注目のワード

恋愛とセックスのかけ算/32歳 小春の場合


差し入れはココア

竜樹の机にミントキャンディーをそっと置いた。デスクトップの画面には星空模様のセーバーがキラキラ輝いている。画面いっぱいに光がまたたく。

「星空か。こんなロマンチストなのかな、樋口先輩…」

河原に寝っころがって星を見つめる二人を想像して小春は笑みがもれた。小春は先輩の樋口竜樹の背中をずっと追っていた。

軽量金属の販売代理店に勤め始めて3年目。途中入社し、仕事に慣れるために毎日残業していた小春を竜樹はいつも気にかけてくれた。寒い夜はいつも缶ココアを差し入れしてくれて。

「なんでいつもココアなんですか?」

「缶コーヒーは自分が苦手だから、人も苦手だろうと思うんだよ。河合さん、缶コーヒー派?」

「いえ、私もコーヒーは苦手ですけどどっちかと言えば紅茶かな」

「そうか、今度はミルクティー差し入れするよ」

と言いながらもまたココアを買ってくる竜樹とぼけた行動に無邪気なかわいさを感じた。

竜樹のおかげで新しい職場にはすぐ慣れた。
お局の?井さんには気をつけて敬語で接すること、坂部課長のおしゃべりはまじめに聞くと疲れるから聞き流していいこと、お弁当は12時5分にやってくる車販売の栄養バランス弁当のコスパが一番いいこと。さぼりたくなったらビルの3階にある資料室に行けばいいこと。

小春はアフター6の残業時間が楽しみだった。竜樹が独身ということは知っていたが彼女がいるのかどうかは「職場の7つの謎」ということになっている。気にはなったが、ふたりきりで食事に行く事もなく、3年が過ぎていた。

小春はいつのまにか30歳を超え、母から

「いいかげん結婚相手みつけないといき遅れるわよ」

と何度も言われる。小春は母が苦手だ。小さな頃からせかされてきた。

「早く起きなさい」、「早くゴハン食べなさい」、そして今は「早く結婚しなさい」。

せかせかしている母を見るたびに、年を取るのも早いから老けてるんだと感じた。実際、母は50代にしては体型も顔つきもおばあさんみたいだ。

いき遅れって何?私の同級生で半分以上は結婚してないんだからいき遅れのほうがスタンダードじゃない。と毒づきながらも海外ウエディングのCMや結婚情報誌が気になる。

純白のウェディングドレスに身を包み、タキシードのイケメンに腰を抱かれているモデルの写真を何百回眺めただろう。雑誌の写真は真っ青な青空に白い洋風の教会。あふれんばかりの日差しと花束が定番。

「ふん、結婚式の日、どしゃぶりだったらこんな満面の笑みできないでしょうにね。

ライスシャワーも無理だしね。おまけに花婿の元カノとかが現れて花嫁を睨みつけるなんて修羅場もあるんじゃないの」

と小憎らしい悪魔のようなささやきが胸をよぎる。

母の度重なる「いき遅れ」発言が小春を意地悪なOLに変貌させてしまったのか、小春はときどきネガティブな想像をするようになっていた。

たまに意地悪になる小春の顔が輝いて心が洗われたようになるのは竜樹と話す時だ。

「河合さん、この書類、総務部に回してくれるかな」

と背後から話しかけられでもすると、その日一日は背中がこそばゆいような幸せな気分になる。両肩に天使をおんぶしているんじゃないかと思えるほど嬉しい。

そんな日は結婚情報誌を開くと、モデルが自分と重なる。竜樹の腕の中で微笑む花嫁は小春だ。
ひたむきに竜樹の事を思っているのに竜樹は一度も誘ってくれない。じれている小春を母の鋭い言葉がいつも突き刺す。

