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官能小説 グラスの底に、恋を隠して。


グラスの底に、恋を隠して。

バー『Nocturne』。
夜の都会にぽつんと灯る、その小さなバーには、静かにジャズが流れていた。

いつもなら、カウンターの端には二人並んでグラスを傾ける姿がある。
一人は、明るくて社交的な女性──そしてもう一人が、成美だった。
控えめだけど芯があり、繊細な目をしたその成美に、バーテンダーの圭人は密かに心を惹かれていた。

「…あれ、今日はひとり?」

その夜、成美はひとりで現れた。
仕事帰りのスーツ姿に、少し濃い目のリップ。いつもよりも目元が赤い。
そして、手元のグラスをいつも以上のペースで空けていく。

「なんでもないよ。ただ…飲みたかっただけ。」

そう言いながら笑うけど、目が笑っていない。
「いつもの」と言って頼んだカクテルは、明らかにいつもより強い。

圭人は黙ってグラスを磨きながら、成美の様子を見ていた。
そして、タイミングを見てそっと話しかける。

「…もし、誰かに傷つけられたんなら。俺だったら、悲しませないのに。」

ふいに成美の手が止まり、グラスの向こうで、ゆらっと表情が揺れた。

グラスを持つ成美とカウンターに立つ圭人

「親友だと思ってた子に…彼、取られたんだ。 この前、家に行ったら…2人で……。」

声が震える。酒で薄まった涙が、とうとうグラスのふちを濡らした。

「……そっか。」

圭人はそっと、成美のグラスを取り上げ、代わりに温かいお湯を入れたカップを差し出した。

「もう、飲むのやめとこう。身体が泣いてる。」

成美はぐらりと揺れて、カウンターに突っ伏す。

閉店時間が過ぎた店内。
無防備に眠る成美に、圭人の胸がざわつく。

(……今なら、抱きしめられるかもしれない)

けれど、圭人はそっと深呼吸をして、その感情を押し込めた。

(違う。俺はそんな男じゃない)

ブランケットを肩にかけ、そっと髪を撫でる。

「…おやすみ。起きるまで、そばにいるから。」

そして朝方、成美がふと目を覚ます。
ぼんやりと天井を見上げ、そして気づく。自分がバーのソファに寝ていることを。

「…私、寝ちゃった?」

「うん。結構飲んでたから。」

「…迷惑、かけたね」

「ううん。全然。むしろ、頼ってくれて嬉しかった。」

成美は立ち上がろうとするが、ふらつく。
すぐに圭人が支えた。

「今日は送るよ。閉店時間はとっくに過ぎてるし、酔ったまま帰すわけにはいかない。」

「…ありがとう。」

成美の声はか細くて、どこか壊れそうだった。
圭人は言葉を重ねず、黙って彼女の肩にそっと手を添えた。

夜の街を静かに歩く。
酔いのせいか、成美の足取りは頼りなく、何度もよろけるたびに、圭人の腕に寄りかかった。

やっとの思いでマンションに着いた頃、成美は突然、玄関の前でうずくまり──

「……ごめん、気持ち悪い……っ」

胃の中のものを吐き出した。

「成美、大丈夫…?」

圭人は驚きながらも、すぐに成美の背をさすった。
優しく、ゆっくりと。乱れた髪を手で押さえ、彼女の額に触れる。

「……ごめん、ほんとに、ごめんね……こんな姿……」

「謝らなくていい。つらかったんだろ。」

その瞬間、成美の瞳にまた涙が浮かんだ。

「……あんなに信じてたのに。 ずっとそばにいてくれた親友だったのに。 彼のことも、大好きだったのに……」

抑えていた感情が、溢れるようにこぼれ落ちる。
成美はその場に崩れ落ち、泣きながら圭人の胸元を握りしめた。

圭人は黙って成美の背中を抱き、ただ静かにそばにいた。

やがて、泣き疲れて眠るように成美はベッドに横たわった。
乱れた息、乾いた涙。
圭人は成美の髪を整え、ブランケットをかける。

(好きだよ、ずっと前から。でも……今じゃない)

そっと、成美の部屋の片隅で、圭人は座って夜が明けるのを待った。

――

朝。
淡い光がカーテン越しに差し込む頃、成美は目を覚ました。

ぼんやりと天井を見上げ、ふと横を見ると、椅子に座ったまま彼女を見守る圭人の姿があった。

「……圭人……ずっと、いたの?」

「うん。何かあったら困るから。」

「……昨日、ひどい姿、見せちゃったね。」

「成美が苦しんでるのに、かっこつけてられないよ。」

圭人の言葉が、すっと胸に染み込んだ。
誰よりも優しく、誰よりも誠実なまなざしだった。

「……圭人って、ほんとに……ずるいくらい、やさしい。」

成美はそっと身を起こし、圭人の顔を見つめた。
そして──ふいに、ゆっくりと、顔を近づけた。

「……手、出さないって思ってたけど、
こんなに優しくされたら……私、もう我慢できないかも」

唇が、触れそうな距離。 圭人の目が揺れる。

「成美……」

その名を呼んだ瞬間、成美の唇が、そっと圭人に触れた。

戸惑いと、長く抑えていた想いが重なり合って──
圭人も、ついに心を許すように成美を抱きしめた。

唇が深く重なり合い、温もりが肌から伝わる。
圭人の腕が、成美の背中をそっと引き寄せる。
胸と胸が触れ、鼓動が一つに重なっていく。

言葉では伝えきれない想いが、指先や吐息に宿る。
成美の頬に手を添えながら、圭人はそっと囁く。

「……ずっと、触れたかった。こうして、君を感じたかった。」

成美の瞳にまた涙が滲む。けれど、それは悲しみではなく、安堵と幸福の色をしていた。

「私も……ずっと、こうされたいって思ってたのかもしれない。」

抱きしめ合う腕に力がこもり、二人はまた口づけを交わした。
夜を越えたぬくもりが、朝の光に溶けていく。
肌に触れる指先が、心の奥まで届くように、優しく、確かにふれあって──

それは、慰めでは終わらない恋の予感。
傷ついた心にそっと寄り添い、癒して、そして新たに愛を育てていく──そんな、大人の恋の始まりだった。

END

あらすじ

バーテンダーの圭人はお客であるひとりの女性に心惹かれていた。
ある夜やってきた彼女はいつもと様子が違い…

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