想の世界が歌で作り出される。

チーズトーストを注文する。分厚いパンの真ん中が繰り抜かれ、そこに溶けた山吹色のチーズが池のようにたまっていておいしそうだ。

「こんなおしゃれなメニューあるんだ。渋谷にあれば行列になりそう…」

溶けたチーズをパンの表面に塗りながら一口かじる。すると、今しがた想像したばかりの理想の世界が目の前にリアルに現れた。

「チーズトースト、大至急ー。腹減ったー!」

流司、ジュンヤ、春都、鏡也。ステージでスポットライトを浴びていた4人とマネージャーらしき小柄な男性がいきなり店に入ってきたのだ。

 

時が止まるというのはこんな場面のこと。ひなたの頭の中の思考回路も止まった。

「なんで? なんで? なんで?」

同じ疑問詞がリピートされる。それ以上のことが想像できない。

パーフェクトな顔立ちのジュンヤがひなたのチーズトーストに気づき、微笑みかける。

「おいしいっしょ。ここのチーズトースト」

ひなたは、動けない。話せない。首を縦にふることもできない。

「ライブおつかれさん」

その時、店の主人が4人に声をかける。きれいな白髪を七三に分けて白いエプロンをつけている。

「こんな地方の小さな店にまた来てくれるなんて嬉しいなあ」

流司が応える。

「絶対来るって言ったじゃないですか。俺、カトレアっていう歌、作ろうかと思ってるんすよ」

大きな笑い声が狭い店内に響く。

「なんで?」と回転していた言葉が止まる。

脳が正常に動き始めて理解できてきた。アットユーのメンバーは前に一度この店に来て、今夜またやって来たのだ。ライブのあとに。

神様がくれた奇跡

チーズトーストを食べるのをやめて固まっているひなたのほうにチラリと流司が振り向く。

「騒いですんません。食事続けてください」

ひなたが頭の中で想像していたワンシーンが目の前で起こったのだ。流司がほほえみかけてくれている。ひなたはやっとまばたきをした。でもさっき手を振ってくれたことはわかっていない。

「あの…ライブ、よかったです。とても…」

一斉にメンバー達が振り向いた。

「観に来てくれたんすかあ。あんがとさんっす」

ジュンヤが帽子を脱いでペコっと頭を下げる。

店の奥にある6人がけの席でアットユーが食事を楽しんでいる。店の主人もまじって、ビールを飲みながら談笑している。ひなたの数メートル先に流司がいる。

チーズトーストはチーズが固まってきて食べにくかったがなんとか口に押し込んだ。味も何もない。グラスの中で溶けた氷水を飲み干した時、流司が話しかけてきた。

 

「静岡のかたですか?」

ひなたは、空の上を飛んでいる気分だ。心臓がバクバクはじける。

「あ、東京から来たんです。新幹線で」
「ひとりで? わざわざうれしいなあ。もしかしてグリンピーホテル?」

こっくり頷く。

「俺らもそこだから、このあと二次会いっしょに飲みます? バーがあるんすよ」

神様がいるんだとひなたは確信した。憧れのミュージシャンが誘ってくれるなんていう奇跡が起こるなんて。ひなたは両手を組んで、興奮を沈めようと必死になった。

ジュンヤも春都も「飲もう飲もう!」と歌うように声をかける。ひなたはいつもの人付き合いが苦手な自分を脱しようと誓い、人生最高の笑顔を見せた。夢に見ていた理想の自分がこの夜、殻を破って出てきた。

ホテルの6階にあるバーは近場の夜景が見える粋なバーだ。都会のビルの高層階から見る夜景とは違い、ネオンの文字もくっきり見えて自分も街の光の中に溶け込んでいるようだ。

ひなたはメンバーとマネージャーに混じって名前がわからない甘いカクテルを舐めている。会話の内容は業界のことばかりで、適当に相槌を打つしかないけれど、曲の話題になると「後半の歌詞がせつなくなります。女の子はみんな泣いちゃいます」と小さな声でささやいてみた。

