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官能小説 薬指の先行エントリー
薬指の先行エントリー
「………………………………」
画面いっぱいに並んだ点のような沈黙を見つめながら、私は小さく息を吐いた。
婚活を始めて二年半、結婚相談所に入会してからも一年近くが過ぎたというのに、成果と呼べるものは何ひとつない。
ランチ休憩の終わりかけ、何気なく開いた会員ページに表示された文字が、容赦なく視界に刺さる。
《仮交際終了のご連絡》
覚悟していたはずなのに、胸の奥がひりつく。
慣れたふりをすることには慣れても、終わりそのものに慣れることはないらしい。
「……仮交際終了、か」
溜め込んでいた疲れが、そのまま音になって零れ落ちた。
「……仮交際?」
低く、淡々とした声がすぐ隣から返ってきて、心臓が大きく跳ねる。
顔を上げると、相席になっていた同じ会社の神谷湊が、無表情のままこちらを見ていた。
よりによって、彼に聞かれるなんて。
言い訳を探す余裕もなく、「結婚相談所です」と正直に告げると、ほんのわずかな沈黙のあと、彼は静かに言った。
「真剣なんですね」
からかうでもなく、気を遣うでもなく、ただ事実を受け止めるような声音。
その一言が、思いがけず胸の奥を温める。
真剣でいることを、これまで何度も遠回しに否定されてきた。
もっと気楽でいいのに、重いよ、と笑われたこともある。
それでも私は、将来を見据えた恋愛がしたかっただけなのに。
否定されないことが、こんなにも救いになるなんて思わなかった。
「僕も、登録しようと思ってて」
ふいに続いた言葉に視線を上げると、神谷はわずかに目を逸らしながら、「軽い付き合い、向いてないんで」と付け加えた。
その横顔には、踏み込めば壊してしまいそうな静けさがあって、何があったのかと尋ねたい衝動をどうにか飲み込む。
代わりに、自分の弱さが口をついた。
「私、条件で落とされるんです」
年齢や将来設計や、なんとなくの相性。はっきりした理由を告げられることは少ないけれど、“総合的に合わない”という曖昧な言葉の裏にあるのは、選ばれなかったという事実だ。
やんわりと断られるたびに、自分の価値が少しずつ削れていくような気がする。
神谷はしばらく黙り込んだあと、ゆっくりとこちらを見た。
「じゃあ」
その視線から逃げられない。
「僕も、検討してもらえますか」
冗談みたいな言い方なのに、目は少しも笑っていない。
「まだ会員じゃないですけど。先行エントリーで」
思わず吹き出してしまったけれど、その言葉は午後になっても胸のどこかに残り続けていた。
デスクに戻り、画面に並ぶ求人情報を眺めながら、私は妙な皮肉を噛みしめる。
仕事では条件で人を選ぶ立場にいるのに、恋愛では条件で落とされる側である自分がいる。
キーボードに置いた指が何度も止まり、ふと感じた視線に顔を上げると、少し離れた席の神谷と目が合った。
すぐに逸らされたその仕草が、かえって胸をざわつかせる。
意識しているのは自分だけではないのかもしれないという淡い期待が、静かに灯ってしまう。
選ばれるかどうかではなく、選びたいかどうかで誰かを考えたのは、いつぶりだろう。
その問いが胸に残ったまま、定時のチャイムが鳴った。
荷物をまとめて立ち上がり、どこか落ち着かない足取りでエレベーターへ向かう。
早く帰って冷たいビールを飲んで、今日のことを忘れてしまおうと思った、そのとき。
「早いですね」
背後から落ちた低い声に足が止まる。
振り返ると、ネクタイを少し緩めた神谷が立っていて、昼間よりもわずかに和らいだ表情でこちらを見ていた。
一緒に乗り込んだエレベーターの扉が閉まると、狭い空間に二人きりになる。
静まり返った箱の中で、彼の体温がすぐ近くにあることを意識してしまい、呼吸が浅くなる。
「今日の話」
神谷が静かに口を開く。
「冗談じゃないですから」
その言葉と同時に、そっと左手を取られる。
驚きに息を呑む私の指先に、彼の指が重なる。

薬指へ、ゆっくりと。
指輪をはめる場所を、確かめるように。
親指が静かにその位置をなぞるたび、薄い皮膚の奥で鼓動が跳ねる。
触れられているのは指先だけなのに、呼吸まで乱されていく。
神谷の視線が、私の左薬指で止まる。
「そこ、空いてますよね」
問いかける声が低く落ちる。
「空いてます」
かろうじて答えると、神谷はほんの少しだけ笑った。
「僕、そこに入るつもりで登録します」
距離が詰まり、背中がエレベーターの壁に触れる。
逃げ場のない近さなのに、不思議と怖くない。
むしろ、このまま掴まっていたいと思ってしまう。
「美月さん」
名前を呼ばれるだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「もう仮交際とか、段階踏むのやめたい」
絡められた指が、もう一度薬指をなぞる。
「あなたが真剣なら、僕も最初から本気でいきます」
それは宣言で、同時に懇願のようにも聞こえた。
静かな箱の中で、二人の呼吸だけが重なる。
神谷の指が、私の薬指の根元で止まる。
「……ここ」
少しだけ重くなった声が落ちる。
「予約していいですか」
その言い方があまりにもまっすぐで、あまりにも甘くて、胸がいっぱいになる。
エレベーターが一階に着く直前、神谷の額がそっと私のそれに触れた。
ほんの一瞬なのに、そこから熱が広がり、離れても消えない。
「急がなくていい。でも」
吐息のような声が耳元に落ちる。
「僕から離れるのは、たぶん難しいと思いますよ」
扉が開き、外の空気が流れ込む。
先に降りた神谷が振り返り、静かに手を差し出した。
「真剣なんですよね」
あのときと同じ言葉なのに、今はどこか優しく甘い。
選ばれたいのではない。
私が選びたいのだと、ようやく分かる。
薬指に残る熱を確かめるように、私はその手を取った。
その瞬間、未来がほんの少しだけ、現実味を帯びた気がした。
END
あらすじ
仮交際終了の連絡に傷つく美月の薬指を奪いに来たのは、意外な同僚…!?









