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官能小説 シルバーリングの境界線


シルバーリングの境界線

夜の窓ガラスに、残業中のどことなく疲れた顔がぼんやりと映り込んでいる。

首から下げた社員証にある「井上澄香」という名前は、入社当時よりも少しだけ重みを増した気がする。

二十八歳、社会人六年目。

仕事の手際は良くなり、後輩への指導も板についてきた。

週末になれば精力的に外出し、自分への投資も惜しまない。
公私ともに充実した「自立した女性」――そんな仮面を被りながら、私は今日も、心の奥にあるたった一つの空白をごまかし続けている。

「井上さん、例の企画書なんだけど」

「あ、はい! 高瀬さん、修正箇所でしょうか」

デスク越しに名前を呼ばれ、私は弾かれたように顔を上げた。

視線の先にいるのは、直属の上司である高瀬浩一。
三十四歳という若さで今のポストを任された彼は、柔和な物腰の中に鋭い知性を秘めた、理想的な上司だ。

「ここ、視点はいいんだけどデータが少し古いかな。前回の会議資料を参考にしてみて」

「承知しました。すぐに直します!」

キーボードを叩く、彼の骨張った男らしい手。

難しい案件を前にした時、考え込むように眉間に寄る深いシワ。

そして、ふとした瞬間に私へ向けられる、優しい眼差し。

そのすべてに、どうしようもなく惹かれている。
けれど、この想いは決して口には出せない。

理由は、誰の目にも一目瞭然。
デスクライトの光を弾いて冷ややかに輝く、彼の左手薬指のシルバーリングの存在だ。

『あんなに素敵な人だもん。奥さんがいて当然だよね……』

どれだけ公私ともに充実していても埋まらない穴。

あの指輪は、私にとって決して越えられない「銀色の境界線」だった。

***

プロジェクトの打ち上げ帰り。
二次会への流れから外れた私と高瀬さんは、駅へと続く夜道を二人で歩いていた。

春の夜風が、火照った頬に心地いい。

「ふぅ、今日はちょっと飲みすぎたかな」

高瀬さんがネクタイを少し緩め、夜空を見上げた。
いつもは仕事の話に終始する帰り道だが、アルコールのおかげか、今日の空気はどこか柔らかい。

「高瀬さん、お家の方は大丈夫なんですか? こんな時間まで」

つい、意地悪な聞き方になってしまったかもしれない。

けれど高瀬さんは不思議そうな顔をして、それから自分の左手を見て苦笑いした。

「ああ、これか。……期待を裏切るようで悪いんだけど、これ『嘘』なんだよ」

「え……? 嘘、ですか?」

「若い頃、取引先から『身を固めてない男は信用ならん』とか言われてね。あとはまあ、仕事に集中したい時期に変な誘いを受けないための魔除け、みたいな?」

高瀬さんは照れくさそうに指輪に触れた。

「外すタイミングを逃してそのままにしてるけど、……ずっと、ただの飾りだよ」

私の中で、何かのスイッチが切り替わる音がした。

奥さんはいない。ずっと一人。
つまり、この素敵な上司は、フリーだということ。

私は足を止めた。行動力なら誰にも負けない。
ここで動かなければ、いつ動くというのだ。

「……高瀬さん」

呼びかける声が、自分でも驚くほど震えていた。
ドキドキと早鐘を打つ鼓動が、喉元までせり上がってくる。
冷たい夜風が吹いているはずなのに、体中が熱い。

六年間、憧れという名の檻に閉じ込めていた想いが、一気に解き放たれようとしていた。
私は溢れ出しそうな熱量を落ち着かせるように、ぎゅっと拳を握りしめ、驚いた顔でこちらを振り向く彼をまっすぐに見据えた。

「ん?」

「それなら私、これから遠慮なくアプローチしますから。覚悟しておいてくださいね」

高瀬さんが、ぽかんと口を開けた。

普段の冷静な彼からは想像もできない、間の抜けた顔。
それがおかしくて、愛おしくて、私は一歩、彼との距離を詰めた。

「本気ですよ? 私、ずっと高瀬さんのことが……」

「――井上」

不意に名前を呼ばれ、私の手首が引かれた。
よろめいた体は、そのまま高瀬さんの広い胸の中に収まっていた。

「た、高瀬さ……」

「……参ったな。そんな真っ直ぐな目で見られたら、調子が狂う」

耳元で響く低い声。高瀬さんの腕が私の背中に回り、ギュッと抱きしめられる。
スーツ越しに伝わる体温と、微かなムスクの香りに、頭がクラクラした。

彼が体を離し、至近距離で私を見つめる。
その瞳は、上司のそれではなく、完全に「男」の熱を帯びていた。

顔が近づく。

『あ、キスされる……』

高瀬に今にもキスされそうな澄香

自然と瞳を閉じた、その時だった。

すぐ横の車道を大型トラックが駆け抜け、クラクションが鳴り響いた。
二人の間の甘い空気が、その音によって容赦なく切り裂かれる。

「っ……!」

二人の体が弾かれたように離れた。

我に返った高瀬さんが、口元を手で覆い、気まずそうに視線を泳がせている。
私も顔から火が出そうだ。恥ずかしいけれど、寸前で止まってしまったことが残念でならない。

「……惜しかったです」

私が唇を尖らせて呟くと、高瀬さんは赤くなった顔を隠すように首筋を掻き、困ったような、それでいてひどく優しい眼差しを私に向けた。

「……すまない。つい、我を忘れた」

「こういう時は忘れたままでいいんですけどね」

ふてくされるような口調で言った後、気を取り直して彼を見上げる。

「えっと、まずは二人で食事に行きませんか? 行ってみたいお店があるんです」

「……仕事の話は抜きで?」

「当たり前です。デートのお誘いなんですから」

私がいたずらっぽく微笑むと、高瀬さんは降参したように両手を上げた。

「……分かった。お手柔らかに頼むよ、と言いたいところだけど」

高瀬さんはふっと目を細め、上司ではない、少し意地悪な男の顔で私を見下ろした。

「いつまでも、僕が受け身でいるとは思わないことだね」

今度は、私の心臓が大きく跳ねる番だった。

駅の改札前。
人混みの中へ消えていく彼の背中は、昨日までよりずっと大きく、そして熱を帯びて見えた。

「よーし頑張るぞ!」

私は夜空に向かって、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟くと、軽やかな足取りで駅のホームへと向かった。

END

あらすじ

銀色の指輪が隔てた二人の距離。
重なる体温に、境界線が溶けていく…

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