「アルバムの曲、全部覚えてるんだ」

流司がそれに気づき、感心する素振りを見せる。

「ファンの皆さんに支えられて、うちらは生きております」

春都が、ナッツを指ではじいて口に投げ込む。贅沢な時間が流れてゆく。

「時が止まってくれればいいな。ずっとこの空間にいたい。今、私の胸の中に虹がかかっているんです」

流司がオッというようにひなたを見つめる。

「その言葉いいね。時が止まった世界に虹がかかる。その世界で君はどんなことを考えてるの? おしえて」

 

ジュンヤが口をはさむ。

「始まった。流司の作詞が。こっからは質問攻めだな」

メンバー達があくびをしながら部屋に帰ってゆく。

ジュンヤのいうとおり流司だけはバーに残って、ひなたを質問攻めにする。女心を教えてくれと言わんばかりの質問だ。

「神様に二度目のありがとうを言いたい…」
「二度目って」
「最初のありがとうは、さっき、流司さんに手を降ってもらった時言ったから。今は、流司さんとふたりで向かい合っていることにありがとうって…」

流司がウイスキーのグラスをカタンと置いて、スマホのメモに何かを書いている。

「歌になりそうな言葉は書いておかないと、酔いが覚めたら頭ん中から消えるから」
「お酒が覚めたら、私のことも忘れますか。ただの一ファンだから」

流司がひなたを見つめた。

「いや、そう言えばステージから手を振った。一生懸命応援してくれてるすてきな女性に。思い出した。連絡先おしえて」

ひなたは胸の中で神様に三度目のありがとうをつぶやいた。

ちょっとしたトキメキ

東京に戻ってからのひなたは、鬱の闇から抜け出たように快活になっていた。明るい色の服を着て、スカートの丈も前より少し短め。はっきりした声で挨拶をする。

職場では皆から「小木さん、彼氏できた? なんか変わったね、前はおとなしかったのに。」とセクハラまがいの言葉を言われる。

「はい! まあ、そんなとこで」と笑って受け流す素振りにも周りの同僚は驚いた。流司にメアドを教えたがよもや一ファンにメールが来るわけはない。そこまで期待はしない。話ができただけでも充分。ひなたはすべてに満ち足りていた。

ある日、ひなたが休憩室でネットニュースを見ていると同僚の吉野公平がストレートに聞いてきた。

「小木さん、彼氏できたって噂、ほんと?」

 

公平は同期だが、とても28歳には見えない。童顔とは公平のためにある言葉だ。髪の毛をジェルで固めてなければ学生に見える。眉毛がきれいなアーチを描いている。背も高くなく、甘い声。スーツが体型に合ってないのか、ダボッと着ているところも若くみえる要因だ。袖が長くて指先しか見えない。

「吉野くん、私、そんな変わったかな。前って陰気な奴だった?」

公平が珈琲にたっぷりミルクを入れてクルクルかき混ぜながら答える。

「陰気ってか、おとなしめだったじゃん。」
「そうかあ。ま、いいことありすぎて生まれ変わるってこともあるのよ」

公平が興味津々の顔で尋ねる。

「なに? いいことって」
「内緒」
「小木さん、今日、飯行こうよ。その生まれ変わりの話、聞きたい」

ひなたはいきなりの誘いに惑う。慣れていない事態にどう対処していいのかわからない。

タジタジしているひなたを見て公平が言う。

「ただのご飯だよ。下心なし。代々木に隠れ家的なイタリアンあるんだ。行こうよ」
「隠れ家イタリアンって、デート誘うのには効くってネットで読んだ」

小木は珈琲のペーパーカップをゴミ箱めがけて放り投げ振り向いた。

「じゃあ、デートだ。小木さんといろいろ話したいと思ってた」

乾杯する男女

おとなしいと思われている頃でも公平とは職場で唯一雑談ができる関係だった。雑談とは言え、公平のちょっかいにボソっと答える程度。

外の店でテーブルをはさんであらためて向き合うと、意外にかっこよくて照れてしまう。最近はついてるから、今日のデートにもつながったんだと思うことにした。

スプマンテを一口飲み、ひなたの方から話し始めた。

「なんで明るくなったか聞きたいでしょ。私ね、アットユーのファンなの。ライブは全部行ってる。アットユーおたく。先月、地方公演行った時、私がはいった喫茶店に偶然、メンバーが来たの」

公平がおもしろそうに身を乗り出す。

「まじかー。それ、すっげーラッキー」
「そうなの。そこからも幸運続き。ホテルが一緒だったから、二次会誘われて、もうそっから先は夢ごこち」
「そりゃうれしいよな。アイドルが目の前にってやつ。あり得ないシチュエーション。」

