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官能小説 彼専属抱き枕
彼専属抱き枕
アスファルトに落ちた街灯の光を一台の自転車が切り裂いていく。
時刻は深夜二時。
居酒屋でのアルバイトを終えた西脇可南は、居酒屋特有の油の匂いと喧騒を背負ったまま重いペダルを漕いでいた。
大学の学費と生活費を稼ぐために、毎日深夜の居酒屋でアルバイト三昧。
明日も一限から講義があると思うとため息が出る。
早く帰ってシャワーを浴びて、とっとと寝たい。
そんなことを考えながら走っていると、前方に頼りなく揺れる影が見えた。
千鳥足というにはあまりに力がない。
酔っ払いだろうか。
可南は速度を落とさずその横を通り過ぎようとした。
この辺りは飲み屋街なので、こういった手合いが多くいる。
ゴミの山をベッドにして寝ているサラリーマンや、自動販売機の間に挟まって寝ている若者なんて掃いて捨てるほど見てきた。
刹那、影が崩れる。
音もなく男が歩道に膝をつきそのままゆっくりと横倒しになった。
「……ちょっと、大丈夫?」
ただの酔っぱらいではない気がして、可南は自転車を止めて駆け寄った。
街灯の下に晒された男の顔は血の気が引いていて驚くほど白い。
「……あ?」
男は薄く目を開けた。目の下には深い隈が刻まれ頬は削げている。
けれど向けられた視線には不遜な鋭さがあった。
ぎょろりとした目にねめつけられ、可南は少しだけ臆する。
「救急車、呼びます?」
「いらねぇ。ただの寝不足だ」
年の頃は可南より少し年上といった感じだが、あまりの顔色の悪さと目の下の隈で、うんと年上にも見えなくはない。
「寝不足で道端に倒れる人、初めて見たわ」
可南は少し呆れながら近くの自販機で冷えた水を買い、男の口元に寄せる。
男は微かに舌打ちしつつも震える手でそれを受け取り、喉を鳴らした。
「……頼んでないけどな。……まあ、助かったよ」
「素直じゃないのね。歩ける?」
「ああ、大丈夫だ」
男は気怠げに息を吐く。
ふらふらと立ち上がった彼は折れてしまいそうなほど細いが、そのプライドの高そうな横顔には大人の男特有の凄みがあった。
可南は「気をつけてね」とだけ残して再び自転車に跨った。
***
それから数日間、可南は同じ道でふらつく男をアルバイト帰りに何度も目撃し、ほどなくして完全に倒れている彼を発見した。
「……また倒れてる」
自転車を放り出して駆け寄ると、男は虚ろな目で可南を見上げた。
「また、お前か」
「こんなところで寝たら身ぐるみを剥がされるわよ。ほら、立って」
何となく放っておけない気になるのは、今にも折れそうな華奢な体のせいだろうか。
それとも年上のはずなのに、何だか頼りない気がするせいだろうか。
可南が腕を引いて無理やり立たせ、自分の肩を貸す。
その瞬間だった。男の動きがピタリと止まる。
「……」
彼が前触れもなく、可南の首筋に顔を埋めた。
すうっ、と空気をすべて吸い込むような深い音が耳元で響く。
「ちょっと、なにするの」
「お前の匂い……すげぇ、いい」
男の腕にギリッと力がこもった。
逃げられないように可南の腰を強く抱き寄せ、首筋から耳の後ろにかけて鼻先を滑らせる。
執拗に匂いを嗅ぐ熱い呼気が肌に触れ、可南の背筋にゾクッとしたものが走った。
「やめっ……離して!」
「五万やる」
「は?」
「今晩、俺の横で寝ろ。五万出す。何もしないし触らない。ただお前の匂いを嗅がせろ」
イカれてる。
