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官能小説 半分だけ、許してあげる


半分だけ、許してあげる

眩しい、というよりは、白々しい光だった。

瞼の裏側に刺さるようなその明るさが、私の意識を容赦なく現実へと引きずり戻す。
最初に感じたのは、頬に触れるシーツの、見たこともないほど上質なコットンの滑らかさだった。

「やってしまった…………ここ、どこよ……」

思わず口から出た声はひどく掠れていた。
昨夜の記憶を必死に手繰り寄せようとしても、記憶はぷっつりと断線している。

喉が焼きつくように乾いている。重い頭を持ち上げて周囲を見回すと、そこは静まり返った広すぎる部屋だった。
無機質でモダンなインテリア、大きな窓から差し込む朝の光。

ベッドサイドには、丁寧に畳まれた私の服。
居酒屋の匂いは消え、独創的なサンダルウッドの香りと、微かな消臭スプレーの残り香がした。

(……わざわざ、スプレーして乾かしたの?)

その徹底した几帳面さに、背筋が少し寒くなる。
でも同時に、その執拗なまでの『整え方』に、どこか懐かしいような、強烈な既視感があって胸がざわついた。

時刻は、午前六時を少し回ったところだった。スマホのマップを開けば、そこは代官山の高級マンション。
日曜日でなければ、私は今頃発狂していただろう。この静まり返った街路を、誰のものかもわからない匂いを纏って歩いている事実。
それは、まるで世界がバグを起こしたような、奇妙な解放感と裏腹の恐怖を私に与えていた。

アパートへ帰り着き、シャツを脱ぎ捨てたとき、カサリと音がした。ポケットに入っていたのは、深夜二時過ぎのコンビニの領収書。
品目は、ミネラルウォーター、栄養ドリンク、そして――モナカアイス。レシートを裏返すと、そこには殴り書きされた文字があった。

『鍵、返しに来いよな!』

その文字を見た瞬間、私の心臓が嫌な跳ね方をした。

「……え……?」

力強くて、少し右上がりの、どこか乱暴でいて癖のある字。
何度も仕事のメモや提出書類で見せつけられた、私の脳裏に焼きついて離れない『あの男』の筆跡そのものだったからだ。
昨夜の断片的な記憶が、文字の筆跡と重なって急激に蘇ってくる。

(鍵って……嘘でしょ……!?)

嫌な予感に背中を冷や汗が伝う。

私は慌ててカバンのサイドポケットを探った。
奥まで指を突っ込むと、いつの間に忍ばされたのか、見知らぬキーホルダーのついた重厚な鍵が指先に触れた。
冷たい金属の重みが、手のひらにずっしりと乗る。

あいつだ。

昨夜、泥酔した私を抱き上げ、あの静かな部屋へ連れていき、ベッドに寝かせたのは――三年前、何も言わずに姿を消した佐伯だったんだ。

ふと、スマホが震えた。登録されていない番号からのショートメッセージ。

『アイス、半分やる前に寝ちゃったから俺が食ったわ。領収書、経費になんないから返さなくていいよ。じゃあね』

「……なんなのよ、一体……!」

怒りと困惑で頭がどうにかなりそうだった。メッセージの文面はどこまでも軽くて、私を愚弄するようなニュアンスに満ちている。
だけど、この独特な言い回しも、人を食ったような態度も、全部あの男のものだ。

結局、その日は一歩も外に出ることができなかった。

脱ぎ捨てた服の脇に座り込み、スマホを手に取っては閉じ、メッセージの画面を見つめる。

悶々とした気持ちが限界に達した夕暮れ時、私は胸の中の確信を裏付けるように検索エンジンを開き、ずっと心の奥底に閉じ込めていた『あの名前』を打ち込んだ。

検索ボタンを押す指が震える。

ヒットしたのは、ある大手ITコンサルティング会社の役員名簿だった。

そこに映っていたのは、洗練されたスーツを完璧に着こなし、自信に満ちた笑みを浮かべる男の姿。

――佐伯 慶介。

「佐伯……? 役員……? 三年間で、ここまで……?」

あいつは、私の知らない場所で、圧倒的なスピードで遠くへ行ってしまっていたのだ。

さらに彼のSNSのアカウントを辿ると、今日の午前七時の投稿が見つかった。

『日曜の朝から羽田。三日間ほどシンガポールへ。アイス食い損ねたのが心残り』

添えられた写真には、朝日に照らされる滑走路と飛行機。

あの文字の主。昨夜、私を助け、あの部屋に運び、レシートに殴り書きを残した男。
それは他でもない、三年間、何も言わずに私の前から突然姿を消した佐伯だったのだ。

「……バカじゃないの!?」

スマホを見ているヒロイン

画面を睨みつけながら、ぽつりと呟く。

昨夜のあの声も、あのサンダルウッドの香りも、あの執拗なまでの几帳面さも、そしてレシートの裏のあの文字も。

全部あいつだったのだと理解した瞬間、全身の血が逆流するような衝撃が走った。
あいつは、私をあの部屋に放置したまま、平然と海外出張へ飛び立っていたのだ。

「アイス食い損ねたって……私が寝たからでしょ……!?」

画面の文字を追うほどに、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

三年間、私はずっと「捨てられた」と思って生きてきた。あいつのことなんて忘れたと、自分に嘘をつき続けてきた。
だけど、画面の中の佐伯を見た瞬間、理解してしまったのだ。私は一度たりとも、あいつを忘れたことなんてなかった。