 

ひなたは、その話を初めて公平にした。誰かに言いたくて言いたくて仕方がなかったが、おとなしいひなたがバンドのおっかけしてたなど思われるのもいやで黙っていた。

たまった水がこぼれ落ちるように公平にいきさつを話した。息がはずむ。声が高くなる。瞳がクルクル動く。身振りが大きくなる。

公平はうれしそうにそんなひなたを見ている。

「小木さん、いや、ひなたさん。ひなたさんそんなはしゃぐ姿見たことなかったから新鮮。なんかいきいきしててかわいい」
「え?」
「よかったら、またメシ誘っていい? イタリアンばっかじゃなくて居酒屋とか安い店でもよければ」

ひなたは急に黙りこんだ。

「どうしたの」
「びっくりした。あんまり誘われ慣れてないから」

公平はひなたのプレートにあるエビを自分のプレートに奪い取った。

「俺、エビ、大好き。ちょうだい」

エビの尻尾を口からチョコンと出し、おどける公平にひなたはちょっとときめいた。

胸の奥の叫び

公平のことが気になり始めた。公平が残業をしているのを見ると、ひなたもPCの前に座って、帰るタイミングを見はからうようになった。

その日、公平は資料の出来が悪くて上司に怒鳴られたらしく、不機嫌そうな顔でPC画面を睨んでいた。ひなたはマイポットに用意していた生姜ドリンクを紙コップに入れて差し出した。

「珈琲ばかりだと胃に悪いよ。これ飲んでみて」

公平は我に返ったように「おう、サンキュ」と作り笑いをした。

「いいことばっかじゃないよ。私も福田さんにすっごい怒鳴られたことある。びびって震えちゃった。トイレで泣いたよ。女子コミックのお決まりのパターンみたいでしょ」
「ハハハ。男はトイレで泣かないなあ。」

PC画面を指差しながらふてくされたように言う。

「めんどくさいんだよ。数字の部分」
「アットユーの曲聴いて気分転換したらどうかな。切り替えが大事。CHANGEっていう曲あるんだ」

 

フロアには誰も居ないことを確認してスマホで曲を流した。

しばらくすると、公平はボソっと言った。「ひなたちゃん、この仕事やっつけたらまたデートしようよ。ジンジャーとアットユーでイライラが吹っ飛んだよ」

アットユーに出会えた日からひなたに運気が回ってきた。友だちも増えた。きれいになったと言われる。ひなたは毎朝目覚めるとベッドの中で、神様と流司に「ありがとうございます」とつぶやくようになった。

公平との楽しい日が流れてゆく。公平からのユーモアたっぷりのメール。寂しくない週末。まるでアットユーの歌詞の世界に自分がいて”恋するひなた”を演じているように感じる日々。

久々にアットユーのライブ情報が届いた。公平を誘ったがその日は出張で東京にいない。ひなたは、一人で渋谷に向かう。大きな交差点の人混み、前は「人混み、ヤダ」と思っていたのに、前を歩く高校生カップルに「恋、がんばって」と声をかけたくなるほど気持ちは変わっていた。

3ヶ月ぶりのライブ。最前列を取れた。新曲発表もあり、ファンたちは総立ちで盛り上がる。甲高い声が会場にこだまする。

流司に赤紫色のスポットが当たり、ギターソロのパートが始まる。失恋のバラードの泣きそうに切ないフレーズ。ひなたは心を揺さぶられる。

「流司、最高」

目が合ったかどうかはわからないが、ひたすら流司の目を見つめていた。

アンコールの余韻に酔いしれて、会場を出た。その時、スマホにメールがはいった。

「来てくれてありがと。打ち上げ来る? もちろん極秘で RYUJI」

流司がひなたのアドレスをメモしたことを覚えていてくれた。あの夜の興奮を思い出した。喫茶カトレアに突然メンバーがはいってきたときの事。胸の鼓動が高鳴る。

「ぜったい行きます! どこですか。Hinata」

 