そう突き放そうとした可南の脳裏に、アパートで異音を立てている年代物の冷蔵庫が浮かんだ。五万あれば新しいのが買える。
突然の大金を前にして、理性と物欲の間で心が激しく揺れ動いた。
「……何もしないって、約束するなら」
その言葉を口にした瞬間、張り詰めていた理性の糸がぷつりと切れた。
目の前に差し出された「五万円」という魔法のような誘惑に、彼女のささやかなプライドはあっけなく屈してしまったのだ。
背に腹は代えられない。可南が覚悟を決めた瞬間、男の口角が歪な弧を描いた。
男の家は都心の喧騒を眼下に見下ろす、想像を絶する高級マンションの最上階だった。
広すぎるリビングには生活感が希薄で、モデルルームのように静まり返っている。
『私、五万円につられて、こんな所までホイホイついてきちゃって……何をされるか分からないのに』
豪華すぎる非日常の空間に、可南は今更ながら激しい不安に襲われた。
引き返すべきか。そう迷って足を踏みとどまらせた瞬間、無言で男に手首を引かれた。
「こっちだ」
そのまま広い寝室へと連行される。
部屋の真ん中には、一人で寝るにはあまりに巨大なキングサイズのベッドが鎮座していた。
男は躊躇う可南をベッドへと引きずり込むと、そのまま覆い被さるように腕の中に閉じ込めた。
「あっ、ちょっと……!」
『嘘、何もしないって言ったのに……!』
可南が恐怖でギュッと目を閉じ、身を強張らせたその時だった。
男はそれ以上手を出してくることはなく、ただ可南の首筋にすっぽりと顔を埋めた。
そして、鼻先を柔らかな肌にすりすりと擦り寄せながら、深く匂いを嗅ぎ始めた。
「……はぁ。すげぇ、いい匂い……」
すうっ、すうっ……と、貪るように可南の匂いを吸い込む深い音が耳元で響く。
しかし、数分もしないうちにその動きがピタリと止まった。
男の体からスッと力が抜け、代わりに『すぅ、すぅ』と規則正しく穏やかな寝息が聞こえてくる。
「……え?」
恐る恐る目を開けると、男はただ可南を抱き枕としてホールドしたまま、泥のように深い眠りに落ちていた。
「……本当に、寝ちゃった」
呆気にとられた可南の呟きは、静かな寝室に吸い込まれて消えた。
お腹に回された男の両腕は、眠りに落ちて意識がないはずなのに、しっかりとしていて抜け出せそうにない。
「あー、お風呂……入りたかったな」
男の寝息に同調するように、可南の意識も徐々に微睡んでいく。
仕事の疲れも相まって可南もすぐに眠りへと落ちていった。
***
翌朝、可南が目を覚ますと、すでにベッドに男の姿はなかった。自分の体を見て、衣類の乱れがない事を確認すると、ホッと胸をなでおろす。
寝ぼけた目をこすりながらコーヒーの匂いのする方へと進み、ドアをあける。
リビングキッチンのカウンターに座ってコーヒーを飲みながらスマホを見ている男には、昨日までの死人のような影はない。血色の戻った肌は滑らかで、ふてぶてしく足を組んで座るその姿には、傲慢な大人の男特有の凄みと色気が満ちていた。
「……やっと起きたか。雇い主より遅く起きるとはいい度胸だな」
「よく言うわよ、結局最後まで離してくれなかったくせに。おかげで体がバキバキよ」
テーブルに投げ出された札束から、五枚だけ抜き取ると、残りを突っ返す。
「俺は、彗。二十七歳。お前と会った通り沿いにあるバーでバーテンダーをしてる。仕事は大体毎日二時ごろまで」
「はぁ……ご丁寧にどうも?」
突然の自己紹介に可南は目を丸くし、気の抜けた返事を返す。
「お前は?」