どんなに仕事を頑張っても、どんなに平穏な日常を手に入れても、私の心の真ん中にはずっと佐伯が居座っていたのだと。

それから三日間、私はその「鍵」に振り回され続けていた。

仕事中も、デスクの引き出しやカバンの奥で鍵に触れるたび、理屈っぽい言い訳を脳内で並べていた。
『郵送で送り返せばいい』『マンションのコンシェルジュに預ければ終わる話だ』『もう二度と会う必要なんてない』

そう自分に言い聞かせるのに、なぜか郵送の準備をする気にはなれなかった。

本当は分かっていたのだ。

あの夜、自分を抱き上げた腕の熱さを思い出して、三年間守り通した自分の「平穏」を投げ打ってでも、もう一度あいつに会いたがっている自分に。

「私、どうしちゃったんだろう……」

自分でも経験したことがないくらい、支離滅裂で、激しい感情。

佐伯の存在を自覚してからというもの、頭の中があいつのことでいっぱいだった。
悔しくて、嫌で、でも――もしまた会えるなら、今度は何を話せばいいんだろう? そんな期待を抱いてしまう自分が、たまらなく怖くて、そして愛おしかった。

四日目の木曜日。今にも雨が降り出しそうな、薄暗い夕暮れ時だった。

会社からの帰り道、最寄り駅の改札を出た瞬間、私の足がぴたりと止まった。
視線の先、人混みの中で、駅の壁に背を預けてスマホを弄っている男がいた。

仕立ての良いネイビーのステンカラーコート。少し長めの黒髪。
通り過ぎる女性たちが思わず振り返るほどの、際立った佇まい。
見覚えがありすぎて、心臓が喉の奥まで跳ね上がった。

(なんで……ここに……!?)

逃げ出そうか、それとも声をかけようか。足がすくんで動けないでいると、視線に気づいた男がゆっくりと顔を上げた。
目が合った瞬間、佐伯の唇がニヤリと吊り上がった。獲物を見つけた猛獣のような、不敵で傲慢な笑み。
だが、その瞳の奥を一瞬だけ揺らしたのは、安堵と熱を帯びた光だった。

(……待っててくれたの?)

佐伯はポケットに手を突っ込んだまま、大股でこちらへ歩み寄ってきた。

「お疲れ。四日も経てば、さすがに記憶戻った?」

開口一番、それだ。

反省の色なんて微塵もない、いつもの人を食ったような態度。
私は溢れ出しそうになる動揺を必死で抑え込み、睨みつけるように言い返した。

「……なんで、ここにいんのよ。シンガポールは?」

「さっき帰ってきた。成田から直行」

「は? 直行って……家帰りなさいよ!」

「お前に会いに来たんだよ。……っていうか、俺、行く先なんてお前に言ったっけ? へえ。わざわざ調べたんだ。俺のこと、そんなに気になってた?」

「っ……!」

顔が一気に熱くなるのが分かった。痛いところを突かれて、私は動揺を隠すように早口でまくしたてた。

「か、勘違いしないでよ! 忘れ物の中身を確認するために調べただけ! 勝手に消えた奴が、どの面下げてここに立ってんのよ! 三年間も、連絡ひとつ寄越さなかったくせに!」

自分でも驚くほど、感情的な声が出た。隠していた怒りと、寂しさと、情けなさが全部混ざって弾けたようだった。
だが、佐伯は怒るどころか、どこか楽しそうに目を細めた。ふいっと顔を近づけてきて、私の耳元で低く囁く。

ヒロインへ顔を近づけてきて囁く佐伯

「……お前、耳真っ赤だけど。大丈夫そ?」

「〜〜〜っ! うるさい!」

「調べたって認めりゃいいのに。相変わらず、かわいくねえ言い訳」

佐伯は呆れたように、でも心底愛おしそうな顔で苦笑した。

(なんなのよ、その顔……!)

佐伯の胸の中は、実は限界を迎えていた。

本当は今すぐヒロインを強く抱きしめて、三年間溜め込んだ想いをすべて吐き出したかったのだ。

『お前に見合う男になるために必死だった』『もう絶対に離さない』と、喉まで出かかった本音を必死で押し殺していた。

今、下手に本心を明かせば、警戒心の強い彼女は逃げてしまう。

だからあえて『昔通りの不躾な同期』を演じていた。

だけど、自分の一言で耳を赤くして強がるヒロインが、可愛くて可愛くて仕方がなかった。

自分のものにしたい。誰にも渡したくない。

その猛烈な独占欲を隠すように、佐伯は私の手をぐいっと強引に握り直した。

「ちょっと、離してよ……!」

手を開こうとしても、佐伯の大きな手がそれを許さない。指と指がしっかりと組み合わさる。

「離さねえよ。……三年前、急に消えて悪かった。当時の俺には何もなくて、お前を隣に連れて歩く自信も余裕もなかったんだよ。だから無一文からやり直すつもりで飛び出した。……お前に一言も告げずに逃げた俺を、お前が許せるわけないってのも分かってた」

