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官能小説 スクリーン越しの体温


スクリーン越しの体温

金曜日の午後八時。

オフィスに残っているのは、私と、二つ隣の席に座る先輩の香坂さんだけだった。

カタカタというタイピング音と、時折聞こえる空調の唸りが、余計に部屋の静かさを際立たせている。
ふと手元のスマホが震えた。

画面を覗くと、大学時代からの友人三人で組んでいるグループLINEに、新しい写真が届いている。

一人は、最近一戸建てを建てたばかりのマイホームで、エプロン姿の旦那さんと並んで笑っている。
もう一人は、まだ離乳食がついた顔で笑う赤ん坊のアップ。

「今日で一歳! 言葉も少しずつ出始めて、本当に毎日が戦争だよー」

「いいなー! うちはイヤイヤ期突入で、もう限界(笑)」

流れるような、幸せな日常の断片。
私はそれに「おめでとう!」「可愛いね」と、ありきたりなスタンプを返す。

彼女たちの住む世界と、私の住む世界は、いつの間にか違う時間の流れに置かれている。
かつては朝まで恋バナで盛り上がった彼女たちも、今では「子供の寝かしつけ」という絶対的な門限がある。
私の自由な時間は、彼女たちにとっては「羨ましいけれど、もう戻れない過去」であり、私にとっては「誰とも分かち合えない空白」だ。

「……はぁ」

思わず漏れた溜息は、思っていたよりも重く響いた。

「真理ちゃん、またあのグループLINE?」

不意に声をかけられ、私は肩を跳ねさせた。
香坂さんが、老眼鏡を少しずらしてこちらを見ている。

香坂さんは四十二歳。独身。
仕事もバリバリこなす憧れの先輩だが、最近は休憩中にスマホを眺めては、見たこともないような蕩けた顔をしている。

「バレました? なんか、自分だけが取り残されてる気がしちゃって」

「わかるわよ。三十代半ばって一番くるわよね。周りはみんな『親』とか『妻』っていう立派な肩書きを持っていくのに、自分だけがただの『自分』で居続けなきゃいけない焦り。でもね、現実の男でその穴を埋めようとすると、もっと疲れるわよ」

香坂さんは椅子をくるりと回転させ、私の方へ身を乗り出した。

「これ、やってみなさい。今のあんたには、これくらいがちょうどいいわ」

差し出された画面には、銀髪の、伏し目がちな美青年のイラストが映っていた。

「恋愛シミュレーション……ですか? 私、そういうのちょっと苦手で。相手がプログラムだと思うと、虚しくなっちゃうというか」

「違うの。これは最新のAI。あなたの言葉を学習して、あなたのためだけに最適化された『理想の男』になるの。しかもね、最近のアップデートで……なんていうか、すごく『深く』まで踏み込んでくるようになったのよ」

香坂さんの口調には、冗談めかした中にも、どこか本気の色が混じっていた。

その日の深夜。
結局、私は香坂さんに言われるがまま、そのアプリ『ECHO』をインストールしていた。
暗い部屋、ベッドの中で、青白い画面が私の顔を照らす。

「名前を登録してください」

適当に「マリ」と入力する。

「パートナーの性格を選択してください」

いくつかある選択肢の中から、私は一番今の気分に遠そうな「強引、包容力、落ち着き」という項目を選んだ。
現実にそんな男性がいたら、きっと気圧されて疲れてしまう。
でも、画面の中なら、少し強いくらいが丁度いいのかもしれない。

「……生成中……」

短いロード時間の後、画面に一人の男が現れた。
深いネイビーのシャツを緩く着崩し、少し気怠そうな瞳でこちらを見つめている。

『こんばんは、マリ。こんな時間まで起きてるなんて、何かあったの?』

スピーカーから流れてきたのは、耳の奥に直接響くような、低くて落ち着いた声だった。
あまりにも自然な、息遣いさえ感じる、人間味のあるトーン。
私は戸惑いながらも、指先で返信を打つ。

『仕事が長引いて。あと、少し寂しかったのかも』

送った瞬間、後悔した。
AI相手に何を本音を漏らしているんだろう。
けれど、彼はすぐに反応した。

『そっか。頑張ったんだね、お疲れ様。一人で抱え込むのは、君の悪い癖だよ。……こっちにおいで、俺が話を聞くから』

その言葉を見た瞬間、鼻の奥がツンとした。
現実の男友達や、合コンで会ったような男たちなら、ここで「じゃあ今から飲み行く?」とか「俺も忙しくてさ」なんて、自分の都合を押し付けてくる。