「私……? 可南だけど……あの近くの居酒屋でバイトしてる。シフトによるけど、遅くても二時までにしてもらってる」
胡乱げな目を向けると、男――彗は嬉しそうに目元を緩ませる。
「お前の匂いのおかげで、数年ぶりに熟睡できた」
「それは、よかったわね」
首の後ろを思い切り吸い込まれた感覚を思い出して、可南は首の後ろに手を回し、顔をそむける。
彗は可南を射抜くように見つめ、有無を言わせない絶対的なトーンで告げた。
「お前、俺の専属抱き枕になれよ。月20万出す。……もちろん今日同様に手は出さない」
「はぁ?! 20って……、あんたバカなの?」
「金なら腐るほどある。見るからに苦学生のお前にとって悪い話じゃないと思うんだが?」
痛いところを突かれ、可南は言葉に詰まる。
たしかに、アパートで異音を立てている年代物の冷蔵庫や洗濯機、学費のために深夜まで身を粉にして働く日々を思えば、お金はあるに越したことはない。
それに昨夜、この男が本当に『ただ匂いを嗅いで寝ただけ』だったのも事実だ。
「……ちょっとでも嫌な事したら終わりだからね?」
「もちろん、神に誓うよ」
ニヤリと嗤う彗に底知れぬ恐怖を感じつつも、可南は提示された金額の重みに抗うことはできなかった。
***
それからというもの、可南の日常は劇的に変化した。
バイトが終わる深夜二時過ぎ、居酒屋の裏口から疲れた体を引きずって出ると、すでに待ち伏せしていたかのように彗が立っている。
彼の働くバーも同じ時間帯に店を閉めるため、こうして帰り道で合流し、そのまま彼の住む高級マンションへ向かうのが日課になっていた。
最初は警戒を解けなかった可南だが、彗は本当に『神に誓った』通り、寝る以上のことは何もしてこなかった。
広々としたバスルームでシャワーを浴びさせてもらい、買ってもらった肌触りの良いシルクのパジャマに着替える。
キングサイズのベッドに潜り込むと、待ち構えていた彗が背後から長い腕を回してくるのだ。
「……今日も、いい匂いだ」
首筋に鼻先を擦り付けられ、深く息を吸い込まれる感覚には、いくら経っても慣れない。
くすぐったさと僅かな羞恥で身をよじる可南をよそに、彗はほんの数分で穏やかな寝息を立て始める。
家にあるペラペラの薄い布団とは違い、ここの程よく柔らかなベッドは、仕事と学業で酷使した体を優しく包み込んでくれる。
何よりいつしか可南も、背中に感じる彗の体温を『悪くない』と思い始めている事に気が付き始めていた。

だが、そんな奇妙な平穏は、ある夜にあっさりと崩れ去る。
その日は週末で、居酒屋は目の回るような忙しさだった。
運悪く泥酔した客のテーブルにつきっきりになり、無理やり肩を組まれた可南は、相手の強烈な香水とタバコの臭いをまともに浴びてしまっていた。
やんわり拒絶したところで、酔っ払いにはなんの効果もない。
何度もセクハラまがいの事をされて、早く仕事が終わればいいのにと心の中で毒づきながら黙々と仕事をする。
ようやく仕事を終わらせて疲労困憊で店を出ると、街灯の下で壁に寄りかかる彗の姿が見えた。
「遅かったな」
不満げに低く響く声。
しかし、いつものように自分を待っていてくれたその長身のシルエットを見た瞬間、可南は無意識のうちにホッと安堵の息を吐き出していた。
泥酔した客に絡まれた不快感と重い疲労が、彼の姿を認めた途端にすうっと薄れていくのを感じる。
「ごめんね、今日はちょっとバタバタしてて……」
強張っていた肩の力を抜き、ため息交じりに笑いかける可南を引き寄せようとして、彗の動きがピタリと止まる。
