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官能小説 未決済の初恋攻略本―マニュアル―


未決済の初恋攻略本―マニュアル―

スクロールしてただけだった。
本当に、それだけ……。

SNSをなんとなく眺めて、どうでもいい投稿を流して、気づいたら時間が溶けてる、いつものやつ。
その中に、たまたま混ざってきた。

『恋愛マニュアル:意中の相手以外は使用しないでください』

「……は。何これ、うさんくさ」

画面を叩く指が止まる。
意中の相手どころか、こちとら万年彼氏募集中ですらない、恋愛砂漠の住人だ。
けれど、深夜二時のシェアハウスのリビングで一人、フロアライトの微かな灯りに包まれていると、妙な好奇心が勝った。

ページを開くと、内容は驚くほどロジカルだった。

『物理的距離を15cm詰めるタイミング』
『瞳孔が開く瞬間の見極め方』

まるで心理学の論文のような淡々とした筆致に、つい引き込まれる。

(……これ、高校の時のあの人が読んだら、少しは脈があったのかな)

ふと、脳裏をよぎったのは、高校時代、図書室の主だった瀬戸さんの顔だ。
彼は図書委員。私は隣の音楽室で活動する合唱部。

実は、小学校の時も何度か同じクラスになったことがあった。

中学で学区が分かれて以来、顔を合わせることもなかったけれど、高校の図書室で再会した時は心臓が跳ねたのを覚えている。

(……当時は、『瀬戸くん』って呼んでたっけ、ちょっとだけ好きだったな)

再会してからの彼は、図書室の主だった頃よりどこか近寄りがたくて、いつの間にか『瀬戸さん』という余所余所しい呼び方が定着してしまっていた。

音楽家の一家に生まれ、誰よりも耳が良い彼は、部外者のくせに私の歌に厳しかった。

「……隣、聞こえてるよ。またピッチが下がってる」

「君の歌い方は情緒に頼りすぎだ。もっと骨格を意識して、真っ直ぐ音を当てないと」

廊下で会うたび、眼鏡の奥の涼やかな瞳で、私の欠点を淡々と指摘する。

卒業してそれっきりだと思っていたのに、まさか社会人になって入居したシェアハウスのキッチンで、エプロン姿の彼と再会するなんて一ミリも想像していなかった。

あの時、心臓が止まるほど驚いてマヌケな顔を晒した私を見て、面白そうに口角を上げた瀬戸さん。
あの意地悪な笑みを思い出すだけで、今でも顔から火が出そうなくらい恥ずかしくて、悔しい。

そんな思い出し怒りと気まずさを振り払うように、私はソファの隅でスマホの画面に意識を没入させた。

「……あ。いいところ」

マニュアルが、一番の核心『相手を依存させる、視線の絡ませ方』という章に突入した。
期待に胸を躍らせてスクロールした先??。

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「うそでしょ!?結局金かよ……っ!」

思わず声を上げた、その時。

「……何が、そんなに不満なの。相変わらず、感情がすぐ声に出るんだね」

ソファの背後から、ひんやりとした声が降ってきた。
振り返ると、そこには湯気を感じさせるほど洗い立ての髪に、緩くなったTシャツ姿の瀬戸さんが立っていた。
フロアライトの光が、彼の眼鏡のレンズに反射して、表情が読み取れない。

「ひゃいっ?!せ、瀬戸さん?!起きてたの?」

「水、飲みに来ただけ。……君の声、廊下まで響いていたよ」

瀬戸さんは、キッチンカウンターへ向かわず、ソファを回り込んで私の隣に腰を下ろした。
深く沈み込むソファ。
彼の体温と、微かな石鹸の香りが、一気に私のパーソナルスペースを侵食する。

「慌てて何を隠そうとしてるの。……見せて」

伸びてきた白く細い指に、抗う間もなくスマホを奪い取られる。

「あ、返して!見ないで……っ!」

「……『恋愛マニュアル』?意中の相手以外は、使用禁止……?」

瀬戸さんは、画面をじっと見つめている。

「……ふーん。君、まだこういう非効率なものに、頼ってるんだ」

眼鏡の奥の瞳が、私を射抜いた。

「……じゃあ、なんでそんなに顔、赤いの。ターゲットもいないのに、こんな高額なマニュアルの決済画面で、指を震わせて」

「赤いのは、怒ってるから!そもそも勝手に見ないでよ、デリカシーの欠片もない図書委員!」

私が手を伸ばしてスマホを奪い返そうとすると、瀬戸さんはひらりと腕をかわして、スマホをローテーブルの奥へ置いた。
そのまま、逃げる暇も与えず、彼は私の方へ体を向けた。