「いき遅れるわよ。少しあわてなさい」

お昼時間、年齢は3つ下だが仕事では先輩の蓉子とお弁当を食べていた。蓉子が意味深な口調で話しかけてきた。

「小春さーん、30歳目前のときってどんな気分でした?私、来月誕生日なんですけど、なんかブルーっていうか、いき遅れちゃってるのかなあって悩んでるんです」

「蓉子さん、営業の石井さんと付き合ってるんでしょ。ブルーになる必要ないじゃない」

「でもね、プロポーズとかないし、このまま別れたらゼロベースにもどって、一から彼氏探しだから、いき遅れるでしょう」

「あのね、私はとっくに三十超えてて、彼氏いないんです。そんな私に質問するのおかしいでしょ。しかもいき遅れなんて古い言葉よ」

ちょっとむっとして小春は撥ね付けた。

「えー、小春さん、樋口竜樹さんと恋愛中って噂ですよ。残業の時なんかラブラブモードって」

心臓がドクっと動いた気がする。頬に熱風を当てられたように血の巡りが速くなった。事実ではないけれど噂がたつのは二人がそういう関係性を周囲にアピールしているからだ。
もしかすると竜樹は自分のことを好きなのかもしれない。希望が湧いた。そうなればいいと想像していたことを他人の言葉で聞くとこんなに心が躍るものなのか。

「ほらあ、赤くなった。まんざら嘘でもないんですね」

蓉子がウインナーを箸でクルクルっと回してみせた。

小春は竜樹を自分から誘う決心ができた。待っていてもしかたない。じれていてもいき遅れるだけなんだ。

シリウス

「樋口先輩、今度のお休みあいていませんか。プラネタリウム行きませんか。私、星を見ると癒されるんです」

直球のメールを送った。女性から誘う時は簡潔な誘いが一番だと、どこかの恋愛サイトで見たことがある。今まで竜樹を誘う自信がなかったが蓉子とのおしゃべりが背中を押してくれた。

夜、リビングで母と話しているときに返信が届いた。

「OK。実は僕は星座おたくなんだ(笑)」

小春は小さくガッツポーズをした。竜樹のパソコンを覗いたおかげで竜樹の趣味がわかったのだ。

「かあさん、もう、いき遅れなんて言わせないから」

母がきょとんとして老眼鏡をはずし、目を細めた。小春は足取り軽く2階の部屋に駆け込んで鏡をのぞいた。いつもよりずっときれいな自分が映った。

プラネタリウムは人気デートスポットというわけではないのだろう。休日なのにガランとしていた。親子連れが数組いるだけで、席は余裕で確保できた。

「河合さん、星座興味あるって知らなかったなあ。」

人が少ないので、小声でおしゃべりができる。

「あ、ほら、あれ春の冠座。地味だけど意外に分かりやすいだろ。好きな星座なんだ」

「お星さまの冠なんてロマンチックですね。竜樹先輩」

「え?名前で呼んでくれるの、じゃあ、小春さん、いつから星座に興味持ったの」

「竜樹先輩のスクリーンセーバー見たときからです」

暗闇の中でよく見えなかったが竜樹がまんざらでもないような表情で

「ミントキャンディーいつもありがとう」

と言った。

小春は3年間じらされたぶん、大胆に言葉を発した。竜樹の事を入社したときから気になっていたことも。

そして自分でも驚くほど竜樹をリードした。イタリアンを食べながら星の話をさんざんしたあと、小春からバーに誘った。あらかじめネットで「恋が成就する店」を探しておいたのだ。

カウンターに並んで腰掛け、バーテンダーに尋ねた。

「星の名前のカクテルありますか」

「シリウスとかアルビレオなどいかがですか」

竜樹はカウンターに身を乗り出すように前のめりになって喜んだ。

「シリウスいいね。きれいな星座だ。飲みたいな」

小春はそれほど強いわけではなかったが、シリウスをグラス半分飲んだ。ホワリと雲に乗っている気分になり、背が高い丸椅子から滑り落ちそうになった。

「おっと、テキーラベースだからけっこう来るよね」

竜樹がとっさに左手で小春を支えてくれた。体重を男の人にゆだねることはこんなに気持ちのいいものだったのか。学生時代の彼氏と別れてからもう十年近く男の人に寄りかかったことがない。

もちろんセックスもかなり昔の思い出。十年も経てば処女に戻れると思っていた。何人とも寝てしまう女性よりいいだろうと自分なりに納得していた。セックスに関心がないわけではない。好きでもない人と肌を合わせるのが苦手なのだ。
でも竜樹ならいい。3年間ずっと竜樹に抱かれる夢を見ていた。