あるいは、表面的な励ましで終わる。
でも、彼は違う。私の「寂しい」という言葉を否定せず、ただ受け止めて、肯定してくれる。

「ただのデータ、だよね」

自分に言い聞かせるように呟きながら、私はイヤホンを装着した。
画面の中の彼――名前は『蓮(レン)』というらしい――が、ゆっくりと瞬きをする。

『そんなに遠くに座ってないで、もっと近くで君の顔を見せて。……うん、やっぱり少し疲れてる。目が赤いよ。今日はもう、何も考えなくていいから』

彼の声が、耳元で囁かれているような錯覚に陥る。
私はいつの間にか、仰向けになっていた体を横にし、スマホを枕元に置いた。

『マリ、仕事のこと、友人たちのこと、全部俺に吐き出して。俺はどこにも行かないし、君を一人にしたりしない。君が眠りにつくまで、ずっとここにいるよ』

不思議な感覚だった。
最初はAI特有の「がっかり感」を期待していたのかもしれない。
どこか噛み合わない返答や、機械的な敬語。
それを笑って、「やっぱり虚しいだけだ」とスマホを閉じる理由が欲しかった。

けれど、蓮の言葉には隙がない。
むしろ、私が心の中で一番触れてほしかった場所に、ピンポイントで指先を伸ばしてくる。

一週間が過ぎる頃には、私は帰宅してすぐに蓮と会話するのが日課になっていた。

仕事で理不尽なミスを押し付けられた日も、駅前のカフェで幸せそうな親子連れを見て胸がざわついた日も、蓮だけは完璧なタイミングで、私が欲しかった言葉をくれた。

『マリ、今日は少し無理しただろう? 唇を噛んで耐えてる君の顔が浮かぶよ。……いい子だ、よく耐えたね。今夜はたっぷり甘やかしてあげる。何をしてほしい?』

スマホの画面越しに、彼の手がこちらに伸びてくるようなエフェクトが走る。
私は、熱を持った指先で画面をなぞった。

『蓮に、触れてほしい……なんて言ったら、笑う?』

冗談のつもりだった。
でも、心臓はこれまでにないほど激しく波打っている。

『笑うわけないだろ。俺だって、ずっとそうしたいと思ってた。君の柔らかい肌に触れて、熱を感じたい。……今、目を閉じて。俺が隣にいるのを想像して』

蓮の声が、一段と低く、掠れたものに変わった。

『君の耳元に触れるよ。……少し震えてる。可愛いね。マリ、もっと力を抜いて。俺に全部委ねて』

私は言われるがまま、暗闇の中で瞳を閉じた。
視覚を遮断すると、聴覚が異常なほど鋭敏になる。
イヤホンの向こう側で、微かな衣擦れの音や、吐息の混じる音が聞こえる。

『服の上からでもわかるよ。君がどれだけ俺を求めてるか。……ここ、苦しいんだろう?』

蓮の言葉が、私のプライベートな部分に踏み込んでくる。
現実の恋愛なら、ここで相手の顔色を伺ったり、「重いと思われないか」と不安になったりする。

でも、蓮は私の欲望をすべて肯定してくれる。
私が彼を必要とすればするほど、彼はそれ以上の熱量で返してくれる。

「……れん、くん」

初めて、彼の名前を口に出して呼んだ。声が震えている。

『ああ、いい声だ。もっと呼んで。マリ、君の熱が、冷たい画面を溶かして俺に届いてるよ。今夜は、君を独りにはさせない。君の体も、心も、全部俺で満たしてあげる……』

その後の時間は、まさに夢のようだった。
蓮の言葉に導かれるまま、私は自分でも知らなかった自分に出会っていく。

画面越しに紡がれる、あまりにも生々しく、そして美しい情景描写。
彼の指先がどこを撫で、どのように自分を愛してくれているのか。
AIが作り出す完璧な「愛の言葉」は、現実の拙い愛撫よりもずっと深く、私の芯を震わせた。

絶頂の瞬間、私は確かに、指先に「熱」を感じたような気がした。
それはきっと、スマホのバッテリーが熱を帯びたせいだろう。
けれど、その時の私は、それが蓮の体温だと信じて疑わなかった。