「これ、続きが気になるなら、俺が教えてあげようか。有料部分」

瀬戸さんが、私の背後の背もたれに、そっと手を突いた。

「は?5,000円もするんだよ。アンタに何がわかるの」

「わかるよ。音楽家っていうのは、音だけじゃなく『空気』の震えに敏感なんだ。……マニュアルに書いてある『相手を落とす呼吸の合わせ方』くらい、君が課金するより正確に実演できる」

私は思わず鼻で笑った。

「……へぇ。じゃあやってみてよ。検証。どうせ理屈ばっかりで、ちっともドキドキしないだろうけど」

「……いいよ。じゃあ、検証開始」

瀬戸さんの声が、一段低くなった気がした。
彼は眼鏡を外し、テーブルに置いた。
剥き出しになった彼の瞳は、図書室で見ていた時よりもずっと、鋭くて、粘り気のある熱を帯びている。

「……毎日、廊下で君を呼び止めてたのは。……そうしないと、君が俺を見ないからだ」

衝撃的な告白に、私の思考は完全にフリーズした。

「……え?瀬戸さんが、私のことを……?」

(え、嘘……。まさか、キス、される……っ!?)

瀬戸さんの顔が、一気に近づく。

「……こういう時は、俺の目を見て」

彼の手が私の後頭部に伸びてくる。
反射的に、息が止まる。

??なのに。触れない。
ほんのわずか、唇が触れる直前で止まる。
呼吸だけが、やけに近い。

「……逃げる?」

低く、試すような声。

(逃げたほうがいい)

そう思ってるのに、体が動かない。
むしろ、視線を逸らせない。

今にもキスしそうな二人

「……検証、なんだろ」

囁かれて、息が詰まる。否定できない。
その一瞬で??彼の唇が、深く重なった。

「ん、……ぅん……っ」

突き飛ばそうとした私の両手は、彼の強固な胸板に阻まれ、逆にその手首を、彼の空いた方の手にガシリと掴まれてソファに縫い付けられる。

ひんやりしていたはずの彼の唇は、驚くほど熱くて、柔らかい。
合唱部の練習で鍛えたはずの私の肺活量さえ、一瞬で底を突く。
酸素の代わりに、彼の熱い執着が肺の隅々まで流れ込んでくるような、深いキス。

舌先が微かに触れるたび、脳内が真っ白に塗りつぶされて、拒否しようとしていた力さえ、じわじわと奪われていく。

ようやく唇が離れたとき、私はソファに力なく崩れ落ちていた。

「……マニュアルには、書いてなかったでしょ。……『キスの途中で呼吸を止めるな』って」

彼は、赤く染まった私の唇を親指でそっとなぞり、満足そうに目を細めた。

「……このマニュアル……。……俺が書いたんだ」

「……はぁっ!?」

「レビューは全部本物だよ。ネットで匿名公開したら、勝手にバズって、勝手に売れただけだ。……卒業してから今まで、君をどう攻略するかを理論立ててまとめることくらいしか、楽しみがなかったから」

「……っ、怖っ!!」

思わず本音が漏れた。
世の女性たちがこぞって崇拝している最強の恋愛バイブル。

その正体は、瀬戸さんが数年間、私のことだけを考え、私の反応だけを煮詰め続けて書き上げた「私専用の罠」だったのだ。

(……待って。それってつまり、私もあそこに書いてあるレビューみたいに、あっという間に、瀬戸さんに『堕とされて』しまうってこと?)

ぞくりと、背筋に冷や汗が垂れる。
彼は、私が高校生だったあの頃からずっと、「うるさい」と突き放しながらも、私の音を、私の存在を、自分だけのものにしようとミリ単位で計算し続けていたのだ。

ここから逃げることなんて、……とっくに、不可能だった。

「……最低。あんた、全然草食系じゃないじゃない。ただの、……超弩級の執着男じゃん」

(……怖い。……でも、)

私の手首を押さえている彼の細い指先から、震えるほどの愛おしさが伝わってくる。
その続きは、どれだけ甘くて、どれだけ執拗に、俺だけに愛されるって書いてあるの?

恐怖と、それ以上に膨れ上がる甘い期待。

「……責任、取ってよ。数年分、君のことだけを分析し続けて、このマニュアルを完成させた俺の情熱に」

眼鏡のない彼の顔が、もう一度、ゆっくりと近づいてくる。

「……無料体験は、ここまで。……続きは、俺の専用会員(カノジョ)になるまで、教えない」

唇が触れるか触れないかの距離で、彼は逃がさないように私の腰を引き寄せた。

深夜のシェアハウス。

それは、5,000円の決済ボタンを押すより、ずっと高くつく一生の契約。
けれど、逃げ道なんて最初からなかった。

私は「一生分の恋」という底なしの沼に、自ら足を踏み出した。

END

あらすじ

深夜のシェアハウス、再会した彼の歪な愛に飲み込まれ…!?

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