スタッフが大勢いて大騒ぎの打ち上げ会場だった。メンバーがひなたに気づき、歓迎してくれた。流司はずっとひなたの横で、新曲の感想を尋ねたり、気をつかってくれている。

夢を見ているようだった。また流司にステージ以外で会えるなど。

打ち上げが終わる頃、流司が耳元でささやいた。

「終電ないでしょ。タクシーで送るよ」

ひなたは興奮が止まらない。

「えええ! そんな一人で帰ります」
「遠慮しないで。来月の埼玉公演も来てもらうから。それであいこだ」

首筋から耳まで赤くなる。

「あり得ない、あり得ない、あり得ない」

幸運続きのひなたに、またしても幸運が降ってくる。ふと公平の顔が浮かんだが「憧れのアイドルに送ってもらうくらい、いいよね」とつぶやく。

タクシーの後部座席は天国だった。ひなたの左半分に流司の身体がくっついている。流司の熱がひなたの身体半分をジワリと侵食してくる。熱い。頭の中も。頬も。耳も。腕も。

新曲のサビのメロディをハミングしながら流司がひなたに唇を寄せる。ひなたは、がむしゃらに「神様、ありがとう」と胸の奥で叫び続けた。

好きの割合

頭の中で銀色の光がスパークする。自分のすべてがいつかのチーズのように溶けてしまいそうなキスだった。

「私が溶けてトーストの真ん中に潜り込む」

キスのあいだ、失神しないようにそんな馬鹿なことを考え続けていた。

ひなたはアパートの前でタクシーを降り、流司が乗った車を呆然と見送った。

「あり得ない、あり得ない、てか公平くん、ゴメン」
「神様、こんなハッピーくれてありがとう」
「てか公平くんに悪いことしたから地獄に堕ちる?」
「流司ともしかして付き合える? ないないない…」

支離滅裂な言葉を並べながら、ベッドに横になったがその夜は一睡もできなかった。流司がベッドの横にいるような錯覚を覚える。熱い吐息。やわらかな唇。タバコの香り。セクシーな伏せ目。手を握ると指にたこができている。ギタリストの指。

公平は出張先で忙しいらしく、LINEも2本はいっただけだった。週明けの月曜に会社で顔を見て、ひなたは少し気まずかった。

「ひなたちゃん、どうだった。アットユーのライブ。新曲はバラード系?」
「う、うん。そう。切ないバラードだったよ」
「今度一緒に聴こうよ」

 

ひなたは、コクっと頷いた。公平とは何度かキスをしていた。ふわっとしたキス。流司のキスとは全然違う。チュっというかわいい音をたてる子供っぽいキス。

流司とキスをした時、胸が高鳴り、息が苦しくなった。体温も血圧も史上最高値になったのではないかというぐらい。大人の味。ちょっと危険な地域に足を踏み入れた背徳感。目の前にいる公平は愛くるしい瞳でひなたを見ながら両手を上に伸ばして背伸びをした。

「ああ、パソコンばっかしてると腰にくるなあ。今度マッサージしてよ」
「うん、いいよ。意外に力あるのよ。お揉みします」

公平がうれしそうに言う。

「水曜、早く帰れるからうち、来ない?」
「え? 公平くんのマンション?」
「うん。下高井戸、男一人暮らし。狭いよー」
「お部屋見たい。じゃあ、ご飯作ろうか?」
「いや、キッチン狭いから無理。コンロひとつと小さいシンク。調味料とかないし。塩だけでメシできる?」
「そうかあ。お塩? おにぎりかな」
「じゃあ、なんか買って帰って食べよう。デリで。ひなたちゃんのおにぎりも食べたい」

初めて公平の部屋に呼ばれた。しかもこのタイミングで。流司とのキスの余韻をかかえながらひなたは一生懸命作り笑いをした。

地下街のデリで食べ物を何種類も買い込んだ。ラザニア、チキンカツ、中華サラダ、パイナップルバスケット。

「買いすぎたねー。おにぎり作らなくていいんじゃない」

まるで恋人同士の会話だ。だがひなたはずっとモヤモヤしていた。公平に数ヶ月前ご飯に誘われて、何度か手をつないで軽いキスをした。それでも「付き合おう」という言葉は公平の口からでてきていない。

「私達付き合ってるの」という問いかけをひなたからすることはない。ひなたの心にはずっと流司がいた。ギタリストとファンの関係より一歩も二歩も進んだ関係。神様がくれたあり得ない体験。