「……なんだ、その匂い」
低く、地を這うような声だった。見上げると、彼の目は氷のように冷え切っている。
「え? ああ、今日酔っ払いの人に絡まれちゃって。タバコの臭いとか、移っちゃったかも。帰ってすぐシャワー浴びるから……」
「誰だ」
可南の言葉を遮り、彗が一歩距離を詰める。
長身から見下ろされる圧迫感に、可南は思わず後ずさった。
「だ、誰って……ただのお客さんよ。名前なんて知らないし」
「男か」
「……そりゃ、まあ」
ギリッ、と彗の奥歯が鳴る音が聞こえた気がした。
彼は無言のまま可南の手首を掴み、大股で歩き出す。
いつもなら歩調を合わせてくれるのに、今日は有無を言わさぬ力で引きずられるようにしてマンションまで連れて行かれた。
部屋に着くなり、可南は玄関の壁に乱暴に押し付けられた。
「きゃっ……ちょっと、彗?」
逃げ道を塞ぐように両腕を突かれ、すぐ目の前に端正な顔が迫る。
良質な睡眠をとれるようになってから健康的な色気を取り戻した彼は、怒りを孕むと恐ろしいほどの凄みを放っていた。
「俺以外の男の匂いがついてるのが、死ぬほど気に入らねぇ」
隠そうともしない強烈な独占欲が、可南を射抜く。
次の瞬間、彗は可南の首筋に顔を埋めた。
いつもなら穏やかに息を吸い込むだけなのに、今日は違う。
肌に押し当てられた唇が、他人の痕跡を削り落とすように、何度も執拗に擦り付けられる。
「んっ……やめ、くすぐったい……」
「黙ってろ」
低く掠れた声が耳元を震わせる。
ゾクゾクと粟立つ肌に、彗の熱い吐息が絡みついた。
首筋から耳たぶ、そして頬へと、確認するように唇が這い上がってくる。
「彗! 約束……、何もしないって……!」
「知るか。他の男の匂いさせたまま、素直に寝かせると思ったか」
抗議の声をあげようとした可南の唇は、降ってきた彗のそれによって塞がれた。
「……っ!」
強引な接触に、可南は大きく目を見開いた。
柔らかいが、絶対に逃がさないという強い意志を持った唇が、可南のそれを食むように重なる。
嫌悪感はなかった。ただ、頭の中が真っ白になる。
少しだけ隙間が空いた瞬間、可南は荒い息を吐き出した。
「ん、ぁ……っ、彗……」
「……頼む、他の男の匂いなんてさせないでくれ」
絞り出すような掠れ声と共に、可南を壁に縫い付けていた腕の力がふっと緩んだ。
代わりに、すがるような弱々しさで可南の背中に両腕が巻き付けられ、熱を帯びた額が彼女の肩口に力なくこすり付けられる。
いつもは余裕を見せつけているはずの大きな体が、今はひどく小さく見え、可南の衣服を強く握りしめる長い指先は微かに震えていた。
傲慢な大人の男の仮面が剥がれ落ちたそこには、唯一の安らぎを奪われることを恐れ、子供のように怯える脆弱な姿があった。
やがて、鼻先が触れ合うほどの距離までゆっくりと顔を上げる。
言葉を紡ぐ代わりに可南を捉えたその瞳には、切実な懇願の色と、暗い執着が溶け合ったどうしようもない熱が渦巻いていた。
再び重なった唇は、先ほどよりも甘く、そして深かった。
角度を変え、何度も確かめ合うような口づけの連続に、可南の膝から力が抜けていく。
崩れ落ちそうになる体を、彗の逞しい腕がしっかりと抱きとめた。
そのまま、壁と彼自身の大きな体の間に可南をすっぽりと閉じ込める。
「ふっ、ん……彗……っ」
息継ぎのために微かに開いた唇の隙間に、逃がさないとばかりに彼自身の熱い舌が滑り込んできた。
外側にこびりついた他人の臭いごと、内側から彼自身の熱と匂いで完全に塗り替えてしまうような、執拗で貪欲な口付け。