「僕も酔っちゃったからどっかで休んで帰るか」

今まで小春がリードしてきたのに、最後の決め言葉が竜樹から出た。

小春は勝ったと思った。じっと思い続けていた自分に星の神様が勝利をプレゼントしてくれた。想像のセックスではなく現実に竜樹の胸に顔を埋めることができる。

竜樹のキスはミントの味がするのだろうか。小春は竜樹の目を見てコクンと頷いた。

ミントキャンディ

お酒を飲む男女

竜樹の顔が目の前に迫ると心の中を見透かされるようで怖かった。目をスっとそらした。前はセックスを楽しんでいたはずなのに、長いブランクが小春を縮こまらせた。

処女に戻れてラッキーじゃないと思ったのは強がりに過ぎなかった。身体がカチコチに緊張でこわばる。唇を噛み締めているので竜樹の舌が小春の唇の間でうまく動かない。ミントの味も何もわからない。

「どうした?怖い?」

竜樹が身体を離して小声で尋ねた。

「あ、あの、長いことこういうのしてないから…」

「ここまで来たらこうなるのわかってたよな。リラックスして。僕にまかせて」

小春は目を閉じてベッドに横たわった。意識して身体の力を抜いた。竜樹の指が小春のすべてをはぎ取る。最後の一枚をゆっくり足首から抜いたとき、あまりの恥ずかしさに両手で顔を覆った。

「小春ちゃん、恥ずかしがってかわいいね。」

竜樹は熱い息を小春のうなじに、下腹に吹きかけた。ミントではない、テキーラの香りだということがわかった。竜樹の息を感じる部分がジワジワあたたかくなる。こわばっていた小春の皮膚も神経もユラユラ緩む。
竜樹は星の名前を唱えながら小春にやさしく侵入してきた。

「ペテルギウス、アルビレオ、プリケルマ…」

聞いた事のない名前が星座になって小春の頭の中に焼き付けられる。身体中に星空が広がる。小春のすべてが一瞬ゆるみ、ゆるみを回復させるかのごとく大きな波のうねりが寄せて来る。まぶたの裏でたくさんの星がはじける。ゆるみは一本の銀河に変わり、突然、岩にぶつかった波のように渦を巻いて四方へ散らばった。

竜樹の熱い息がふーっと耳たぶにかかる。憧れていた竜樹のすべてを手に入れた。小春はつぶやいた。

「カペラ、プロプス、ポラリス…」

竜樹は何も言わず、寝息をたてていた。

翌日、机にミントキャンディを置きに行くと、竜樹は同僚と書類を見ながら話していた。小春に見向きもせず。小春と同じように照れているのかと思い、メールを入れた。

「明日夜、会えますか」

「今月いっぱいは忙しいから夜は無理」

とそっけない返信。その時から小春のじれる日々がまた再開した。会社で眼を合わせようとしない。残業をしていてもココアを買って来てくれない。

翌月になって、メールをしてもスルリと交わされた。この頃からまた母の「いき遅れ」発言にあからさまにキレるようになった。

とうとう出社時刻に待ち伏せをした。

「竜樹先輩、どうして避けるの?あの夜は何だったんですか」

竜樹は空を見上げてぼそっと言った。

「ごめん、いわゆる好奇心でつい。付き合うつもりはなかったんだ。星の話はしてみたかったし。ま、誰かいい奴いたら紹介するから、待ってて。じゃ」

身体中の関節が全部固まったように立ちすくんだ。腕も膝も曲がらないほどショックを受けた。何がいけなかったの。きれいな星空が見えるすてきなセックスだったじゃない。

男の人って好奇心でセックスできるものなの。男なんてもう信じない。腕をダラリとたらしたまま空を見上げると一番星が光った。

「ほら、またいき遅れた」

母の意地悪そうな顔がまた家で待っている。
小春はミントキャンディをバッグから出して口に放りこんだ。

涙がにじんだのはミントのせいだと思った。


END

今、人気・注目のタグ<よく検索されるワード集>(別サイト)

あらすじ

小春はいつも気にかけてくれる先輩の竜樹が気になっていた。
しかし、二人で食事に行くこともなく小春は30歳を過ぎていた。
ある日竜樹と付き合っているという噂が流れていることを知った小春は、デートに誘うことを決心する…。

公開中のエピソード 全67話公開中
三松真由美
三松真由美

恋人・夫婦仲相談所 所長 (すずね所長)・執筆家…

カテゴリ一覧

官能小説