流司と公平とどっちが好きかと質問されるなら即刻、「流司」と答えるだろう。誰に抱かれたいと尋ねられるとやっぱり「流司」なのだ。そんな気持ちのまま公平と付き合っていいのかという不安がひなたを悩ませている。

「なんで、公平くんの部屋に行くって言っちゃったんだろう…」

ひなたには性の経験がない。彼氏などいなかったのだからしょうがない。ひなたはいつも流司の腕に抱かれることを想像していた。

流司の胸に頬をあて、指を絡ませる。その先は霧に包まれて見えなくなるが、流司にしか自分の恥ずかしい部分は見せたくないとずっと思っていた。なのにひなたは公平の部屋に行こうとしている。

   

公平の部屋は思ったとおり散らかっていた。料理ができそうにない狭いキッチンに鍋とレトルト食品が積まれている。小さな炊飯器が床に転がっているが、ほこりをかぶっていて使われた形跡はない。

公平が急いで白いミニテーブルの上を片付けている。コーラのシミがへばりついている。

「なんか、かわいい。男の子って感じで」

ひなたの中で公平の割合がグンと増える。

公平がジャージに履き替え、デリをテーブルに並べ始める。

「はい、お皿あんまりないから、パッケージのまま食べよう!」

二人はベルギービールのボトルで乾杯をした。

おなかが落ち着くと公平がひなたの肩に手を回し、唇を寄せる。ひなたはいつものように唇をツっととんがらせて軽いキスをする。するといつもと違うことがいきなり起きた。公平が舌先をいきなり押し込んできた。

「キャッ」

ひなたはあわてて顔を放す。

公平が茶色がかった丸い目をクルっとさせて驚く。

「どうしたの? キスしちゃだめ?」

私だけのエンジェル

ひなたはうつ向く。

「今日は、マッサージしに来たっていうか…」

公平がひなたの両肩を正面から抱く。

「あのさ、もう大人なんだし、マッサージだけで終わるなんてないっしょ」
「でも…」
「もしかして、はじめて?」

ひなたは下を向いたまま頷く、公平の目を見ることができない。

「怖い? 俺とじゃいや?」

ひなたが首を横にゆっくり振る。

「じゃあ、やっぱマッサージしてよ。」

公平がベッドの上にうつ伏せで横たわる。ひなたはそっと公平の腰の部分を押す。

「もっと強くおねがいしまーす」

ひなたは顔をあげて笑ってみた。

「1時間6000円ですー」

ベッドの上でマッサージをしているうちに公平がひなたの腕をつかんで横に寝かせた。初めての長い長いキス。舌先を口の中でつつきあいながら戯れていると、すっかり公平のとりこになってきた。身体の奥が熱くほてる。

初めて裸の肌と肌を重ねた時、恥ずかしさと嬉しさが交じり合って顔から湯気が出そうだった。

 

朝の光が窓から差し込み、ひなたは目覚めた。マッサージのあとのことは恥ずかしすぎてよく覚えていないが流司の顔が浮かんでこなかったことだけは確かだった。

公平はスースー寝息を立てている。寝顔が天使のように見える。いつの間に置いたのか、テーブルの上に小さな赤い箱とカードがある。

「ひなたへ
僕の彼女になってください。
アットユーのライブに一緒に行こう。
公平より」

箱を開けるとスワンの形のペンダントが入っている。

ひなたの目にじわりと涙がたまり、スーッとこぼれ落ちる。流司への憧れを吹っ切って公平に気持ちを寄せた証の涙。

   

「アットユーのおかげで、私、やっと大人になれたのかな」

ひなたは、公平のプルっとした子供っぽい頬にキスをした。ふとアットユーの曲のフレーズが浮かぶ。

“光の中で
まばゆそうに目を細める君は
  僕のエンジェル”

「私のエンジェルは公平くんだったんだね」

ひなたは嬉しそうに目を細めた。


END

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あらすじ

28歳のひなたは、「アットユー」というバンドの熱烈なファンだった。
その中でもギタリストの流司に憧れを抱いており、いつかは流司に抱かれたいと思っていて…

公開中のエピソード 全67話公開中
三松真由美
三松真由美

恋人・夫婦仲相談所 所長 (すずね所長)・執筆家…

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