舌先が絡み合う艶やかな水音が、静まり返った玄関に反響する。
背中を抱きしめる腕の力は息が詰まるほど強いのに、可南の髪をすくう大きな手はひどく繊細で優しい。
その不器用なギャップと、彼から伝わってくる切実な鼓動に、可南の胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
抗う気力など、とっくに溶けてなくなっていた。
どれくらいそうしていただろうか。やがて名残惜しそうに唇が離れると、彗は熱を帯びた吐息を漏らしながら、再び可南の首筋に深く顔を沈めた。
すぅぅっ……と、荒かった呼吸を整えるように、深く長い音が響く。
脈打つ肌に張り付いた彼の唇の熱と、互いの体温が混ざり合う濃密な空気だけが、思考を白く飛ばされた可南の輪郭を辛うじて繋ぎ止めていた。
***
あの一夜の強引な口づけを境に、二人の間には薄氷を踏むような危うい緊張感が漂うようになった。
彗は相変わらず可南を抱きしめて眠りにつくが、その腕の力は以前よりもずっと強く、独占欲を隠そうともしない。
可南もまた、彼に触れられるたびに胸の奥が甘く疼くのを自覚していた。
静まり返った寝室に、苦しげな低い呻き声が響いた。
ふと目を覚ました可南が隣を見ると、彗がシーツを固く握りしめ、額にじっとりと脂汗を浮かべている。
ひどく浅い呼吸を繰り返し、何かに追われるように首を振っていた。
「彗……? ねぇ、彗」
肩を揺さぶると、彼は弾かれたように目を見開いた。
いつもは傲慢で余裕に満ちた鋭い瞳が、今は焦点が合わず、迷子のように怯えた色を浮かべている。
「……可南、か」
「どうしたの? 悪夢でも見た?」
彗は答えず、ただ震える手で自身の顔を覆った。
そのひどく無防備で、脆い姿に可南は息を呑む。
最初はただの割の良いアルバイトだったはずだ。
それなのに、毎晩のように彼の体温を背中に感じ、自分の匂いを嗅いで穏やかな寝息へと変わっていくその過程を共有するうちに、可南の中で何かが確実に変化していた。
虚勢を張る大人の男がふと見せた、今にも壊れそうなほどの脆弱さ。
それが、可南の胸の奥をぎゅっと締め付ける。
理屈ではなく、ただ目の前の彼を放っておけないという、純粋でどうしようもない情愛だった。
可南は迷わず身を乗り出し、彗の背中に腕を回した。
折れてしまいそうなほど細い体を抱き込み、自分の胸に彼の頭をそっと引き寄せる。
「……っ、何してる」
「大丈夫。私がいるから。どこにも行かないよ」
可南の体温に触れた瞬間、強張っていた彗の体がぴくりと跳ねた。
数秒の硬直の後、堰を切ったように、すがるような力で可南の背中に長い腕が巻き付いてくる。
そのまま可南の首筋に深く顔を埋めると、すぅぅっ……と、肺の奥底まで満たすように思い切り彼女の匂いを吸い込んだ。
「……8歳のときだ」
可南の肌に額を押し当てたまま、彗がぽつりと零した。
震える掠れた声だった。
「朝起きたら、隣で寝ていたお袋が、冷たくなってた」
「え……」
「急性心不全だったらしい。でも、兄貴と姉貴は……隣にいた俺が殺したんだって、毎日狂ったように責め立ててきた。親父は無関心で、俺の顔すら見ようとしなかった」
ぎゅっと、可南を抱きしめる腕に力が入る。
背中を撫でていた可南の手が、彼の抱える壮絶な過去に息を呑んでわずかに止まった。