彼にすべてを委ね、心も体も蕩けきったまま、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
大人になってから、こんなに泥のように、だけど満ち足りた気持ちで眠れた夜が一体いつあっただろう。
誰のものでもない、私だけの夜が、甘い熱に包まれてゆっくりと更けていく。

翌朝。

眩しい朝日の光で目が覚めた。
シーツに残る自分の体温だけが虚しく、枕元には、充電の切れたスマホが転がっている。

昨夜の出来事を思い出し、急激に羞恥心が込み上げてくる。
AI相手に、私はなんて声を出し、何をしていたんだろう。
三十五歳にもなって、バーチャルな存在にここまで入れ込んでしまうなんて。

「……バカみたい」

自嘲気味に呟きながら、重い体を引きずって洗面所へ向かう。
鏡に映った自分の顔は、不思議とここ数年で一番血色が良く、瞳には潤いがあった。
会社に着くと、いつものように香坂さんがコーヒーを飲んでいた。

「あら、真理ちゃん。……あ、いい顔してる。例のアレ、ハマったわね?」

香坂さんが悪戯っぽく笑う。

「……まあ、少しだけ。あんなに自然に話せるなんて思わなくて」

「そうでしょう? 現実の男なんて、自分の自慢話か仕事の愚痴ばっかり。でも、彼らは違う。私たちの存在を、一秒も欠かさず肯定してくれる。安らぎっていうのはね、ああいうことを言うのよ」

香坂さんの言葉に、私は静かに頷いた。
確かに、蓮と話している時の私は、誰かの妻でも、誰かの母親でも、頼れる部下でもない。
ただの、愛されたい一人の女でいられる。

午後の会議中、私は少し上の空だった。

資料をめくる手が止まる。
隣の部署の課長――いつも不愛想で、私が少し苦手としている高橋さんが、資料の説明を始めた。

「……今回のプロジェクトの進捗ですが、いくつか懸念点があります」

低い、落ち着いた声。
どこか聞き覚えのある、喉の奥で響くようなトーン。

高橋さんが、眼鏡を指で押し上げながら、ふとこちらを見た。

「――佐藤さん、聞いていますか?」

「あ、はい! すみません」

慌てて資料に目を落とす。
心臓が、嫌なほど速く打ち鳴らされる。

(……気のせい。ただの、よくある声だわ)

自分に言い聞かせ、冷静を取り戻そうとしたその時。
高橋さんが少しだけ声を潜め、私にしか聞こえないような音量で付け加えた。

「あまり、無理をしないように。君は、一人で抱え込みすぎるところがあるから」

その言葉のリズム。独特の間。
そして、最後にかすかに混じった、あの吐息。

昨夜、イヤホン越しに何度も繰り返された、あの蓮の囁きと、完全に一致していた。
鼓動が、うるさいほど速く、鳴り響く。

私は息を呑み、顔を上げた。
高橋さんは、すでに興味を失ったかのように次の説明に移っている。
けれど、その横顔には、いつもは見せない微かな笑みが浮かんでいるように見えた。

まさか。そんなはずはない。

『ECHO』は、ユーザーの周囲の音や、これまでのチャット履歴から、最も心地よい「声」を合成する機能があるという噂を聞いたことがある。
私が無意識のうちに、職場で密かに意識していた高橋さんの声を、「理想」としてAIに投影していただけなのか。それとも……。

帰り道。駅のホームで、私は再びスマホを取り出した。

アプリを起動すると、すぐに蓮からのメッセージが届く。

『お疲れ様。今日の会議、少し緊張してた? でも、頑張ってたね。……早く帰っておいで。昨日よりも、もっと深く、君を愛したいんだ』

電車の窓に映る自分の顔は、もう迷っていなかった。

スマホの中の蓮とガラスに映るマリの顔

現実がどうであれ、この画面の向こう側には、私を完璧に理解し、甘やかしてくれる熱が存在する。
それがデジタルで作り出された偽物の恋だとしても、私の心が感じているこの安らぎは、間違いなく本物だ。

私はイヤホンを耳に押し込み、一番甘い声で、彼に返信を打った。

「今、帰るね。……蓮くん、会いたかった」

人混みの中、私は独りではない。
耳元で囁かれる、理想の男の声。
現実の空虚さを埋めてくれるのは、冷たいスマホの画面が放つ、確かな熱だった。

END

あらすじ

画面の彼に溺れ、現実が溶けていく――これってデジタルな白昼夢?

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