「佐伯……」

「……バカじゃないの」

声が震えた。

「連絡ひとつ寄越さずに、鍵なんか残して……! なんでこんな、私を惑わせるような真似したのよ。その上、なんで勝手にここで待ってんのよ……!」

「待てるわけねえだろ。……本当は、お前が俺の家に鍵を返しに来るのを待つはずだった。でも耐え切れなくなって俺から来ちゃったんだよ」

佐伯は照れ隠しのようにふいっと視線を逸らすと、繋いだ手に少しだけ力を込めた。

「お前が郵送もコンシェルジュに預けることもせず、その鍵を持ち歩いて悩んでくれてるなら……俺が直接会いに行けば、逃げずに捕まってくれるんじゃないかって賭けたんだ」

まっすぐに見つめてくる黒い瞳。

そこには、今まで見たこともないほど不器用で、必死な熱が宿っていた。

あいつは、私の意思で鍵を持ち歩いて悩んでくれていることに賭けて、待ちきれずに自分の足で私を追っかけてきたのだ。

「お前が自分の意志で俺に会いに来るのを、直接確かめたかったからに決まってんだろ」

佐伯は少しだけ力を込めて、私の手をさらに強く握り直した。

「それに、俺が返してほしいのは鍵じゃない。アイス。半分やる前に寝た奴のせいで、責任取れよ」

「……半分でいいの?」

「いや、今日は一箱買って、お前の部屋でパキッとやるまで帰らない」

「……は? 一箱? お腹壊すわよ。っていうか、一箱くらい当時だって買えたでしょ。どんだけ夢が小さいのよ」

不愛想な態度を取りつつも、胸の奥から溢れ出す温かい感情を、私はもう止められなくなっていた。

佐伯はふんぞり返って言い返した。

「金額の問題じゃねえよ。『精神的な贅沢』の話をしてるんだ。……じゃあ、一袋。その代わり、一番いいやつ選ばせろよ」

「はいはい、わかったから」

私はカバンの中から、ずっと握りしめていた鍵を取り出した。

自分の体温ですっかり温まった重厚な鍵を、彼の掌にそっと重ねるようにして押し付ける。

佐伯は一瞬、その異常な熱さに驚いたように眉を上げたが、やがて、その熱を閉じ込めるみたいに強く拳を握り込んだ。

そして、少しだけ泣き出しそうなのを堪えているような、愛おしくてたまらないという顔で笑った。

「……鍵は確かに返った。でも、その熱の分だけ、俺を許したってことでいいんだよな?」

あまりにも真っ直ぐな言葉。

三年間の孤独も、置き去りにされた憤りも、あいつのこの不器用で情熱的な温もりに触れた瞬間、じんわりと溶けて消えていく。

自分でもこんな感情、経験したことがなかった。

悔しくて、愛おしくて、照れくさくて、どうしたらいいのか分からない。

でも――佐伯とこうして軽口を叩き合えているこの時間が、愛おしくてたまらない。

この時間が、ずっと続けばいいのに。

私は素直になれない自分を誤魔化すように、ぷいっと顔を背けた。

「……さあ、それはどうだろうね。あなたの勝手な解釈に付き合ってあげる義理はないんだけど。……でも、アイス。一番高いやつ奢るなら、検討してあげなくもないわよ。代官山のセレブなんだから」

精一杯の強がりとツンツンした態度。

佐伯はそれを全部お見通しだと言わんばかりの顔で、「了解。じゃあ、まずはコンビニだな」と、嬉しそうに笑った。

ぽつぽつと、雨が降り出してきた。

佐伯は折りたたみ傘を開くと、私をすっぽりと傘の中に入れ込んだ。

肩と肩が触れ合う距離。

ふと気づくと、佐伯の歩幅が、昔と同じように、私の少し短い歩幅に合わせて小さくなっていた。

「あの夜の続き」をあえて何も語らないあいつの余裕。

私が本当は最初からあいつを許したくてたまらなかったという「最悪な勘違い(本当のこと)」が暴かれる日は近そうだけれど。

でも、一度は途切れてしまった二人の時間が、今こうして同じ熱量で動き出したのだと実感していた。

つないだ手から伝わる温もりも、雨の匂いも、ぜんぶが愛おしい。

今夜のアイスだけは、私の意志で『半分』を捧げていいような気がしていた。

明日も、明後日も、ずっとこんな日々が続けばいいのに。

私は心の中で、かつての自分なら考えられないような仕事人間失格の甘い願いを抱きながら、繋がれた佐伯の手を、少しだけ強く握り返した。

END

あらすじ

三年前に姿を消した彼がエリート役員に!?
残された合鍵から始まる、素直になれない大人の再会ラブストーリー。

公開中のエピソード 全100話公開中
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