「眠ろうとして目を閉じると、朝冷たくなっていたお袋の顔が浮かぶ。俺を人殺しだって罵る声が耳元で聞こえる。どうにか眠りについても、ひどい悪夢で飛び起きるんだ。……ガキの頃は、それでも疲れ果てれば気絶するように眠れた。でも、大人になるにつれてどうにもならなくなって……睡眠薬を浴びるように飲んだ。それも、いつしか全く効かなくなった」
すうっ、と再び可南の匂いを深く吸い込む。
酸素の代わりに彼女の匂いを取り込むことで、彗の荒かった呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「死んだように起きているだけの夜が続いて……もう、頭がおかしくなりそうだった。そんな時に、お前に出会ったんだ」
ぎゅうっと骨が軋むほど締め付けられる力強さに、彼がどれほどの恐怖と絶望の淵に立ち、そして今、どれほど可南を必要としているのかが痛いほど伝わってくる。
安心させるように、可南は再び彼の手触りの良い髪をゆっくりと撫で始めた。
やがて、首筋に押し当てられていた顔がゆっくりと持ち上がる。
至近距離で、視線が絡み合った。
怯えに揺れていた彗の瞳の奥に、可南の姿がはっきりと映り込む。
すると、すがるような弱々しさは次第に影を潜め、代わりに暗く、熱を帯びた執着の色がじわりと滲み出していった。
触れずに、匂いを嗅ぐだけではもう足りない。
自分を地獄から救い出してくれたこの温もりを、自分だけのものとして完全に囲い込みたいという、抑えきれない欲望。
「可南……」
名前を呼ぶ熱い吐息が、唇のすぐそばで重なる。
先日のような、嫉妬に任せた強引なキスではなかった。
最初は壊れ物に触れるように、ただ唇の柔らかさを確かめ合うだけの微かな接触。
しかし、可南が拒むことなくそっと目を閉じると、彗の口づけは一気に熱を増し、深く、貪欲なものへと変わっていった。
「はぁ……、んっ」
息継ぎの隙間に甘い声が漏れると、彗の長い指が可南の髪に滑り込み、逃がさないように後頭部をしっかりとホールドする。
もう一方の手はシルクのパジャマ越しに腰を撫で上げ、指先から伝わる不自然なほどの熱に可南は小さく身をよじった。
「悪いが、もう約束は守れねぇ」
唇を離し、鼻先が触れ合う距離で囁かれる低く独占欲に満ちた声。
その響きに、可南の思考が甘く溶けていく。
上から覆い被さるように可南をベッドに押し倒すと、彗は首筋から鎖骨へと、這うように唇を落としていった。
執拗に匂いを嗅ぎながら、二度と他の男の気配など寄せ付けないと言わんばかりに、印を刻みつけるように肌を吸う。
その度に、彼自身の荒い息遣いが素肌に直接触れ、可南の背筋をゾクゾクと甘い痺れが駆け抜けた。
「彗……っ」
甘く上擦った声が漏れると、彗は満足げに目を細め、可南が身につけていたシルクのパジャマのボタンにゆっくりと指をかけた。
滑らかな布地が肌から滑り落ち、ひんやりとした夜気が素肌を撫でる。
だが、それも束の間だった。あらわになった胸元へ、彗が再び深く顔を埋めてきたからだ。
すぅっ、すぅっ……と、直接肌の奥から匂いを吸い上げるような、ひどく熱心な呼吸音が響く。
「……熱持つと、匂い、もっと甘くなるんだな。……すげぇ、頭おかしくなりそう」
「バカ……恥ずかしい……っ」
身をよじって顔を隠そうとする可南の両手首を、彗は片手で容易く拘束し、頭上に押さえつけた。
逃げ場を失った可南の耳の裏から首筋にかけて、彗の鼻先と唇が執拗に這い回る。
脈打つ場所に顔を押し当てては、極上のワインを味わうように深く息を吸い込み、そこへ焼け付くような口づけを落としていく。
「ん、あっ……だめ、そこは……っ」
胸元を堪能していた彗の顔が、ふと横へと逸れた。頭上に拘束され、無防備に伸びきった腕の付け根――わずかに汗ばんだ柔らかな脇のくぼみへと、その鼻先が深く埋められる。
「……ここも、すげぇ熱い。お前の匂いがむせ返るくらい濃くて……たまらねぇ」
「ひっ!? ちょ、やだ、そこは汗かいてるし汚いから……っ!」
激しい羞恥に身をよじる可南をよそに、彗はすぅぅっ……と、直接肌の奥から匂いを吸い上げるように深い呼吸を繰り返した。
そして、極上の甘露でも見つけたかのように、その熱を帯びた柔らかい肌へと濡れた舌を這わせる。
「あ、ぁあっ……! だめ、彗、ひゃっ、あ……」
ちゅっ、ちゅる……と、静かな寝室に卑猥な水音が響く。
敏感な場所を執拗に舐め上げられ、時折ぞくりとするような甘噛みを交えられるたび、可南の体は快感と羞恥でびくびくと大きく跳ねた。
彼女の恥じらいと匂いを限界まで味わい尽くすと、やがて頭上の拘束がふっと解かれた。
彗の体はさらに下へと移動し、今度は胸の谷間から、柔らかく波打つ腹部へと熱い唇を滑らせていく。
肌をなぞる鼻息が下腹部を掠めるたびに、可南は背中を弓なりに反らせた。
彗が触れた場所から火がついたように熱を帯び、頭の芯がどろどろにとろけていく。
「だめじゃない、だろ?」
彗は、這わせる唇をさらに下へと進めながら、空いた大きな手で可南の膝の裏を割り開くようにして、太ももの内側へと長い指を滑り込ませた。
「んっ!」
最も無防備で、すでに抗いようのない熱と湿りを帯びている秘められた場所。
強烈な羞恥に襲われ、反射的に脚を閉じようとする可南の膝を、彗は大きな手でがっちりとホールドした。
そして、そのまま吸い込まれるように、彼女の最も熱い場所へと顔を沈める。
肺のすべてを彼女の香りで満たすように、胸を大きく膨らませて深く、深く息を吸い込んだ。
「……いいね。ここが一番、お前の匂いが濃い」
「嗅がないで……お願い、恥ずかしいから……っ」
熱を孕んだ吐息が、びくびくと粟立つ敏感な肌のすぐそばに吹きかけられる。
ただ至近距離で匂いを嗅がれ、濃密な息を当てられているだけだというのに、直接脳を揺さぶられるような強烈な快感が可南の背筋を突き抜けた。
彗の鼻先が、その熱の源を暴くように、柔らかく濡れた蕾のあたりを執拗に擦り上げる。
さらに深部から立ち上る甘い匂いを限界まで堪能し、彼女の恥じらいと興奮が混ざり合った香りに完全に酔いしれた直後――ついに耐えきれなくなったように這わせられた濡れた舌の感触に、可南は声にならない甘い悲鳴を上げて大きく腰を跳ねさせた。
「ひっ、ぁ……! むり、彗、やめ……っ!」
あまりの鋭い快感に恐れをなし、後ずさるように腰を引こうとする可南。
しかし、彼女の細い腰骨は彗の大きな両手によってがっちりと掴まれ、ベッドに縫い付けられるように完全に逃げ場を封じられてしまう。
「逃がさねぇ」
低く掠れた声と共に、再び熱い顔が沈み込む。
今度はただ匂いを嗅ぎ、舌を這わせるだけではない。
柔らかい唇で花芯をすっぽりと吸い上げ、滑らかな舌で溢れ出す甘い蜜ごと執拗に味わい尽くし、時折、焦らすように微かに歯を立てて甘噛みする。
「あ、ぁぁっ! 彗、だめ、そこ、本当にだめ……っ!」
舌と、歯と、唇、そして指。
あらゆる感触を駆使した容赦のない愛撫に、可南はシーツをむしるように握りしめ、ひきつけを起こしたように首を振る。
けれど、彼女の匂りに完全に理性を飛ばした彗は、可南がどれほど泣きじゃくるように懇願しようとも、決して口を離そうとはしなかった。
「は、ぁ……っ、んんっ……!」
甘い匂いを貪る卑猥な水音が、静かな寝室にどこまでも淫らに響き渡る。
激しい快感についに可南が限界を迎えて大きく体を反らした。
びくびくと細かく痙攣を繰り返し、完全に力が抜けてぐったりとシーツに沈み込むまで、彗の執拗で甘い責め苦は終わらなかった。
涙目で息も絶え絶えになっている可南を見下ろし、彗は濡れた唇の端を歪めて艶やかに笑う。
そして、抵抗する力すら残っていない可南の上に再び深く覆い被さると、彼女の耳元で荒い息遣いを甘く反響させた。
「お前の全部、俺によこせ」
もはや理性の入り込む隙間などどこにもなかった。
シーツの上で二人の汗が滲み、別々だったはずの体温と匂いが、ひとつの濃密な熱となって寝室を満たしていく。
触れ合う肌の隙間さえ惜しむように強く抱き寄せられ、孤独を埋め合わせるように深く重なり合う。
可南はもう抗うことなく、彼が与える溺れるような快楽と執着の波に身を委ね、夜の闇に溶け込むように彼を抱きしめ返した。
***
カーテンの隙間から差し込む眩しい朝日に、可南はゆっくりと目を覚ました。
寝返りを打とうとして、腰に回された重い腕のせいで動けないことに気づく。
背中には、ぴったりと張り付く男の熱い体温。
「……起きたか」
耳元で寝起きの低く掠れた声が響いた。
次の瞬間、腰の腕にぐいっと力が込められ、可南の体は強引に仰向けへと転がされる。
視界を塞ぐように、片肘をついて上半身を起こした彗が、満足げに目を細めて可南を見下ろしていた。
「……おはよう。ちょっと、腕重いんだけど」
「嫌だね。離さねぇ」
可南の抗議など意に介さず、彗はさらに腕に力を込めて可南を自分の胸の中へと引き戻す。
そして、当然の権利とばかりに可南の首筋に鼻先を擦り付け、すうっ、と深く匂いを吸い込んだ。
「あ、ちょっと……くすぐったい」
「……居酒屋のバイト、今日で辞めてこい」
「はぁ!?」
突然の言葉に、可南は目を丸くして彗を見上げた。
彼はふてぶてしい笑みを浮かべたまま、可南の髪を指に絡めて遊んでいる。
「他の男に匂い嗅がれるのも、酒の臭いをつけて帰ってくるのも、もう我慢できねぇ。学費も生活費も、全部俺が出してやる」
「バカ言わないで。私だって自分で……」
「結婚しよう」
「……は?」
あまりにも唐突な言葉に、可南の思考が完全に停止した。
ぽかんと口を開ける可南を見下ろし、彗はふてぶてしい笑みを深める。
「ちょ、ちょっと待って! いくらなんでも飛躍しすぎ……!」
「待たない。もう離せないし、離す気もない。本当は部屋に閉じ込めて、一歩も外に出したくないくらいだけど……お前に嫌われるのは癪だからな。俺のものになったっていう『契約』だけで我慢してやる」
有無を言わさない、絶対的なトーン。
昨夜のすがるような弱さはどこへやら、そこにあるのは独占欲を隠そうともしない、俺様な男の姿だった。
「……あんた、本当にいかれてるわ」
「お前が俺を狂わせたんだろ。責任取って、一生俺の横で寝ろ」
呆れながらも、可南の胸の奥には甘い痺れが広がっていた。
もう、あの古びたアパートに帰ることも、深夜に自転車のペダルを漕ぐこともないのだろう。
抗えないほどの熱と執着に絡め取られながら、可南はそっと目を閉じ、再び降ってきた彗の重いキスを静かに受け入れた。
END
あらすじ
深夜出会った、気だるげで不遜な瞳の男。
だけど放っておけなくて…









